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僕だけが覚えている記念日に、恋人になれない男へ花束を贈ってみた
しおりを挟む仕事帰りに何気なく立ち寄ったバー。
何やら賑やかなカウンター席には、一人の男が座っていた。
気分よく酔っているらしい男は、カクテルに入ったハイビスカスを弄びながらマスターと他愛のない話に興じている。
「――――」
へにゃりと笑った屈託のない笑顔に、ふらふらと引き寄せられる。
花に誘われた蜂のように。僕は気付けば彼の隣に腰掛けていた。
「隣、いいかい?」
「いーよ」
僕の緊張などお構いなしに、彼は緩く了承する。
「随分と楽しそうだったから気になってね。何の話をしていたの?」
「んー? えっとな……」
それが、僕と彼――立花との初めての出会いだった。
「昨日買った本がすごく面白くてさ 、久々に良い買い物した気分なんだ」
「今日は一本違う道を通ってみたら、見晴らしのいい場所を見つけてさ」
「明日はちょっと遠出するんだ、先輩に美味い海鮮の店を聞いたんだよ」
「――いいね。立花は毎日楽しそうだ」
「ちょっと馬鹿にしてないか?」
「まさか。心底羨ましく思っているよ」
立花が聞かせてくれる話は、僕にとって日々の癒しとなっていった。
酒のせいか、少しふわりとした声は耳に心地良く、穏やかながらも楽しそうな語り口は、こちらまで笑顔にしてくれる。
何より彼は、僕が見落とした世界の美しさを丁寧に拾い上げては、大切そうに教えてくれた。
本当にこの人は僕と同じ世界を生きているのだろうか。
そんなことを考えてしまうくらいに、立花の見ている世界は美しいものと楽しいことで満ちていた。
「お前には何か無いのか? 最近嬉しかったこと」
「嬉しかったこと、かぁ……」
立花に問われ、この一ヶ月を振り返る。
残念ながら僕には、彼へ語るに相応しい話が思いつかなかった。
この歳になると、口にする内容が限られてくる。
仕事の話。上司の愚痴。昨日見たテレビの感想。
つくづく僕の生きている世界は、つまらないものである。
だからこそ、僕は立花に惹かれたのだ。
「僕は――、」
何も無い、と言おうとして思いとどまる。
急に言葉を切った僕を、立花が不思議そうに見つめている。
ああそうだ、あったじゃないか。嬉しかったこと。
「君に、会えたこと」
言葉にして、自覚が芽生える。
「ばぁか、俺なんか口説いてどうすんだよ」
そう言って笑った立花の周りが、僕にはきらきらと輝いて見えた。
▼ ▼ ▼
立花は会う度に、弾んだ声で素朴な幸せを僕に語ってくれた。
だが、ある雨の日のこと。
いつもは明るい彼の声色が、暗く沈んでいた。
「俺、社会人になって東京に出てきたから、あんまりこっちに知り合いがいないんだ」
「そうなの? 立花なら、むしろ友人にしてくれって頼み込んでくる人が沢山いそうだけど」
「そんな物好きお前だけだよ」
本心からの言葉を冗談だと勘違いした立花が、力無く笑う。
「あまり喋るのが得意じゃないから、仲良くなれないんだ」と続けた彼の背は少し丸められていて、なんだか小さく見えた。
思わず肩を抱こうと手を伸ばしたところで、立花が顔を上げる。
微かに眉を下げた立花は、僕の気のせいでなければ、縋るような声で呟いた。
「最近、人肌恋しいんだ」
目が眩むほど、甘い誘い。
そんなものに抗う術など、僕は持っていなかった。
「……僕も」
どうにか短く同意を絞り出して、肩ではなく腰を抱いて立花を拐っていく。
そうしてホテルに連れ込んで、ベッドに押し倒すところまで行ってはじめて、僕は自分がとんでもない思い違いをしていたことに気がついたのだ。
「はち、や?」
きょとんとこちらを見つめ返した立花は、自分が何故ベッドに寝かされているのか分かっていない様子である。
途端に、こんな慰め方しか知らない己が情けなくなった。
彼は"そういう意味"であんなことを言ったわけではないのだ。
それでも。
どこか寂しそうな彼をこのまま帰してしまいたくはない。
「立花。……だめ?」
