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21 贅沢な日常
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慰安旅行の前日。俺は少し早めの帰路についていた。
……とは言え、いつもが遅すぎるだけであり、既に帰宅ラッシュも終わっているような時間なのだが。
結局何だかんだとバタバタしたまま旅行前日を迎えてしまった。やはり予定通りにはいかないものである。
何とか仕事の方は一段落付けて来たものの、代わりに旅行の準備は全く出来ていなかった。これから荷造りをしなければいけないと思うと気が重い。
「……ん?」
げっそりとした気分で家に続く道のりを歩いていると、遠くの方から聞き慣れたエンジン音が近づいてきた。
振り向けば、銀のセダン。この辺りでは他に乗っている人を見かけない、月島の愛車だ。
案の定、スモークガラスの向こう側には見慣れた姿があった。
「こんなところで何やってるんだよ」
「とりあえず乗りたまえ。送りがてら話そう」
促されるまま助手席に乗り込んで、シートベルトを締める。
疲れ切っていたところだったので、送ってもらえるのは素直にありがたい。
しかし、どうしてこんなところに居たのだろうか。その疑問をぶつけると、意外な答えが返ってきた。
「いやなに、君のことだから明日の準備などまるでしていないだろうと思ってな。代わりに詰めてきた」
「……は?」
言っていることが分からない。代わりに詰めてきた?
……。
まさか、俺の分の荷造りをしてきたというのか、この男。
「そのまま旅行に持って行ってもらっても問題ない程度には準備してある。特段必要な物があれば好きに追加してくれ」
「……まさかとは思うが、お前の服とかタオルとかが詰まっている訳じゃあるまいな。流石にサイズが合わないだろ」
「安心してくれ、スーツケースから下着に至るまで全て新品だ。特に衣服については君に着て欲しい物を買い揃えてきた」
「…………」
一体何処に安心できる要素があるというのだろうか。説明して欲し……くはないな。
疲れているんだ、俺は。これ以上疲れそうなことは勘弁だった。
問いただすことはせず、心なしか楽しそうな横顔を睨みつけるだけに留める。
まあ、荷造りする手間が省けたのはいい。そう考えてこの話題は打ち切ることに決めた。
それより、もう一つ気になっていることがある。
「お前、さっき駅の向こうから走って来ただろ。家はこの近くじゃなかったのか?」
「ああ、それも追い追い説明しよう」
「うわ……」
毎度抱きに来る度に泊まっていくため、もしかして、とは思っていたが。やはり月島の家はそんなに近くないのかもしれない。
コイツは俺にどれだけの隠し事を重ねているのだろうか。
「……お前のことは、何処かで一度問い詰めておいた方が良さそうだな」
「その時はお手柔らかに頼むよ」
「覚悟しておけよ……」
ドスを効かせた声で凄むが、月島が意に介した様子はない。大した面の皮である。
呆れている間に、俺の住むマンションが見えてくる。
慣れた様子で入庫を済ませ、ゲスト用の駐車スペースに陣取った月島は、トランクからスーツケースを2つ取り出した。
両方とも全く同じデザインだ。革張りで高級感がありつつも、クラシックな雰囲気で下品ではない。いかにも月島が好きそうな部類である。両者の異なる点といえば、色だけだ。
月島はロイヤルブルーのスーツケースを俺に差し出すと、自分はワインレッドの方を引いて部屋へと歩き出した。
仕方なく俺もスーツケースを受け取って後に続くが、口の端が引き攣るのを抑えられなかった。
「お、お揃いかよ」
「これで悪い虫も減るだろう」
「いくら何でも露骨過ぎないか?」
「それくらいで丁度いい。君は自分の魅力を知らなさすぎるんだ」
「……」
あまりにもストレートな月島の言葉に、何も言えなくなって顔を覆う。
