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第一章

5. よからぬ噂

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「イザベル、今日は遅かったな。何かあったのか」
「……お待たせして申し訳ございません。ノートを集めて職員室に運んでいたのです」
「それならいい」

 学園のサロンは、三年特Aクラスであるジークフリートも利用している。
 ジークフリートはサロンの一番高級なソファに座り、イザベルに隣に座るように目で促した。深紅のソファに背中を預ける姿は、なかなか様になっている。

(それもそのはず。だって、授業を抜け出したヒロインと密会するスチルで初登場した、あのソファだもの!)

 前世の記憶を思い返し、イザベルは胸が熱くなった。
 つい先週までは普通のソファだったものでさえ、ゲームのファンという視点が加わると、全く違ったものに見えてくる。
 これで興奮するなという方が無理な話である。
 もし悪役令嬢ではなく、ヒロインに転生していたら、あのイベントでしか見る機会はなかったはずだ。反対に、イザベルは悪役令嬢なので毎日見ることができる。
 もはや、役得以外の何物でもない。

(これもゲームのプレイでは味わえない「悪役令嬢の特権」ってやつかしら)

 お昼時間のサロンは、楽しそうな話し声でにぎわっていた。
 部屋のあちこちに一流品の家具が置かれ、大きな談話室になっている。ランチは専用の給仕がおり、食事用のテーブル席も別に用意されている。
 隣接する形で温室もあり、季節の花を見ながらお茶を楽しむスペースも設けられている。
 サロン内を見渡すと、ジェシカは先輩のお姉様方と楽しく歓談中、クラウドは手前のソファで読書タイムに勤しんでいた。
 レオンの姿は見えない。学園一の権力があるはずの第二王子は、裏庭で昼食を一人きりで摂っているに違いない。

(そういう設定のキャラだから仕方ないとはいえ、なんだか不憫だわ。約束もしたし、あとでちゃんとデザートを届けないとね……)

 機会を見て一緒に食べるように説得しよう、とイザベルは心に誓う。
 ジークフリートの横に座ると、給仕係のメイドが昼食の準備を始めた。
 一般生徒が利用する学食とは違い、サロンでは基本的に出されるものを食べるスタイルだ。要望があれば事前に伝えておけば、何でも用意してくれる。
 高級な食材をふんだんに使ったサンドイッチが用意され、イザベルは手を伸ばす。ジークフリートはすでに昼食を済ませていたらしく、珈琲を飲んでいた。

「そういえば、リシャールは最近どうしたんだ? しばらく見かけないが」
「ああ……家では、変わらずわたくしのお世話をしてくれているのですが……。休日はお父様のお仕事の手伝いや、お母様の買い物の付き添いにかり出されているようですわ」

 服を着替えたあと、毎朝イザベルの髪を整えるのはリシャールの仕事だ。櫛で丁寧に髪を梳き、毛先を見事なカールに巻いてくれる。
 王宮御用達のエッセンシャルオイルをなじませ、毎日欠かさずケアをしてくれるだけあって、イザベルの髪は美しさに磨きがかかっている。陽光で艶やかさが際立つのは、ひとえにリシャールの努力のたまものと言っていいだろう。

(あの子、前世なら美容師に向いているのではないかしら……)

 ふう、息をつくと、ジークフリートが気遣うように言う。

「リシャールは優秀な執事だものな」
「とはいっても、まだ見習いなのですけど」
「そうだったか。……しかし、まだ慣れないな。君のそばには、いつも彼がいただろう。高等部から離ればなれになって、何か不都合なことはないのか?」

 イザベルが高等部に進学して一ヶ月が経つ。一歳下のリシャールは中等部に通っている。校舎は道路を挟んだ真向かいなので、会おうと思えばすぐに会える距離だ。
 しかし、適度な距離感も必要だとイザベルは考える。

「いいえ、特に問題はありません。というより、過保護すぎるのも問題だと思います。あの子はわたくしに甘いのですから」
「まあ……それは否定しないが」

 いつだって、彼の仕事は完璧だ。ただ、完璧すぎるのも問題だ。
 何かを言う前に先回りしてくれる気遣いはいいのだが、イザベルが望むのはもっとフラットな関係だ。

「ところで、イザベル。フローリアについて、何か知っていることはないだろうか」
「……知っていることですか?」
「ああ。最近、彼女が嫌がらせされているという噂を何度か耳に挟んだ。父親が成り上がり男爵だから所詮は庶民、と揶揄されているらしい。あることないことが噂に乗って流れ、その噂を鵜呑みにした人の反感を買っているようだな」

 その噂ならイザベルも聞いたことがある。というより、ゲームで何度もプレイしたため、何が起こったかは聞くまでもなく熟知している。
 けれど、その噂の詳細を話すわけにもいかない。
 さて、どう答えるか。考えこむイザベルに救いの声が届く。

「あ、それなら私、知っていますよ」
「ジェシカ?」

 聞き耳を立てていたのか、ジェシカがソファの背もたれから身を乗り出す。
 イザベルと目が合うと、安心させるように片目をつぶった。

「普通科クラス在籍のフローリア・ルルネ男爵令嬢ですよね? 学園の噂なら、一通り把握しているつもりですよ」

 さすが、学年問わず女生徒と親睦を深めているだけはある。もしかしたら、彼女は学園内の情報を得るために、女生徒を口説いているのかもしれない。

(……いや、ないない。口説き文句がすらすらと出てくるのは、ジェシカの仕様の問題だわ)

 とはいえ、なぜ運営は彼女をこんな設定にしたのか。美少女に口説かれるシチュエーションという、逆パターンの萌えを狙ったのだろうか。

「ジェシカ。知っていることを聞かせてくれ」

 ジークフリートは真剣な声で続きを促す。その横顔を見て、イザベルは胸がざわめく。

(やっぱり、この前のイベントで親密度が上がっている? だから今まで気にしていなかったフローリア様の噂を気にするようになった?)