立花の頬に手を添え、祈るような面持ちで縋り付く。
そんな僕を見兼ねたのか、彼は小さく頷いた。
「優しくするから」
彼が少しでも嫌がる素振りを見せたらすぐに止めるつもりだった。
だから、ほんの少しでも嫌な思いをさせてしまわないよう、僕は慎重に指を滑らせた。
「立花……」
彼のシャツの裾をたくし上げ、たおやかな腰に手を添える。
微かに息を詰めた彼に触れるだけのキスして、ゆっくりとボタンを外していく。
肌が露になっていく様から、居心地悪そうに目を逸らす仕草が可愛らしい。
あまりにも初々しい反応を返してくれるものだから、僕も思わず口が滑ってしまった。
「もしかして、初めて?」
「うるさいなっ」
「……聞くな」と真っ赤な顔で吐き捨てたのが、答えだ。
殊更優しくしなくてはと決意を新たにして、隔てる物の無くなった肌と肌とを合わせる。
少し火照った素肌が触れ合う感触に、立花はとろんと目を細めた。
「きもち……」
もっとしてくれと言わんばかりに、彼の腕が背中に回される。
そんなことをされては僕の方が持たない。
ぐっと歯を噛みしめて衝動を抑え込み、極めて紳士的に彼を抱き締め返す。
しかし、どんなに欲を抑え込んでみても、昂った熱だけは隠しようがなかった。
腹に当たる熱い感触に、彼が夢から覚めたように目をしばたたかせる。
呆気にとられた顔で下半身を見つめられ、僕は顔から火が出そうな思いで腰にシーツを巻き付けた。
「蜂谷、それ……」
「ご、ごめん。あんまり見ないで」
ろくに愛撫もせず抱き合っているだけで臨戦態勢になってしまうなんて、余裕の無い男と思われただろうか。
ちらりと立花の様子を伺うと、彼は赤い顔をして明後日の方向を眺めていた。
「お前も、そんな風に興奮するんだな」
「するよ……僕のこと、何だと思ってたのさ」
「だって見るからに草食系なのに……」
「き、君ねぇ」
ホテルに連れ込まれて襲われている最中なのに、なんて呑気なことを言っているのだろうか、彼は。
「僕はこれでも肉食系だよ。だから、」
「?」
「止めるなら、今のうちだ」
最後の一線を明確に引いて、彼の返事を待つ。
微動だにせず考え込む彼を固唾を飲んで見守っていると、やがて立花はこくりと頷いた。
「お前なら、いいよ。優しくしてくれるんだろう?」
「――もちろん」
殺し文句を口にされ、再び立花へと覆い被さる。
そしてとうとう、固く閉ざされた蕾へと手を伸ばした。
つぷりと指先を侵入させただけで、立花が身を強張らせる。
未知の感覚だ。怖いだろう。
「僕に掴まっていて」
「ん……」
両腕を背中へと回させ、徐々に蕾を開かせていく。
やっと指が3本入るようになった頃には、僕も彼も、すっかり汗だくになっていた。
「立花、挿れるよ?」
「ゆっくり、頼む」
立花を安心させるために精一杯優しく微笑みかけ、開いた蕾に自身をあてがう。
散々慣らされたそこは、少し力を入れただけでずぷずぷと僕のものを飲み込んだ。
これならちゃんと入りそうだ、と油断したところで立花の様子が一変する。
「っあ、キツい、あつい……!」
「……ッ、たちばな、力抜いて……」
突如ぎりぎりと締め付けられ、快感を上回る痛みに眉を顰める。
初めて味わう圧迫感に軽くパニックに陥ってしまったらしい立花は、涙を滲ませながらふるふると首を振っていた。
一度抜こうとしても身動きすらままならない。
このままでは、二人とも辛いだけだ。
「立花、こっち向いて」
「ん、ん、あふ……」
少し強引に立花の顎を捉えて口付ける。
救いを求めるように突き出された舌を吸い、口蓋を犯し尽くす。
緩く勃ち上がった立花のものを刺激すれば、慣れ親しんだ快楽に緊張がほぐれ始めた。
「あ、はぁ……んぁ……」
「そのままゆっくり深呼吸して……?」
立花の呼吸に合わせ、徐々に腰を押し進めていく。
やっとのことで全てを収めた僕は、溢れんばかりの幸福感に目を細めた。
「はいった……?」
「うん、全部入った」
「わ……すご……」
信じられないと言いたげな表情で、立花が自分の腹を見やる。
少し張っている気がする下腹部をするりと撫で、彼はこう宣った。