ちょっと前まではあれだけ嫌味を垂れ流し、婉曲的な表現を多用していたというのにどうしてこうなった。
この男に直球で来られるとギャップが激しくて対応しきれないので、慣れるまでは程々にしておいて欲しいものである。
「……どうした、鍵でも無くしたか?」
「何でもねーよ」
不思議そうに首をかしげている月島を押しのけ、部屋の鍵を開ける。
リビングでスーツケースを広げて一応中身を確認したところ、月島の仕事だけあって、荷物は完璧に詰められていた。
「……ああ、なんだ……まあ、助かるわ」
「どういたしまして」
歯切れ悪く礼を言い、ワックスや歯ブラシなどを放り込んで再びスーツケースを閉じる。
そうしてさっさと部屋の隅に追いやって、汗を流すべく立ち上がった。
「俺、シャワー浴びてくるけど。お前は?」
「もう済ませて来たから待っている。今日は泊めてくれるか?」
「元からそのつもりで来たんだろ。……久々に楽しませてくれよ」
「君は……煽ってくれるな」
待ちきれなさそうに伸びてきた月島の手をかわし、リビングを後にする。
恨みがましそうな視線を背中で受け流し、洗面所に続く扉に手をかけた。
「待て、だよ。月島君」
「……!」
いつか月島に言われた台詞を口調まで真似て返してやれば、月島は我慢ならないといった様子で立ち上がった。
しかし、にんまりと笑って扉を閉める。
「まったく、待てが出来ないのはどっちだかな?」
「……君ってヤツは」
「ふっ、久々だから柄にもなくはしゃいでるんだ。許せよ」
扉越しに囁いて、ご機嫌でシャワーに向かう。
やはり月島が余裕を失う様は、いつ見ても俺の心を沸き立たせる。これくらいの意地悪は許して欲しかった。
「あーあ、意地の悪い顔してるわ」
風呂場の鏡に映った己の表情を見て、思わず苦笑が零れる。
しかし、今頃リビングでは、おあずけを食らった月島が落ち着かないひと時を過ごしていると思うと笑いが止まらない。
結局俺は緩んだ顔のまま、いつもよりゆっくりと風呂を堪能した。
「……篠崎君」
洗面所の扉の先には、仏頂面の月島が待ち構えていた。髪を乾かす暇も与えられずに寝室へと連れ込まれていく。
そのまま性急に押し倒され、身に纏ったばかりのタオルや下着をあっという間に剥ぎ取られてしまった。
薄く笑って挑発すれば、濡れて額に張り付いた髪を掻き上げられて眉間に軽い口づけを落とされる。
「ちゃんと待っていたのだから、御褒美をくれるんだろうな?」
「……っう」
こそばゆいくらい優しい月島の指先が、脇腹から太ももまでゆっくりと辿っていく。そのまま脚の付け根を撫でられ、思わず吐息が漏れた。
欲望に満ちた目に食い入るように見詰められて、どうしようもなく高揚してしまう。
「私がお利口に待っているのは、御褒美をもらうためだよ」
かさついた月島の唇が俺の首筋に触れ、甘い噛み跡と熱い吐息を残していく。
「『待て』の後には、『よし』と言うのがセットだろう?」
胸の飾りを掠めるように月島の指先が円を描く。
頑なに性感帯に触れようとしないのは、『待て』をしているからなのだろうか。
もどかしさに身じろぎした拍子に、月島の熱が膝に触れる。
それは布越しでも分かるほど存在を主張しているというのに、月島は律義に『待て』を続けている。
「篠崎……」
刺激を受けて切羽詰まった顔をした月島が、低く獰猛に唸る。
その姿はさながら餌を前にした大型犬のようで、俺は知らず知らずのうちに生唾を飲み込んでいた。
この場合、食い荒らされる餌というのは――俺だ。
「は……ッ」
自分の言葉で、自分の意志で、この男の枷を外してやるのだと意識した瞬間、今この瞬間だけは月島を支配しているという歪んだ興奮で身が震えた。
徐々に昂っていく欲望を解放してやったとき、どれほど荒々しい熱に襲われるのだろうか。
緊張か興奮か分からないもので乾いた唇を一舐めして、俺は繋いだリードを手放した。
「月島……よし」
「――ッ」
言い終わるか終わらないかの内に、貪るような口づけが降ってきて俺の言葉を奪う。
今夜は、長い夜になりそうだった。
