幼馴染を溺愛する彼へ ~婚約破棄はご自由に~

佐藤 美奈

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第64話

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カイが謁見と長い会議を終え、心身ともに疲れ切った状態でゲストハウスに戻った時、彼の目に飛び込んできたのは地獄のような光景だった。

アイラの私室の扉は無残に破壊され、部屋の中は、まるで嵐が通り過ぎたかのように荒らされていた。そして、床には、彼の帰りを待っていたはずの侍女たちが気を失って倒れている。

「……っ!?」

その瞬間、時が止まった。頭から足先まで緊張が駆け抜け、さっきまで感じていた身体の重さが嘘のように消え去る。危機は、時として人を覚醒させる。まさに今のカイがそうだった。

「アイラッ!!!!」

部屋のどこにも愛する人の姿はない。代わりに、テーブルの上にぽつんと置かれた一枚の紙片が、彼の目に留まった。指先がかすかに震えるのを自覚しながら、それをそっと拾い上げた。視線を落とすと書かれていたのは、整った文章とは言いがたい乱れた文字列。そこには切迫した感情と、どうしようもない焦りが滲んでいた。

『カイ、迎えに来い』

その言葉を読んだ瞬間、全身を包んでいた沈黙が破れた。胸の奥で抑えていた感情が、不意に、糸が切れたように解き放たれる。思考よりも先に心が動いていた。

「……ああ」

言葉にできない想いが、彼の胸を満たしていた。ただ、その重さに耐えきれず唇からこぼれ落ちたのは、かすれた呻き声。まるで理性の底に眠っていた何かが目を覚ましたかのように。

怒気とも異なる研ぎ澄まされた“何か”が彼の全身から立ちのぼった。彼の身体から放たれた緊張感は、もう殺気という言葉すら生ぬるく、駆けつけてきた護衛の騎士たちの背筋を凍らせるには十分すぎた。理屈ではなく本能が、この男を刺激してはならぬと告げていた。

(いつもは穏やかで冷静な殿下が……ここまで怒りに身を震わせるとは……アイラ様は決して奪わせてはならぬ存在なのだと、今さらながら思い知らされる)

微笑みを絶やさぬ優しき王弟の面影は、微塵も残っていなかった。その眼差しは、夜の闇に潜むほのかな火のように、怒りを秘めながらも冷酷だった。まるで、愛を失った神が人間の姿を借りて降り立ったかのようだった。

「……アイラを連れ去るとは……一体、何者の仕業だ。まあ、誰であろうと生かしてはおかない」

カイは、すぐに騎士団長を呼びつけると、異様なまでに冷静な口調で次々に指示を与えた。その静けさこそが、何よりも恐ろしく誰もが息を呑んだ。

「王都の全ゲートを封鎖しろ。一人たりとも外に出すな。衛兵隊にも通達し、すべての宿、酒場、裏路地を徹底的に調べ上げろ。俺の直属の情報部隊も総動員だ。どんな些細な情報も見逃すな。犯人の人相、馬車の痕跡、目撃証言……使えるものはすべて使え。夜が明けるまでに、奴らの隠れ家を突き止めるんだ」

「は、はいっ!」

これは命令ではない“絶対”だ。カイの気迫が空気を震わせ、言葉を発する前に従わざるを得ない重みを背負わせてくる。歴戦の騎士団長さえも、ただ一つの返事を絞り出すので精一杯だった。

王弟の胸に燃え盛る怒りは、愛する者を失った痛みと共に、王都の隅々まで響き渡ろうとしていた。
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