「ここまで入ってる……」
「~~~~ッ」
「う、あ、大きくするな」
「今のは君が悪い……!」
これを天然でやるのだから恐れ入る。
できれば彼の前では格好良く余裕のある男でいたかったが、どうやら難しいようだ。
「動くよ?」
「っ、うん」
立花の様子をつぶさに観察しながら、浅いストロークを始める。
ゆさゆさと緩やかに揺さぶられる度、彼は長い睫毛を震わせた。
「痛くない?」
「うん……不思議な気分だ」
「もう少し、動くよ」
悪くはなさそうだということを確認して、腰使いを徐々に変えていく。
指で探っていた時に反応していた個所を掠めるように押してやると、立花はびくりと手足を戦慄かせた。
「そ、そこ、変だ」
「変じゃないよ、気持ち良いんだろう」
「気持ち、いい……?」
まるで自分を守るかのように縮こまった立花の頭を撫でて、今度はもっと的確に突き上げる。
「ひぃ」と小さく悲鳴を上げた立花は、震える手で僕へとしがみついてきた。
「どうしよう、どうしよう蜂谷、気持ちいい、こわい」
「落ち着いて、何も怖いことなんてないよ」
「だって、こんな、変だ、変になる……ッ!!」
腰を揺らす度、腕の中の身体がびくびくと跳ねまわる。
どうやら感じてくれているようで何よりだ。でも、怯えさせてしまっているのはよろしくない。
「どんな風になってもいいよ、立花……僕しか見ていないから」
「うっ、ううう……ッ!」
「ねぇ、気持ちいい?」
「きもちい……! 気持ちいいよぉ……!」
焦点の合わない目から、一滴涙が零れ落ちる。
思わず吸い寄せられて口をつけると、塩辛いはずのそれは甘美な蜜のように感じられた。
「立花、かわいい。立花……ッ」
「ん、あッ、はちやぁ……!」
「ぐ……も、イきそ……」
どろどろに甘く溶けた声で名前を呼ばれ、ずくりと腰が重くなる。
余裕を失った動きで腰を打ち付けていると、一拍先に限界を迎えた立花が大きく跳ねた。
「っあ、ああーー……ッ!」
「あ、ぐぅ……っ」
脈打つ体内に、僕の熱も搾り取られる。
しっかり最後の一滴まで注ぎ込んでから立花を見やると、彼はぼんやりとした目でこちらを見返していた。
「大丈夫……?」
半開きのままの口からは、唾液が零れ落ちている。
拭ってやろうと手を伸ばすと、その手に立花が頬を擦り寄せてきた。
「なぁ…………もっと……」
「……いくらでも」
かわいらしいおねだりに一も二も無く頷いて、僕らは再び肌の熱を分かち合った。
▼ ▼ ▼
それからというものの、僕と立花は月に1回ほどのペースで"慰め合う"仲となった。
気に入ってもらえて何よりである。
すこぶる優しくした甲斐があったというものだ。
どうやら立花も僕のことを好いてくれているようだし、順風満帆だ。
順調、なのだが……
「どう考えても友達の"好き"なんだよな…………」
「どうしたデカい溜息吐いて」
「な、なんでもない」
「そう?」
いつものバーにて。
最近益々輝きを増した彼と飲みながら、僕は贅沢な悩みに頭を抱えていた。
思えば、初夜の翌朝から違和感を覚えてはいたのだ。
何やらすっきりとした顔で目を覚ました立花は、昨晩の痴態を思い出して恥らうこともなく、ぎこちない雰囲気を醸し出すでもなく、爽やかな笑顔を浮かべていた。
「ありがとな、蜂谷。すごく良かった」
「う、うん。満足してもらえたなら嬉しいよ」
「また頼んでもいいか?」
「もちろん、いつでも呼んで」
あの時はリピート宣言を貰って浮かれてしまっていたが、今考えれば分かる。
立花は、本当の本当に、ただ慰めてもらったとしか思っていなかったのだ。
僕の方は、やっと結ばれたと思っていたんだけども。
「もう酔ったのか? 遠い目してるぞ」
「なんでもない……」
「さっきからそれしか言ってないぞ……やっぱり酔ってるな?」
自分の方が真っ赤な顔をしながら僕を揶揄ってくる立花の目には、悪戯っぽい輝きだけが宿っている。
至近距離でどんなに目を凝らしてみても、恋とか、愛とかは見えてこない。
さてはこの男。
僕のことはセックスもする友達程度にしか思っていないな?
