測量士と人外護衛

胃頭

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エッチするまでの話⑩

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 自動車の燃料が水素と電気に変わったのはもう随分と前の話である。しかし世界的な資源の枯渇と温暖化で車の使用自体が禁止され、それに伴い水素ステーションや充電スポットは廃止された。
 自動車産業は衰退の一途を辿ったが、一部の国民と民間企業、軍や警察などといった国家機関では自動車を使用している為アメリカと韓国の電気、水素の大手ふたつを除く自動車メーカーは倒産。主要子会社、部品メーカー、販売店、1次、2次の取引がある企業、エトセトラ…。日本だけでも自動車メーカーは8社、従業員数は関係会社も含めば約167万人。その全員が職を失い、家族諸共路頭に迷った。
 しかしこれは自動車産業だけの話ではない。医療、福祉、第一次産業や行政、物流や小売業といったいわゆる生活必須職以外の業界は軒並み市場が急速に縮小され、緩やかにこの世から消えていった。
 話は戻り、車のことだ。
 現在日本国で自動車の使用を許可されているのは、一部の上流階級国民と運送業、警察機関、軍のみである。だが、この国では車の使用は禁止されていない。森林地帯の多い国では自動車の使用は珍しいことではないそうだ。
 誰もが自由に、そして便利に乗っているが、半分は宇宙太陽光発電により作られたエネルギーで動く米国製の電気自動車と、残りはとうの昔に生産中止になっていた日本製のガソリン車だった。

 ***

「…………」
「…………」
「……………白鶴」
「なに」
「なぜお前までここにいるんだ」
 全長約五メートル、日本製高級セダン車。運転席と助手席のシートをフラットにし、エルと白鶴は仰向けで寝転んでいた。周りの窓はフルスモーク。フロントガラスには布をかけ外からは見えないようにしている。
 広いセダン車とはいえ室内は二メートルと少し。大柄なエルにはかなり窮屈な空間なのだが、その横には決して小柄とは呼べない筋肉質な男がこれまた狭そうに収まっていた。
「なぜって、内通者が動くのをここで待機してんだろ?」
「貴方は普段通り外をふらついていた方が自然だ」
「そんなサボってるみたいな言い方しなくても…」
 んじゃ、と起き上がり軽い身のこなしで車から出た白鶴だったが、またすぐに戻ってくるとエルにキーを差し出した。
「あ、そうそう。この車汚すなよー、赤松さんのだからな。貴重な日本車で高かったって自慢してたから勝手に借りてるのバレたら大目玉だ」
「わかった」
 バタンとドアが閉じられ、静寂に包まれた車中で頭の中の映像を隅々まで追って行く。
 時刻は午前七時半。
 内通者がエルの活動できていない時間帯に気付いたなら今から昼までの間に動くはずだ。
 あれからゼロはエルの言葉に怯え、解散してからも辺りをずっとキョロキョロと見渡しては警戒しながら過ごしていた。
 盗聴器を仕掛けられているのだと思ったのだろう。全身を、それこそ尻の穴まで調べていたが、まあ調べられるだろうと事前に蜘蛛たちはあの一室にいた者たちからは一時的に離していたので問題はない。内通者だろうがなかろうが、あそこまで私生活を覗かれるのは気分が良いものではないはずだ。ゼロも、勿論イーサン、エド、ウェンも体中を調べていたので今のところ誰が怪しいかエルには分からなかった。
 逆に全く気にしていない男がいた。
 白鶴だ。奴はそもそも探そうとすらしていない。それどころか「全部聞かれてるなら電話しなくてもアンタに連絡できるってこと?」などと盗聴を通信として役立たせようとしていた。そこまで余裕こいた態度を取られると一周まわってお前も怪しいぞと告げれば、確かに!と楽し気に笑うのだ。
 よく分からない男だ。
 ――おはよ~、おばちゃん
 ――あら、おはよう白鶴ちゃん
 行きつけのカフェで顔馴染みの婦人に挨拶し、店員と雑談する白鶴の雰囲気はどこかフジに似ていた。人の懐にするりと入り、敵意を感じさせないが案外抜け目ない性格の人間。
 ゼロ、イーサンのふたりはすでに担当区画での聞き込みを始めている。エドは朝方まで動いていたので今はホテルでシャワーを浴びていた。ウェンはビルでICPO本部に提出する報告書を作成している。
 さて誰が動くか。
 町のメイン通りから二本外れた小道は決して人通りが少ないとは言えないが、路上駐車など珍しくないのかエルが潜む車には誰も気にも留めていない様子だった。防音性の高い車内では、すぐそばを通っているはずの人の声も遠くから聞こえているかのように小さい。
 こうしていると軍施設でフジを待っていた頃を思い出す。静かにひとり、だけど遠くの方で人の声。フジを想って待っていたあの頃の感情は形容し難い。寂しいが決して悲しい訳ではなく、早く会いたいと願ってはいながらも焦燥感はない。
 だけど今は冷静を装いながら心のどこかで焦りがある。遠く離れた日本、宇月の様子は窺い知れたので蜘蛛に異変があった訳ではなさそうだ。白鶴が言っていた通りこの国が海岸から離れ過ぎているために新大陸にいる蜘蛛との感覚が切れてしまったのだろう。
 フジは今どうしているだろうか。
 新大陸の獰猛な生き物に襲われていないだろうか。雨風に体を冷やして震えていないだろうか。エルの意思が反映されずとも蜘蛛たちは彼を守るだろうが、それだけでは心配だ。天馬がいると言っても所詮奴も人間。雌蜂のような存在に万が一にでも目を付けられればひとたまりもない。
 本当なら今すぐにでも海を渡りたかった。
 だが、仮にもフジを局長と据える機関の人間としてこの仕事を受けたのだから任を放棄するのはフジの名誉にも関わる。
 こんな考え方をしてしまう時、自分はつくづく人間的な思考だなとエルは思う。
 例えば…クレスなら。
 全てを犠牲にしてでも、人間社会のあれやこれなど関係なく、槇尾の名誉不名誉など気にすることなく彼は槇尾を優先するだろう。
 己は人間ではないと理解しながらも中身はこんなにも人間臭くて、煩わしいがそれが愛する人のために選んだ道なのだと思うと少し誇らしい。
 
