「幼馴染が妊娠したから結婚は無理」彼に嘘をつかれ、婚約破棄の責任を押しつけられた

佐藤 美奈

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第4話

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「違う……私は、そんなこと……!」
 
やっとの思いで絞り出した声は、誰の耳にも届かない。

「まだ言い逃れをするか! お前のような女が、これまで公爵令嬢として、私の隣にいたこと自体が恥だ! お前なんか、貴族じゃない!」

エリックが怒りに顔を歪め、私に詰め寄ってきた。その言葉が、私の心の最後の砦を打ち砕いた。幼い頃から、公爵家の令嬢として、そして国の未来を担う王子妃として、どれだけの努力を重ねてきたか彼にはわかっていないのだろう。作法も、教養も、政治も、経済も、全てを学び、全てを身につけてきた。それらは、ただひとつ、彼の隣に立つにふさわしい女性になるためだった。その全てを、彼は一言で否定した。

誰かが突然、私の背中を突き飛ばした。予期しない衝撃に、私はよろめきながらバランスを崩し、慌てて床に手をついた。その瞬間、手のひらが冷たい床に触れ痛みが走ったが、それ以上に心の中で何かが崩れる音がした。
 
「土下座しろ!」
「そうだ、ロザミア様とお腹の子に謝罪しろ!」
「イリア嬢、今すぐ謝れ!」
「すぐに謝罪しろ! 貴様の罪は深い!」
「貴族としての品位を持っているのか!」
「膝をついて謝れ、さもなくば許さない!」
「ロザミア様とその子に、謝罪の意を示せ!」
「その態度を改め、ロザミア様に詫びるべきだ!」

罵声がまるでシャワーのように私に降り注いでいた。耳をふさぎたくなるほどのその声の中で、ふと顔を上げると、エリックとロザミアが私を見下ろし、勝ち誇った表情を浮かべていた。その傍らには、彼らの親族と思われる貴族たちが、満足げに頷きながらその光景を見守っている。

彼らは、この茶番劇が真実であるかのように信じきっている。いや、彼らは信じたいのだ。王子が婚約者である私を捨てて他の女性に走ったという醜聞を、被害者である私を悪者に仕立て上げることで、あたかも美談に変えようとしているのだ。

ああ、なんて滑稽な状況だろう。あまりの理不尽さと裏切りに、私は言葉を失い涙さえも枯れ果ててしまった。心の中の感情は、まるでどこか遠くへ逃げてしまったかのように感じられ、ただ無力に立ち尽くしている自分がいるだけだった。

その時、突然だった。会場に響く音を遮るように、一人の紳士が手に持っていた赤ワインのグラスを、ためらうことなく私の頭上に傾けた。次の瞬間、冷たい液体が私の髪を伝い顔にかかる。

――ざあぁっ、と、ワインが音を立てて降り注ぎ、私の視界が一瞬で赤く染まった。

生ぬるい液体が、私の髪を顔を、純白のドレスを見るも無残な赤に染めていく。葡萄ぶどうの甘ったるい香りが鼻をつき、私の全身に重く絡みついた。しずくが顎を伝い、ぽたぽたと床に落ちるたびに、その音が耳に響き私はただ無力に立ち尽くしていた。

もう、どうでもよかった。プライドも、誇りも、恋も、未来も、何もかも。すべてが崩れ去ったような気がして、心の中にあったはずの希望や憧れは、もう遠くに消え去っていた。

私はゆっくりと立ち上がった。ワインで張り付いた前髪の隙間から、怪物のような目で私を見つめるエリックと、その腕の中で庇護される元親友、ロザミアの姿が目に入った。彼らの冷徹な視線が、私の心をさらに深く切り裂くように感じられた。

「……」

何も言うことはなかった。言うべき言葉など、もう一つも残っていなかったから。私の胸の中には、ただ空虚な沈黙だけが広がっていた。無駄にすることなく、その光景を、この屈辱的な瞬間を、心の奥深くに刻み込むように、ただじっと見つめていた。

そして、心に決めたように、静かにその場を後にした。誰一人として、私を止めようとはしなかった。
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