「お、おいおい、なんで泣いてるんだよ! お前泣き上戸だったか!?」
「立花のばか……天然……人たらし……!!」
「なんで罵倒されているんだ俺は……?」
言えるものか。
また僕だけ思い違いをしていたなんて。
「ばかなのは、ぼくだな……」
あれから散々泣き喚いた僕は、立花の手によって自宅に送り届けられ、暗い玄関でふて寝を決め込んでいた。
冷たい床が心地よい。だが同時に寒くて、無性に人肌恋しくなる。
「どうすればいいんだろ……」
なまじ一足飛びに身体の関係に進んでしまった分、これからどうすればいいのか分からなくなっていた。
大体セックスまでして意識してもらえないってどういうことなんだ。
それ以上ってなんだ。打つ手が無いぞ。
おまけに今更好きだと伝え直したところで、「そういうのは求めてないんだよな」なんて拒否されたらと考えると恐ろしい。
もう前にも後ろにも進めなくなってしまった気がした。
「くそぅ……」
結局、その晩は悩んでいる内に眠ってしまい、翌朝酷い身体の痛みに悩まされることになる。
天国から地獄の迷宮に突き落とされた僕が救いを見つけたのは、それから何年も経った後だった。
共に過ごす時間が長くなれば情が芽生えるに違いないと思って早5年。
石の上にも三年どころの話ではない。
僕の願いは通じないまま、立花とは近くて遠い距離を保っていた。
立花と出会ってから今日でぴったり5年目。
僕だけが覚えている、記念日だ。
「今年は何を贈ろうかな……」
立花は気付いていないだろうが、僕は毎年この日を祝ってきた。
去年はケーキ。一昨年はお寿司。その前はカステラ、更にその前には一緒に焼肉を食べに行った。
全部食べ物なのは、形が残らないからだ。
立花は今日が記念日であることすら知らないだろうに、物だけ積もっていくなんて虚し過ぎる。
最初から無かったかのように、消えて無くなる方がお似合いだ。
そんな自棄な気分でいたところに、あの鮮やかな色彩が飛び込んできたのだ。
職場の最寄り駅に新しくできた花屋。
きらきらと咲き誇る様を見て、脳裏に立花の笑顔が浮かんだ。
きっと彼には花が似合う。
そうだ、花を贈ろう。消えて無くなる物なら、花でもいいじゃないか。
「すみません。花束を、1つ」
不審がられてしまわないように選んだ、ささやかな花束を抱えて立花の家へと向かう。
案の定、僕の姿を見た彼は、開口一番に疑問を述べた。
「……今日、何かあったっけ?」
「何もないけど。君の顔が浮かんだから、つい」
今更ながらに不安に陥りつつ、花束を差し出す。
戸惑いながらも受け取ってもらえた瞬間、ほんの少しだけども想いが伝わった気がした。
「悪くないな」と呟いて花束を見つめる立花は、満更でもなさそうだ。
せめてこの花が枯れるまでは、僕を想ってくれるだろうか。
「また、買って行こうかな……」
花を贈るのは、一度だけのつもりだった。
けれども花が枯れて無くなってしまった彼の部屋を見て、妙に悲しい気分になってしまったのだ。
「……すみません。今日も1束、自宅用の小さいヤツをください」
そうして僕は、記念日じゃない日にも、花束を抱えて立花の部屋を訪れるようになっていった。
「なんだ、お前また花を買ってきたのか」
「邪魔かな?」
「そんなこと言ってないだろ、ただもったいないと思っただけで……」
「……うん」
「ああもう、貰ってやるからそんな顔するな!」
立花は毎度困った顔をしながらも、こうして最後には花束を受け取ってくれる。
そのときに、僕の想いも一緒に受け入れてもらえたような気がするから、花束を贈るのがやめられないのだ。
花の無い立花の部屋には、僕の居場所も無いような気がして、寂しい。
「また、花が枯れる前に来るね」
花を贈るのが恒例となってきた頃。
僕は少しでも立花と会う理由を見つけたくて、そんな約束を始めた。
それなのにだ。
「やばい……今週死にそうだ……」
ぎっちり埋まったスケジュール帳を見て頭を抱える。