◆
軽い電子音で目を覚ます。
反射的に目覚まし時計を叩いてみたが、音がやむ気配はない。音は、何処か遠くで鳴っているようだった。
「ぐ……」
気にはなったが、全身が鉛のように重く、音の原因を探しに行く気にはならない。
仕方ないと諦めて、蹴飛ばした布団を手繰り寄せ、頭まですっぽりと被って二度寝を決め込んだ。
少し、肌寒い。
冷えた体を温めようと傍にあるはずの温もりを探したところ、ベッドの上には自分だけが取り残されていることに気が付いた。
「つきしま……?」
渋々、重い瞼をこじ開けて辺りを見回す。ベッドの上に月島の姿が無い事を確認してから、その下も覗き込む。
……落ちてはいない。
この歳になって初めて知ったことだが、俺の寝相はあまり良いとは言えないらしく。
一度月島を蹴り落したこともあったけれども、今回は違うようだ。
ぼんやりと、月島の姿を求めて周囲を見回す。
見慣れたハズの自分の部屋が妙に広く感じられ、布団の誘惑よりも寂しさが勝ってリビングへと歩を進めた。
「おはよう、篠崎君」
「はよ……」
扉の開く音でこちらを振り返った月島を見て、自然と笑みが零れる。
朝起きた時に誰か居るというのは、やはり嬉しい。
「もう少しで朝御飯が出来るから待っていてくれるか?」
「おう……」
言われたとおり、大人しく食卓について月島を待つ。
先ほどの電子音はキッチンタイマーの音だったのだろう。
月島と過ごす時間が長くなってから、俺は少しずつ月島に料理を教えていた。
アイツの性格に合わせて、これは何火で何分だなどと示してやるのは骨が折れたが、そんな必死の教育が実を結んで、今では簡単な料理ならこなせるようになっていた。
今では月島の料理が食卓に並ぶ頻度も増えているのだが……誰かの手料理を食べるというのは、まだ慣れない。
何だか少し、浮足立ってしまうのだ。
「待たせたな」
「さんきゅ」
まだ夢うつつな状態で微睡んでいるうちに、配膳が済まされていく。
チーズを乗せて焼いたトーストに、ハムエッグとコンソメスープ。レシピ本を前にキレていた頃からこれだけ作れるようになったのだから上等である。
「いただきます」
しっかり手を合わせてから食事を始める。寝起きの身体に温かな食事が染み渡った。
「あー……美味いわ」
「簡単なものばかりで申し訳ないがね」
「朝メシを作ってもらえて、人と一緒に食えるってだけで最高だよ」
サクサクとトーストを食みながら笑えば、月島が嬉しそうな顔で応える。
ただそれだけのことが堪らなく幸せに感じた。
「ごちそうさまでした」
食事を終え、私服に着替えてスーツケースを手に取る。
半分仕事とはいえ、今日は慰安旅行。服装はラフなものである。ネイビーのサマーニットに黒のスキニーパンツ。動きやすさを重視した格好だ。
一方の月島は、仕事の時とさほど変わらないジャケットスタイルである。イメージどおりではあるが、この男の辞書に息抜きという言葉があるのか疑問に思う。
だが、髪型だけはいつもと違った。
俺の好みを知ってから、休日はラフな髪型で過ごすようになったのだ。
長めの前髪がさらりと揺れる様を見て、やはり髪を下ろしている方が似合うとしみじみ思う。
「私の顔に何か付いているか?」
「いや別に。今日も憎たらしいほどイケメンだよ」
「お褒めにあずかり光栄だ」
気障っぽく前髪を払いながら、月島が嬉しそうに胸を張る。
この男は、時折驚くほど素直で分かりやすい。
月島の言葉で俺が変わったのと同じように、俺の言葉も月島に影響を与えているのは、悪い気はしなかった。
「ところで。俺、旅行の日程を全く知らないんだが」
「私が把握しているから安心したまえ。問題ない」
「あ、そ。お前がそういうなら大丈夫だな。よろしく頼むわ」
どうせこの男は、旅行中ずっと張り付いているつもりなのだろう。高性能なナビが傍についているのなら問題ない。
……お揃いのスーツケースを転がして男二人連れ立って歩くというのは、若干外聞が気になるところだが。楽しそうな月島の姿を見ていると、何も言えなかった。
