幼馴染を溺愛する彼へ ～婚約破棄はご自由に～

第62話 誘拐編 影と光の狭間で

ひとたび風が吹けば、屋根が飛びそうな安宿の一室。壁紙の剥がれた部屋に、湿った空気と埃の匂いが立ち込めていた。壊れかけた椅子と、いびつに傾いたテーブル。その中央で向き合う男と女の瞳には、怒りと未練、そして決して言葉にならない何かが入り混じっていた。

「……もう、嫌。こんな生活、もう嫌よ……！」

崩れかけた木製のベッドの上で、ローズは膝を抱き締めるようにして泣いていた。かつて男爵令嬢として、絹のドレスに身を包み微笑んでいた面影は、今やぼんやりとした幻となり、擦り切れた布地と頬の痩けた輪郭が、落ちた地位の残酷さを雄弁に語っていた。彼女の涙は、名誉よりも何よりも、自分自身を見失ってしまったことへの悔しさに濡れていた。

「公爵邸の、あの物置部屋ですら天国だったわ……毎日温かいスープが飲めて、ふかふかのベッドで眠れた……どうして、こうなっちゃったの……！」

「うるさいッ！！」

怒鳴り声が鋭く響いたその瞬間、部屋の空気がひとつ凍りついた。オリバーはもう、理性の仮面を被ることすら忘れていた。声を荒げるその姿には、かつての気高き王子の影は欠片も残っておらず、荒んだ髭面と鋭利な視線が、むしろ獣じみた威圧感を放っていた。

「過去を振り返ってどうする！　あんなことになったのは、全部あいつらのせいだろうが！」

「でも！」

「でもじゃない！　俺たちは、あの女……アイラと、あのいまいましい王弟殿下に、すべてを奪われたんだ！　地位も！　名誉も！　帰る場所も！」

オリバーの拳が壁に叩きつけられた瞬間、乾いた音が部屋中に弾け飛んだ。古びた壁は、その一撃に悲鳴を上げるように軋み、剥がれた壁の白い破片が、重力を忘れたかのようにゆっくりと空中を漂った。抑えきれない感情の爆発というより、理性がぎりぎりのところで崩れ落ちた証のようだった。

「アイラの弱みを握ったつもりで、逆に追放されるなんて、こんな屈辱があるか！」

ローズは肩を小さく震わせ、目に見えぬ冷気に触れたかのように、ゆっくりとその身体を内側へとたたみ込んだ。動きは静かであったにもかかわらず、それはあまりにも痛々しく感じられる。

「もう、やめましょうよ、オリバー。復讐なんて……私たち、どこか遠い町で、静かに暮らせないのかしら……」

「黙れッ！！　静かに暮らすだと？　誰のおかげで、俺たちがこんな惨めな暮らしをしてると思ってるんだ！　許せるものか……絶対にだ！　俺は、俺たちからすべてを奪ったあの二人を、同じ地獄に引きずり下ろしてやる……！　俺たちが味わった絶望を、骨の髄まで味あわせてやるんだ！」

その目に映っていたのは、人を人とも思わぬ感情の渦だった。理性のかけらもないその眼光は、濁った赤黒に染まり、怨念と狂気の入り交じった光を放っていた。ローズは震えながらその視線に圧され、意識すら遠のくような感覚の中で、ただ頷くことしかできなかった。

彼らが抱えるその呪わしい復讐の計画が、遠く離れた場所で幸せの絶頂にいるアイラとカイの背後に、音もなく影を落としていることなど知る由もなかった。