何度予定を見直しても、どんなに時間をやりくりしても、今週一杯はまともな時間に帰れそうにない。
不承不承、スマホを取り出してメッセージを打つ。
『今週は行けそうにない』と伝えると、『分かった』と端的な返答が返ってきた。
少しは、寂しくなってくれたりしないのだろうか。
ちょっぴり泣きそうになっていると、ポケットにしまいかけたスマホが再び震えた。
『来れそうになったら連絡して』
「……ッ」
1秒前とは打って変わって破顔して、すぐさまメッセージを返す。
『花が枯れる前には、会いに行く』
▼ ▼ ▼
「って、約束したのに……!」
僕から約束を持ちかけた癖に、一週間経っても立花には会いに行けずにいた。
もう、花が枯れていてもおかしくない。
彼の部屋は、また殺風景な部屋に戻ってしまったのだろうか。
僕の居場所が無い部屋に。
「絶対今日中に終わらせて……明日の朝一で会いに行こう……」
目にクマを作りながら、一刻も早く仕事を片付けようと没頭する僕は気付いていなかった。
ポケットの中で、スマホが小さく震えていたことに。
「――――はぁぁぁやっと終わった……!」
仕事が片付いてのは、すっかり夜も遅くなってからだった。
それでも、やっと重荷から解放された僕の心は軽い。
早速、明日会いに行ってもいいかと立花に伺いを立てようとして、固まった。
いつの間にか立花から送られていたメッセージに、心臓を鷲掴みにされてしまったからだ。
『花、枯れそうだぞ』
一瞬見えたそのメッセージは、すぐさま僕の目の前から掻き消えた。見間違いかと思うほど刹那の間に。
けれども、この胸の痛みが夢ではないと訴えている。
明日じゃ駄目だ。
明日では間に合わないのだ。
「立花っ」
焦りと嬉しさと申し訳なさでぐちゃぐちゃになりながら、僕は全速力で職場を飛び出した。
「間に、合ってくれ……ッ!」
駅の階段を2段飛ばしで駆け上がり、すっかり常連となった花屋へ向かう。
シャッターの下りた店を見て絶望的な気分になったが、馴染みの顔が少し向こうを歩いているのを見つけて再び駆け出した。
「すみません、待ってください!」
「えっ!? ああ、蜂谷さんですか。お久しぶりですね」
捕まえたのは花屋の店主だ。
驚きながらも立ち止まった店主に向かって、僕は挨拶もそこそこに頭を下げた。
「もうお帰りのところ申し訳ないのですが、どうしても花を売っていただきたくて……」
「え、ええ?」
「お願いします、大事なことなんです……!」
「わ、分かりましたから頭を上げてください。ね?」
「ありがとうございますっ」
さっぱり事情が飲み込めないながらも、店を開けてくれた店主にもう一度頭を下げる。
裏口から店内に入った僕は、何かを察したのか、にこにこと微笑んでいる店主へと向き直った。
「それで蜂谷さん、今日はいかがいたしましょう。いつもの、自宅に飾るような素朴な花束ですか?」
「いいえ」
まるで答えが分かっていたように店主は頷き、続く言葉を待っている。
僕は走って乾いた唇を湿らせて、言った。
「記念日に恋人に送るような、特別な花束をください」
▼ ▼ ▼
いつもより大きな花束を抱えて、暗い夜道を駆け抜ける。
走って、走って、蹴躓きそうになりながら立花の自宅前に辿り着いた頃には、彼の部屋の灯りは落ちていた。
控えめにノックをしてみても反応が無い。
それでも諦めきれずに、僕は往生際悪くスマホを取り出した。
『寝ちゃった?』
ドアの向こうに耳を澄ませてみても、音はしない。
しかし、もう一度扉を叩いてみたところで、微かに床のきしむ音が聞こえた。
足音は徐々に近づき、やがて部屋の扉が開かれる。
「立花。ごめん、遅くなった」
まだ夢心地な立花に向けて、花束を差し出す。
いつもより豪華な花束に目を見開いた立花は、一瞬頬を緩ませて、それからすぐに唇を尖らせた。
「本当に遅い」
「……花、枯れちゃった?」
「明日になったら枯れてた」
「……もう、日付け変わりそうだけど」
「じゃあ早くしないと」
花束を手にした立花は、何やら機嫌が良さそうだ。