 ――すまない、ゼロから連絡が入った。先に現場に向かってくれ。
 
 その声にハッと思考を蜘蛛へと戻す。チームとなって複数で動いていたイーサンがその輪から離れ、ひとりどこかへと歩き始めた。ゼロからの連絡と言っていたが蜘蛛は襟の裏に張り付いていてタブレットなどの確認はできていない。果たしてその言葉が本当か嘘か分からなかった。
 カサリと服の裏から出て、周りを見渡せばイーサンは南に向かって歩いていた。ゼロのいる方向とは反対だ。エルは座席を素早く起こしフロントガラスの布を剥ぎ取るとエンジンをかけた。
 奴が内通者なのか。ならば今から教祖の元に向かうのか、それとも別の場所か。現時点では判断しかねるがこのまま車で逃げられてしまえば追いつく手段がない。流石のエルでも時速100キロ以上で走ることは不可能だ。
 シフトをドライブに入れてアクセルを踏む。ひとりで考えるより相談した方がいいと思ったのは相手が白鶴だったからだろう。
 大通りを駅方面に向かっていた白鶴を見つけ速度を緩めた。エンジン音に気付いたのか、振り返った白鶴は僅かに目を見開くと持っていたコーヒーカップを通行人の男に押し付けエルが停めた車に乗り込んだ。
「動いたか」
「ああ、イーサンだ」
「今どこ?」
「左手に旧警察署、右手にセントラルパークのある通りを車で北西に向かって走ってる」
「…その方向は郊外に出る気だな」
 駅のロータリーを回り反対車線へ。街の中でもメインのこの通りは片側三車線で朝の出勤時間なのか通常よりも混んでいた。
「イーサンとは意外だったな」
「確定ではない」
「ほぼ確定みたいなもんだろ。このタイミングで街から離れてるんだ、教団と関わりがないとは思えない」
「だが奴ならこの国以外での情報源は誰になる」
 大通りを外れ郊外へ向かう。幾分か車通りが少なくなった道をイーサンを追いながら走らせ、前方から視線を逸らすことなくエルが質問をすれば白鶴は眉を顰めた。
「………追おう」
 何はともあれイーサンを捕まえれば何か分かるはずだ。