鼻歌でも歌いだしそうなほど浮足立った月島の背を追って、俺は何の疑問も持たずに月島の車へと乗りこんだ。
……とは言え、いつもが遅すぎるだけであり、既に帰宅ラッシュも終わっているような時間なのだが。
結局何だかんだとバタバタしたまま旅行前日を迎えてしまった。やはり予定通りにはいかないものである。
何とか仕事の方は一段落付けて来たものの、代わりに旅行の準備は全く出来ていなかった。これから荷造りをしなければいけないと思うと気が重い。
「……ん?」
げっそりとした気分で家に続く道のりを歩いていると、遠くの方から聞き慣れたエンジン音が近づいてきた。
振り向けば、銀のセダン。この辺りでは他に乗っている人を見かけない、月島の愛車だ。
案の定、スモークガラスの向こう側には見慣れた姿があった。
「こんなところで何やってるんだよ」
「とりあえず乗りたまえ。送りがてら話そう」
促されるまま助手席に乗り込んで、シートベルトを締める。
疲れ切っていたところだったので、送ってもらえるのは素直にありがたい。
しかし、どうしてこんなところに居たのだろうか。その疑問をぶつけると、意外な答えが返ってきた。
「いやなに、君のことだから明日の準備などまるでしていないだろうと思ってな。代わりに詰めてきた」
「……は?」
言っていることが分からない。代わりに詰めてきた?
……。
まさか、俺の分の荷造りをしてきたというのか、この男。
「そのまま旅行に持って行ってもらっても問題ない程度には準備してある。特段必要な物があれば好きに追加してくれ」
「……まさかとは思うが、お前の服とかタオルとかが詰まっている訳じゃあるまいな。流石にサイズが合わないだろ」
「安心してくれ、スーツケースから下着に至るまで全て新品だ。特に衣服については君に着て欲しい物を買い揃えてきた」
「…………」
一体何処に安心できる要素があるというのだろうか。説明して欲し……くはないな。
疲れているんだ、俺は。これ以上疲れそうなことは勘弁だった。
問いただすことはせず、心なしか楽しそうな横顔を睨みつけるだけに留める。
まあ、荷造りする手間が省けたのはいい。そう考えてこの話題は打ち切ることに決めた。
それより、もう一つ気になっていることがある。
「お前、さっき駅の向こうから走って来ただろ。家はこの近くじゃなかったのか?」
「ああ、それも追い追い説明しよう」
「うわ……」
毎度抱きに来る度に泊まっていくため、もしかして、とは思っていたが。やはり月島の家はそんなに近くないのかもしれない。
コイツは俺にどれだけの隠し事を重ねているのだろうか。
「……お前のことは、何処かで一度問い詰めておいた方が良さそうだな」
「その時はお手柔らかに頼むよ」
「覚悟しておけよ……」
ドスを効かせた声で凄むが、月島が意に介した様子はない。大した面の皮である。
呆れている間に、俺の住むマンションが見えてくる。
慣れた様子で入庫を済ませ、ゲスト用の駐車スペースに陣取った月島は、トランクからスーツケースを2つ取り出した。
両方とも全く同じデザインだ。革張りで高級感がありつつも、クラシックな雰囲気で下品ではない。いかにも月島が好きそうな部類である。両者の異なる点といえば、色だけだ。
月島はロイヤルブルーのスーツケースを俺に差し出すと、自分はワインレッドの方を引いて部屋へと歩き出した。
仕方なく俺もスーツケースを受け取って後に続くが、口の端が引き攣るのを抑えられなかった。
「お、お揃いかよ」
「これで悪い虫も減るだろう」
「いくら何でも露骨過ぎないか?」
「それくらいで丁度いい。君は自分の魅力を知らなさすぎるんだ」
「……」
あまりにもストレートな月島の言葉に、何も言えなくなって顔を覆う。
ちょっと前まではあれだけ嫌味を垂れ流し、婉曲的な表現を多用していたというのにどうしてこうなった。
この男に直球で来られるとギャップが激しくて対応しきれないので、慣れるまでは程々にしておいて欲しいものである。