手を引かれるままに彼の部屋へと立ち入って、そこで僕は有り得ないものを見た。
すっかり色の落ちた花束だ。
もうとっくに枯れていると言ってもいいような花が、リビングの上で粘り強く佇んでいた。
今度はきっと思い違いではない。
立花は、僕を、
「ずっと、待っていてくれたんだ」
「約束したから」
「待たせてごめん」
「反省しろ」
「痛いよ」
照れ隠しに指でつつかれ、思わず頬が緩む。
古い花も、新しい花も、同じくらい大事そうに扱う立花を見て、僕はようやく努力が実を結んだことを実感した。
「ねぇ、どうしたら許してくれる?」
待たせて悪いと思っているのに、幸せ過ぎて、申し訳なさそうな声が出ない。
「……花瓶」
「え?」
「花瓶を買ってくれたら、許す」
それは、つまり。
今後も花を受け取ってくれるという意味にとっていいのだろうか。
多分、赤く染まった彼の顔色が答えなのだろう。
「明日、一緒に買いに行こう。初めてのデートだね」
それでもにわかには信じきれず、探るように言葉を重ねる。
僕の言葉に立花は意地悪を返してきたが、終ぞデートであることは否定しなかった。
じわり、じわりと幸せが滲んでくる。
余裕も無く彼を貪って、そうしてようやく、本当の意味で自分の想いが受け入れられたことを理解した。
「記念日でもない日に花束を贈られるのも悪くないけどさ、」
「うん」
「これからは、特別な日を一緒に祝える、特別な関係になりたいな」
「……っ僕も、ずっと、そうなれればいいなと思ってた」
ずっと抑えていた想いが爆発して、涙となって溢れ出る。
立花はそんな僕が眠るまで、優しく撫で続けてくれていた。
▼ ▼ ▼
「――なあ蜂谷」
「なぁに?」
「この前は俺と初めて映画を見に行った記念日で、その前は俺が初めて弁当を作った記念日とか言ってたけど、今日は何?」
「君が初めてスタンプを送ってくれた記念日」
「くくくっ、よくもまぁそんなに思いつくものだな」
すっかり部屋になじんだ花瓶に鮮やかな花を添えながら、立花が調子外れな鼻歌を奏でる。
それを聞いた僕は、真顔で頷いた。
「今増えた。初めて君の鼻歌を聞いた記念日だ」
「ははっ、馬鹿だなぁもう」
5年越しの恋が無事実を結んでから、僕の世界は記念日で溢れている。
立花が見ていた、美しいものと楽しいことで満ちた世界。
あの頃は別世界の話に思えたけれど、確かに今、僕は立花と同じ世界に立っていた。
「そんなに記念日ばかりだと、ありがたみが薄れないか?」
「じゃあ小記念日と大記念日を作ろう」
「ふ、はっははは!」
大真面目な提案に、立花が腹を抱えて笑いだす。
僕が少しむっとした顔をしてもお構いなしだ。覚えてろよ。
来週には、大記念日を作る予定があるのだから。
「――うわ、驚いた。やけに豪華だけど……今日、何かあったっけ?」
「ずっと言えなかったけど、今日は大事な大事な記念日なんだ」
立花と出会ってちょうど6年目となる日。
ようやく共に記念日を祝えるようになった僕は、万感の思いで花束を手渡した。
「今日は、初めて君と出会った記念日だ」
「そう、か」
「あともう1つ。これから増える」
「へ……?」
100本の薔薇を抱き締めた立花の前に、恭しく膝をつく。
今まで形の残らないものを送り続けていたけれど、今年こそ、ずっと消えずに残るものを送ろうと決めていたのだ。
「立花」
「は、はい」
「これからもずっと、僕と一緒にいてください」
懐に忍ばせていた小箱を取り出して、ペアリングを掲げて見せる。
目も口もまん丸く開けて呆気にとられた立花は、くしゃりと顔を歪ませた後、
「――はい」
ふわりと、花が咲くような笑みを浮かべた。
応援ありがとうございます!
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素敵な作品〜😍
やさしくて暖かい気持ちになれるお話ですね。
とても好きです😊
ありがとうございます!お読みいただき嬉しいです☺