 ***

 繁華街を離れひたすら北西へ。イーサンとはおおよそ3キロほど離れている。相手の姿すら視認できないこの距離ならばこちらの追跡に気付かれることはないだろうが、街を離れ車が減ればいずれバレるだろう。
 イーサンが教祖の元へと向かっているのであれば奴に見つかる前に追跡を切り上げ、そのまま泳がせ居場所を把握したい。だが逃亡を図っている場合はすぐ捕まえなければならなかった。国外逃亡されてしまえばその国の政府へかけ合い逮捕権限の許可を得なければならないが、そんなことをしている間にイーサンは行方をくらませるだろう。
「クソ、やっぱり逃げる気だな」
 あと数分も走れば人工的な景色を抜け舗装されていない土道と荒野が続くが、ここから先300キロの地点には国境線があった。
 警備隊が待機しているもののイーサンはこの国の警察的組織のトップだ。緊急事態だとか何だとか言えば怪しまれながらも通れる可能性は十分に高い。
「飛ばすぞ」
 白鶴の言葉に同意したエルはアクセスを床まで目一杯踏み込んだ。エンジンは回転速度を上げ、唸るような音が車内に響くとぐんぐんと加速していき、体全体にかかる重さに白鶴は思わず叫ぶ。
「はやっ、速いって!何キロ出す気!?」
「上限までだ」
「メーター見せて!…160キロ!?待て待てスピード違反だぞ!」
「そうか」
「そうかじゃなくて…!てか、そういやアンタ免許持ってんの!?」
「ああ。持っている」
「国際自動車免許だよな…?」
「…」
「…ねえ!」
 非難するような視線にエルはアクセスを緩めるとキュッとブレーキをかける。突然の停止に白鶴は勢いよくつんのめりシートベルトが胸と腹を圧迫した。
「ぐっ、え…っ、いきなり止めるなよ!」
「白鶴よく聞け。私は日本出身ではない」
 突然の身の上話に白鶴は怪訝そうな顔をした。
「はあ?」
「国籍も日本にない」
 少し嘘だった。そのうち日高の手配によって宇月の籍にエルは養子として入れられる予定だ。
 …今はまだ手続きは終わっていないだけで。
「……つまり?」
「貴方が取り締まる対象ではない」
「うーん…?」
 無茶苦茶な理論な気がしたが今は納得すべきだろうか。うんうんと悩む白鶴だったがエルの言葉に迷いは捨てた。
「イーサンが車の速度を上げたぞ」
「ゴーだエル!ゴー!ゴー!ゴー!」
 エルが再びアクセルを奥まで踏み込むと壊れそうなほどのエンジン音。車はどんどんと加速していき速度200キロで土煙を上げながら爆走した。
 枯れた草木とむき出しの赤土がただ広がるだけの荒れ地では流れる景色が変わり映えなく、速度を出していてもそのスピード感が曖昧になりやすい。
 だが時折り対向車とすれ違う時の速さと音が明らかに異常で、自分は肝が座った方だと自負していた白鶴もルーフに付いているグリップを両手で強く握り締めていた。
「お、おれ、アンタと心中したくないんだけど!」
「私もそう思う」
 エルはそう言いながらも、ぐんっとスピードは上がる一方で、腹の底やら背中やらからゾワゾワとした感覚が白鶴を襲う。
 ふと視界の先に前方を走る車を見つけたが、右に寄って追い抜こうにも対向車線に大型トラックが複数台続いていた。白鶴は嫌な予感がして「前、いるぞ」と忠告するように声かけたが隣からの返事はない。
「エル」
「…」
「エル、エル…エル!前!前、前に車!」
「うるさい」
 ピシャリと冷たく言い放つとエルはぐいっとハンドルを左に回した。道路から外れ未開拓の荒れ地に乗り上げると車体は大きく揺れ、カサカサと草木が車体を撫でる音、ザリザリとやせた土をタイヤが踏みつける音を立てた。
 前を走る車を追い抜くとエルはまた車を道路へと戻し、なんともなかったかのように走行を続けるのだ。白鶴は思わず止めていた息をぶはっと吐き出して、しょんもりとべそをかいた。
「オレ、アンタがコワイ」
「そうか」
 速度のある車は車線を変えるだけで大きな反動が加わり、その後も次々と車を追い抜いたがその度に車内で振り回されそうなるのを白鶴は悲鳴を上げながら耐えた。
 数十分はそうやって走り続けて「いたぞ」とエルが言う。
 前には白いSUV。
 ミラーでこちらに気付いたのだろう、イーサンもスピードを上げて距離が少し空いた。
「この車で追い付けるか?」
「多分!あっちは電気自動車だからこっちの方が速いとは思うけど」
 白鶴の言う通りこちらの方がスピードが出せるようでじわじわと車間距離を縮めていく。そのまま並走しようして、白鶴は咄嗟に上半身を屈めた。
 ガラスが割れ、発砲音。
 エルはアクセルを離し減速させると車を後ろに下げた。