「……どうした、鍵でも無くしたか?」
「何でもねーよ」
不思議そうに首をかしげている月島を押しのけ、部屋の鍵を開ける。
リビングでスーツケースを広げて一応中身を確認したところ、月島の仕事だけあって、荷物は完璧に詰められていた。
「……ああ、なんだ……まあ、助かるわ」
「どういたしまして」
歯切れ悪く礼を言い、ワックスや歯ブラシなどを放り込んで再びスーツケースを閉じる。
そうしてさっさと部屋の隅に追いやって、汗を流すべく立ち上がった。
「俺、シャワー浴びてくるけど。お前は?」
「もう済ませて来たから待っている。今日は泊めてくれるか?」
「元からそのつもりで来たんだろ。……久々に楽しませてくれよ」
「君は……煽ってくれるな」
待ちきれなさそうに伸びてきた月島の手をかわし、リビングを後にする。
恨みがましそうな視線を背中で受け流し、洗面所に続く扉に手をかけた。
「待て、だよ。月島君」
「……!」
いつか月島に言われた台詞を口調まで真似て返してやれば、月島は我慢ならないといった様子で立ち上がった。
しかし、にんまりと笑って扉を閉める。
「まったく、待てが出来ないのはどっちだかな?」
「……君ってヤツは」
「ふっ、久々だから柄にもなくはしゃいでるんだ。許せよ」
扉越しに囁いて、ご機嫌でシャワーに向かう。
やはり月島が余裕を失う様は、いつ見ても俺の心を沸き立たせる。これくらいの意地悪は許して欲しかった。
「あーあ、意地の悪い顔してるわ」
風呂場の鏡に映った己の表情を見て、思わず苦笑が零れる。
しかし、今頃リビングでは、おあずけを食らった月島が落ち着かないひと時を過ごしていると思うと笑いが止まらない。
結局俺は緩んだ顔のまま、いつもよりゆっくりと風呂を堪能した。
「……篠崎君」
洗面所の扉の先には、仏頂面の月島が待ち構えていた。髪を乾かす暇も与えられずに寝室へと連れ込まれていく。
そのまま性急に押し倒され、身に纏ったばかりのタオルや下着をあっという間に剥ぎ取られてしまった。
薄く笑って挑発すれば、濡れて額に張り付いた髪を掻き上げられて眉間に軽い口づけを落とされる。
「ちゃんと待っていたのだから、御褒美をくれるんだろうな?」
「……っう」
こそばゆいくらい優しい月島の指先が、脇腹から太ももまでゆっくりと辿っていく。そのまま脚の付け根を撫でられ、思わず吐息が漏れた。
欲望に満ちた目に食い入るように見詰められて、どうしようもなく高揚してしまう。
「私がお利口に待っているのは、御褒美をもらうためだよ」
かさついた月島の唇が俺の首筋に触れ、甘い噛み跡と熱い吐息を残していく。
「『待て』の後には、『よし』と言うのがセットだろう?」
胸の飾りを掠めるように月島の指先が円を描く。
頑なに性感帯に触れようとしないのは、『待て』をしているからなのだろうか。
もどかしさに身じろぎした拍子に、月島の熱が膝に触れる。
それは布越しでも分かるほど存在を主張しているというのに、月島は律義に『待て』を続けている。
「篠崎……」
刺激を受けて切羽詰まった顔をした月島が、低く獰猛に唸る。
その姿はさながら餌を前にした大型犬のようで、俺は知らず知らずのうちに生唾を飲み込んでいた。
この場合、食い荒らされる餌というのは――俺だ。
「は……ッ」
自分の言葉で、自分の意志で、この男の枷を外してやるのだと意識した瞬間、今この瞬間だけは月島を支配しているという歪んだ興奮で身が震えた。
徐々に昂っていく欲望を解放してやったとき、どれほど荒々しい熱に襲われるのだろうか。
緊張か興奮か分からないもので乾いた唇を一舐めして、俺は繋いだリードを手放した。
「月島……よし」
「――ッ」
言い終わるか終わらないかの内に、貪るような口づけが降ってきて俺の言葉を奪う。
今夜は、長い夜になりそうだった。
◆
軽い電子音で目を覚ます。
反射的に目覚まし時計を叩いてみたが、音がやむ気配はない。音は、何処か遠くで鳴っているようだった。
「ぐ……」