 親密度のパラメーターをジャッジしていると、ジェシカが淡々と説明を始める。

「嫌がらせのレベルは、当初はまだ可愛げがあったみたいですけど、今週からその行為はエスカレートしつつあるみたいです。今日も朝一から不幸な連続とでも呼べばいいのでしょうか。散々な目に遭ったみたいですね」
「……なんだと?」
「風の噂によると、ジークフリート様から薔薇の花束を受け取ったことが原因とか」

 イザベルは頭が痛くなった。

(なんていうこと……。わたくしの他にも目撃者がいたなんて……)

 ジェシカいわく、婚約者であるイザベルを差し置き、白薔薇の貴公子から白薔薇を贈られ、庶民のくせに横恋慕するとは生意気な、というのが令嬢らの言い分らしい。
 弱肉強食の貴族社会において、こういうことは珍しくはない。
 しかし、フローリアの行動によって、イザベルの未来は変わる。彼女にとってよくないことが続く状況は看過できない。乙女ゲームのシナリオを回想し、ヒロインの立ち位置を思い出す。

(ゲーム内ではヒロイン自身に落ち度はなく、むしろ貴族社会に早く慣れようと努力していたはず)

 困難に負けず、ひたむきに頑張る姿に同性として何度勇気づけられたか。
 悪役令嬢としては直接話したことはないが、フローリアが悪くないのはよく知っている。
 彼女に仇なす者はイザベルの敵だ。

      *

 お昼休憩の終わりかという頃、イザベルは裏庭にいた。
 レオンの姿はすぐに見つかった。彼は制服を着崩し、桜の木の下でうたたねをしていた。残念ながら花はもう散ってしまったが、古くからある桜の木は立派で、初夏の日差しを遮るように大きな木陰を作っていた。

(待ちくたびれてしまったのかしら……)

 膝を折り、イザベルはレオンの顔をのぞき込むようにして言った。

「レオン王子、お待たせしました。今日のデザートですわ」
「っ……」

 レオンは飛び起き、イザベルをビシッと指さした。

「おま……不用意に顔を近づけるな! びっくりするだろ!」
「え、それは申し訳ございません」

 悪気はなかったのだが、不快に思われたのなら仕方ない。イザベルが反省すると、レオンはいたたまれないように、あー、と声を濁した。

「悪い。少し言い過ぎた」
「いえ、わたくしに配慮が足りませんでした……」
「次から気をつけてくれれば、それでいい」

 ぶっきらぼうだけど、優しさのある言葉だった。

「ありがとうございます。じゃあ、今日の賄賂、ここに置いておきますね」
「……おい待て、これはいつから賄賂になったんだ」
「あら、いけない。つい口が滑ってしまいましたわ」
「……賄賂……だったのか。俺は餌づけされていたのか」

 驚愕の事実を知ったように、レオンはうなだれた。現実から目をそらし、青空を見つめる表情には哀愁が漂う。
 これはやりすぎたかしら、とイザベルは今度こそ反省した。

「賄賂は冗談ですよ、王子。これは友人としてのお裾分けです。だって、おいしいものを独り占めするより、気心の知れた友人と一緒に食べたいじゃありませんか。おいしいものを食べて幸せになる気持ち、誰かと共有したくなりません?」

 ありのままの気持ちをそのまま伝える。
 レオンをこうして気にかけるのは、友人として彼が好きだからだ。そこには王子だからとか、第一王子と比べられてかわいそうだからとか、そういう感情はない。
 イザベルにとって、目の前の彼はただの友達の一人にすぎない。
 その気持ちが通じたのか、レオンはしょうがないな、とイザベルが持ってきたバスケットからベリータルトを取り出す。

「食べるのがもったいないくらい、きれいだな」
「……召し上がらないなら、わたくしがいただきますよ?」
「食べないとは言っていない!」

 危機感を募らせた王子はかぶりつくようにして食べる。その姿を微笑ましく見つめた後、イザベルも残っていたタルトに手を伸ばす。
 ぎっしりとフルーツが詰まったタルトは食べた瞬間、クリームの甘さとフルーツの酸っぱさが合わさり、幸せな気分に包まれた。サクリと音を立てる、生地の香ばしさも言うことなしだ。
 イザベルがフルーツを落とさないように慎重に食べている間に、ぺろりと完食したレオンはしみじみとつぶやく。

「……俺が言うのも何だが、お前ってマメだよな」
「褒め言葉として受け取っておきますわ」

 他愛のない会話をしながら、イザベルは悩む。

(自滅フラグ回避の対策も必要だけど。まずは今の状況を確認しておく必要があるわね。でも、うっかりヒロインと邂逅! なんて事態にならないようにしなきゃ……。それこそ悪役令嬢のフラグになりかねないもの)

 うららかな日差しの中、イザベルの懸念は増えるばかりだった。
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