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第6話
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「……領地に行かせてください。北の、一番端にある、あの古い屋敷に」
「イリア……」
「もう、王都にはいられません。社交界も、貴族社会も、何もかも、もうこりごりです」
私の声は、驚くほど落ち着いていた。まるで心の中に渦巻く混乱や怒りが、すでにどこかへ消え去ったかのように、冷静で静かな響きがあった。自分でも気づかぬうちに、私は全てを受け入れ次に進む準備が整っていたのだろう。
「私は、死んだのです。エリック王子の婚約者だったイリアは、今夜、死にました。これからは、ただのイリアとして、一人で生きていきたいのです」
父は、深く長い溜息をついた。目を閉じたまま、しばらく何も言わず、静かにその重みを感じ取るようだった。その表情には、言葉にできない思いが込められているように見えた。
「……国王陛下と王妃殿下が、外遊から戻られるまでだ。それまでなら、許そう」
エリックの両親である国王夫妻は、聡明で公正な人たちだ。彼らがこの事態を知れば、間違いなくエリックを許しはしないだろう。しかし、今の私にはそんなことはどうでもよかった。裁きも、名誉の回復も、もう望んではいない。
私が求めているのはただ一つ。全てを忘れ、静かな場所へと身を隠すことだった。もう、誰にも見られず、誰にも判断されず、ただ一人で過ごす時間が必要だった。
「ありがとうございます、お父様」
翌日、私は夜明け前に、たった一台の馬車で公爵邸を後にした。静寂な朝の空気を切り裂いて、馬車はゆっくりと出発した。向かう先は、クライスト公爵領の北の果て。冬になると厳しい雪に閉ざされ、忘れ去られたような誰も訪れない土地だった。
馬車に揺られながら、私は王都の景色が次第に遠ざかっていくのを感じていたが、一度もその景色を振り返ろうとはしなかった。もう、あの街や人々のことを思い出すことさえも無意味に感じていた。ただ前を向き、どこか遠くへ行くだけで、心が少しだけ軽くなるような気がした。
北の屋敷での生活は、静かで穏やかな日々だった。ダンスも、夜会も、息苦しいコルセットもない。私は、装飾の少ないシンプルなドレスをまとい、髪を無造作に束ねて過ごしていた。朝は、小鳥のさえずりで目を覚まし、軽やかな気持ちで庭へと出て、手を伸ばしてハーブを摘んだ。
昼は、書庫にこもり、埃をかぶった古い本を次々と読み漁ることで時間が過ぎていった。天気の良い日には、馬を駆って広がる森を散策し、自然の中で心をリセットするのが楽しみだった。周囲の喧騒とは無縁の、この静寂な生活が心を癒してくれた。
誰の視線も気にすることなく、ただ自分のためだけに時間を使う。そんな当たり前のことが、これほどまでに心地よいものだとは、私はこれまで知ることがなかった。何もかもが静かで、誰かに縛られることのない自由な時間が心を満たしていった。
少しずつ、本当に少しずつではあるが、私の心は癒されていった。傷がなくなったわけではない。あの夜の屈辱は、今も胸の奥で鈍く痛み続けている。しかし、その傷の上に、新しい皮膚が少しずつ張っていくような、そんな不思議な感覚があった。
私は、生まれ変わるのだ。誰かに依存することなく、自分の足でしっかりと大地に立ち、今度こそ新しい私を生きるのだ。もう二度と、誰かのための人形になったりはしない。そう固く心に誓った。
「イリア……」
「もう、王都にはいられません。社交界も、貴族社会も、何もかも、もうこりごりです」
私の声は、驚くほど落ち着いていた。まるで心の中に渦巻く混乱や怒りが、すでにどこかへ消え去ったかのように、冷静で静かな響きがあった。自分でも気づかぬうちに、私は全てを受け入れ次に進む準備が整っていたのだろう。
「私は、死んだのです。エリック王子の婚約者だったイリアは、今夜、死にました。これからは、ただのイリアとして、一人で生きていきたいのです」
父は、深く長い溜息をついた。目を閉じたまま、しばらく何も言わず、静かにその重みを感じ取るようだった。その表情には、言葉にできない思いが込められているように見えた。
「……国王陛下と王妃殿下が、外遊から戻られるまでだ。それまでなら、許そう」
エリックの両親である国王夫妻は、聡明で公正な人たちだ。彼らがこの事態を知れば、間違いなくエリックを許しはしないだろう。しかし、今の私にはそんなことはどうでもよかった。裁きも、名誉の回復も、もう望んではいない。
私が求めているのはただ一つ。全てを忘れ、静かな場所へと身を隠すことだった。もう、誰にも見られず、誰にも判断されず、ただ一人で過ごす時間が必要だった。
「ありがとうございます、お父様」
翌日、私は夜明け前に、たった一台の馬車で公爵邸を後にした。静寂な朝の空気を切り裂いて、馬車はゆっくりと出発した。向かう先は、クライスト公爵領の北の果て。冬になると厳しい雪に閉ざされ、忘れ去られたような誰も訪れない土地だった。
馬車に揺られながら、私は王都の景色が次第に遠ざかっていくのを感じていたが、一度もその景色を振り返ろうとはしなかった。もう、あの街や人々のことを思い出すことさえも無意味に感じていた。ただ前を向き、どこか遠くへ行くだけで、心が少しだけ軽くなるような気がした。
北の屋敷での生活は、静かで穏やかな日々だった。ダンスも、夜会も、息苦しいコルセットもない。私は、装飾の少ないシンプルなドレスをまとい、髪を無造作に束ねて過ごしていた。朝は、小鳥のさえずりで目を覚まし、軽やかな気持ちで庭へと出て、手を伸ばしてハーブを摘んだ。
昼は、書庫にこもり、埃をかぶった古い本を次々と読み漁ることで時間が過ぎていった。天気の良い日には、馬を駆って広がる森を散策し、自然の中で心をリセットするのが楽しみだった。周囲の喧騒とは無縁の、この静寂な生活が心を癒してくれた。
誰の視線も気にすることなく、ただ自分のためだけに時間を使う。そんな当たり前のことが、これほどまでに心地よいものだとは、私はこれまで知ることがなかった。何もかもが静かで、誰かに縛られることのない自由な時間が心を満たしていった。
少しずつ、本当に少しずつではあるが、私の心は癒されていった。傷がなくなったわけではない。あの夜の屈辱は、今も胸の奥で鈍く痛み続けている。しかし、その傷の上に、新しい皮膚が少しずつ張っていくような、そんな不思議な感覚があった。
私は、生まれ変わるのだ。誰かに依存することなく、自分の足でしっかりと大地に立ち、今度こそ新しい私を生きるのだ。もう二度と、誰かのための人形になったりはしない。そう固く心に誓った。
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