気にはなったが、全身が鉛のように重く、音の原因を探しに行く気にはならない。
仕方ないと諦めて、蹴飛ばした布団を手繰り寄せ、頭まですっぽりと被って二度寝を決め込んだ。
少し、肌寒い。
冷えた体を温めようと傍にあるはずの温もりを探したところ、ベッドの上には自分だけが取り残されていることに気が付いた。
「つきしま……?」
渋々、重い瞼をこじ開けて辺りを見回す。ベッドの上に月島の姿が無い事を確認してから、その下も覗き込む。
……落ちてはいない。
この歳になって初めて知ったことだが、俺の寝相はあまり良いとは言えないらしく。
一度月島を蹴り落したこともあったけれども、今回は違うようだ。
ぼんやりと、月島の姿を求めて周囲を見回す。
見慣れたハズの自分の部屋が妙に広く感じられ、布団の誘惑よりも寂しさが勝ってリビングへと歩を進めた。
「おはよう、篠崎君」
「はよ……」
扉の開く音でこちらを振り返った月島を見て、自然と笑みが零れる。
朝起きた時に誰か居るというのは、やはり嬉しい。
「もう少しで朝御飯が出来るから待っていてくれるか?」
「おう……」
言われたとおり、大人しく食卓について月島を待つ。
先ほどの電子音はキッチンタイマーの音だったのだろう。
月島と過ごす時間が長くなってから、俺は少しずつ月島に料理を教えていた。
アイツの性格に合わせて、これは何火で何分だなどと示してやるのは骨が折れたが、そんな必死の教育が実を結んで、今では簡単な料理ならこなせるようになっていた。
今では月島の料理が食卓に並ぶ頻度も増えているのだが……誰かの手料理を食べるというのは、まだ慣れない。
何だか少し、浮足立ってしまうのだ。
「待たせたな」
「さんきゅ」
まだ夢うつつな状態で微睡んでいるうちに、配膳が済まされていく。
チーズを乗せて焼いたトーストに、ハムエッグとコンソメスープ。レシピ本を前にキレていた頃からこれだけ作れるようになったのだから上等である。
「いただきます」
しっかり手を合わせてから食事を始める。寝起きの身体に温かな食事が染み渡った。
「あー……美味いわ」
「簡単なものばかりで申し訳ないがね」
「朝メシを作ってもらえて、人と一緒に食えるってだけで最高だよ」
サクサクとトーストを食みながら笑えば、月島が嬉しそうな顔で応える。
ただそれだけのことが堪らなく幸せに感じた。
「ごちそうさまでした」
食事を終え、私服に着替えてスーツケースを手に取る。
半分仕事とはいえ、今日は慰安旅行。服装はラフなものである。ネイビーのサマーニットに黒のスキニーパンツ。動きやすさを重視した格好だ。
一方の月島は、仕事の時とさほど変わらないジャケットスタイルである。イメージどおりではあるが、この男の辞書に息抜きという言葉があるのか疑問に思う。
だが、髪型だけはいつもと違った。
俺の好みを知ってから、休日はラフな髪型で過ごすようになったのだ。
長めの前髪がさらりと揺れる様を見て、やはり髪を下ろしている方が似合うとしみじみ思う。
「私の顔に何か付いているか?」
「いや別に。今日も憎たらしいほどイケメンだよ」
「お褒めにあずかり光栄だ」
気障っぽく前髪を払いながら、月島が嬉しそうに胸を張る。
この男は、時折驚くほど素直で分かりやすい。
月島の言葉で俺が変わったのと同じように、俺の言葉も月島に影響を与えているのは、悪い気はしなかった。
「ところで。俺、旅行の日程を全く知らないんだが」
「私が把握しているから安心したまえ。問題ない」
「あ、そ。お前がそういうなら大丈夫だな。よろしく頼むわ」
どうせこの男は、旅行中ずっと張り付いているつもりなのだろう。高性能なナビが傍についているのなら問題ない。
……お揃いのスーツケースを転がして男二人連れ立って歩くというのは、若干外聞が気になるところだが。楽しそうな月島の姿を見ていると、何も言えなかった。
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