「エル!」
「問題ない!」
 助手席、運転席の窓が割れ風圧で音が拾いにくい。幸いエルにも弾丸は当たっていなかったようで白鶴はホッと息を吐いて拳銃を構えた。
「あんの根暗男!親日家気取っておいてこれかよ!」
「タイヤを撃てるか」
「斜め後ろに付けてもらえたら!」
「分かった」
 白鶴が狙いやすいようイーサンの右後ろに車を付けようとハンドルを切るがあちらも狙いに気付いたのか追走してくる。右に切れば右へ、左へ切れば左へとキリがない。
 試しに窓から身を乗り出しタイヤを狙ったが映画のようにはいかない。リアウインドウを撃ってみたが防弾ガラスで小さなヒビが入るだけだった。
「弾はあと二発だからもう無駄撃ちできない」
「給油ランプも点灯した」
「あと50キロくらいしか持たないな…」
「強行するしかない」
「待って!怖いこと考えてるでしょ!」
「やはり貴方は心が読めるようだ」
 笑いを含んだエルの言葉に嫌な予感はまた当たったらしい。
「運転を代われ白鶴」
「マジかよ…」
 そう言うや否やエルは右足を離し左足でアクセルを踏みながら窓から上半身を出し始める。白鶴は慌ててハンドルを握り、エルが避けたスペースに体を捩じ込むとワンツースリーでアクセルを踏む足を交代させた。
 そのままエルが車の上へと移るのを見届け、白鶴は己の中の恐怖心をぐっと堪えアクセルを踏みしめる。真後ろに追従し続けているとトンと真上で足音がして、窓から見上げればエルがイーサンの車に飛び移っていた。時速は230キロ。このスピードの中でそんなことする度胸あるか?エルの行動に驚きを通り越して白鶴は無意識に笑っていた。
 イーサンが天井に張り付いたエルを振り落とそうと車を蛇行し始める。
 エルは携帯していたミリタリーナイフの枝の部分でリアの窓を叩き、数回の打撃でヒビが入り銃弾で完全に割るとそこからスルリと車内に侵入した。
 見守っていた白鶴の目の前でフロントガラスにヒビが入る。イーサンが後部座席に侵入したエルに向け撃ったようで、その流れ弾が当たったのだろう。
 アクセルをさらに踏み込み車を加速させると、並走しながら残りの弾を車体に撃ち込んだ。ジロリと睨み付けてきたイーサンにバーカ!マヌケ!お前のカーチャンデーべソー!と適当に叫んで、自分に意識が向いた瞬間エルが背後からイーサンの首元にナイフを突き付けた。
 窓からの激しい風であちら様子はよく分からなかったが、乱れる髪の隙間からイーサンがハンドルを大きく回転させたのが見えて白鶴は思わずブレーキをかけた。
 イーサンとエルが乗った車は激しく横転し、そのまま跳ねるようにガタガタと転がってその勢いを殺していく。白鶴が急停止した場所から二百メートルほど離れたところでエルの乗った車はひっくり返った状態で止まった。
 雲みたいな大きな土煙が辺りを覆って視界を遮る。白鶴は急いで車から降りエルの元まで走った。
 飛び散った部品を避けながら駆けて、辿り着く頃には薄茶色の煙は風に流されひしゃげた車がはっきりと見えてきた。
 フロントはぐしゃぐしゃに潰れてエンジン部分が剥き出しになっている。粉々に割れたガラスのせいで車の中の様子は伺えなかった。
「エル!」
 助手席のドアをこじ開けようとノブに手をかけて、鈍い音と振動を感じ白鶴はその場から離れる。
 ――ドンッ、ドンッ!
 助手席側のドアが内側から勢いよく蹴破られる。のっそりと現れた戦闘服のフルフェイスに白鶴はへたり込みそうなほど安心した。ずるりとエルが車内から引き摺り出したのはイーサンだ。彼も頭から血を流してはいるが生きているようで痛みにこめかみをひくつかせていた。
「怪我は…!」
「問題ない」
 強がりではなく本当に無傷らしい。白鶴はその頑丈さにまた笑ってしまった。
 ――本当に人間離れした男だ。
 携帯で赤松に事の顛末を報告し、迎えを寄越すと言われ白鶴はやっと呼吸できるみたいに体が軽くなる。大事故の様子に何事かと野次馬が集まって来ていたが今は彼らを相手する気力もなかった。
 ドサっと座り込み空を仰いだ。
 相変わらずの曇り空だったがひと仕事終えた後の空は少しだけ晴れて見えた。
「……エル?」
 エルがどこかを見ていたので白鶴もその視線の先を追えば、サイドとフロントの窓が粉々に割れた真っ黒な高級セダン。細かな傷と飛び石で凹んだ車体、急ブレーキですり減ったタイヤ。よく見ればヘッドライトも割れていた。
「…うん…………」
 白鶴は再び空を見上げた。
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