銀の細君は漆黒の夫に寵愛される

理音

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王国の聖女編

私の名前(終)

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ミュリエル・フォン・ルシフェル視点

ーーーーーーーーー

コンソメスープの湯気が緩やかにたちのぼる。アル様の優しい横顔が見えるだけで、少しずつ指先のこわばりがほぐれていく気がした。
久しぶりに、2人で食べる夕食のメインは白身魚のムニエルでした。香ばしいバターの香りに、食欲が刺激される。
私を膝に座らせて・・・いつも隣に用意されるはずの椅子が、なぜか今朝から見当たらないのです・・・彼は、普段と変わらない穏やかな笑みをたたえて、目の前の皿に小さな切り身を取り分けてくれた。

「無理しなくていいよ。口に合わなければ、別のものを用意させる」
「いえ、食べたいです。二ールの作るご飯は、全て美味しいですから」

アル様は、私の返事を目を細めて聞いていた。
オレンジとアーモンドを散らしたグリーンサラダに、デザートの洋梨のコンポートまで。今日のメニューは、私の好きなものばかりでした。素知らぬ顔をしていますが、旦那様の甘やかしに磨きがかかっていると思います。
・・・声も手も、もう震えていなかった。たぶん、触れているところが多くて、じんわりした温もりに安心できていたから。

「じゃあ、ミュリエル。そんな顔しないで」
「え・・・?」
「僕の膝の上にいるのに、心ここにあらずって感じがする」

振り返れば、まさか浮気? と悲しげに首を傾げられてしまい、慌てて首を横に振ります。

「そんなことは、絶対にあり得ません!」
「ふふ、良かった。じゃあ、いただこうか」
「はい、いただきますっ」
「ムニエルどうぞ」

気持ちを切り替えて、当然のように差し出される身をゆっくりと味わう。淡白な白身の味と、香草バターの香りが口内に広がる。

「・・・美味しいです」
「良かったね。足りなかったら僕の分も食べていいよ」
「いえ、そんなに食べたらデザートが入らなくなってしまいます・・・」
「それは、一大事だ」

会話も弾み、ムニエルを食べ終わる頃には喉のつかえも消えていました。食べ切ることができたことに、少しだけ誇らしい気持ちさえ湧いてきて。
だいぶ子供じみていたけれど、一口食べるごとに褒めたり、頭を撫でたりしてくれるアル様がいる。それがとても、心地よかったから。


△▼△


その夜、会えなかった日々を埋めるように、私たちは片時もそばを離れなかった。離れたくなくて、2人してどこか身体の一部が触れるようにぴったりくっついていた。
・・・はっきり言って、至福のひとときでした。

「失礼致します」

寝る直前、2人でベッドに腰掛けていると、そっと扉がノックされる。控えめに顔を出したのは、クリスだった。久しぶりに見たその姿は相変わらず整然としていて、手にしたトレイの上には2つのカップが乗っている。

「アルディオス様、ミュリエル様。ミルクを淹れました。よろしければ、お休み前にどうぞ」
「ありがとう、クリス」

アル様から手渡されたカップからは、ほんのりと甘い香りがしました。きっと、花の蜜でも溶かしてくれたのでしょう。湯気のたつホットミルクを啜ると、心まで温かくなっていく。思わずほぅ、と息が漏れた。
そっと横を見ると、彼のカップはすでに空だった。
・・・いつの間に。猫舌では、ないのでしょうか?
そんな思考など知らないアル様は、カップをテーブルに静かに戻した。その後は何も言わず、ただそっと右手を私の腰に添えて引き寄せて、ゆっくりとミルクを飲むそばにいてくれた。触れている肩と手の温もりに包まれて、安堵している自分に気づく。
ふと、ポツリと正直な気持ちが漏れていた。

「この前・・・怖かった、です」
「うん」
「でも。名前を、呼ばれませんでした。だからわかったんです」
「以前にも、話をしたけれど。君の名は、必要な者だけに伝えると最初から決めていたからね。僕の世界で、一番尊い音だ」

アル様の言葉が、胸にしみる。静かな夜に、涙が落ちる代わりにため息がこぼれた。
ーあの日から、もう3週間が過ぎようとしていたのに。
怖かった。確かに、知らない人に声をかけられた時、どうしていいかわからなかった。
でも、それ以上に怖かったのは。自分で判断して行動した結果、アル様を困らせて、傷つけてしまうかもしれなかったこと。

「ごめんなさい・・・見えなかったとはいえ、見知らぬ人の前でアル様と、呼んでしまいました」
「愛称なら、いくらでも。だってアルヴィンだってアルフォンスだっているよ?」

気にすることない、と頭を撫でてくれる。それでも心にどこか引っかかっていたので、ゆっくりと顔を上げると額にキスを落とされた。

「・・・これからも、呼んでいいですか?」
「もちろん。そろそろ、敬称も取って欲しいけどね」

仰ぎ見た顔は、どこまでも甘くて優しい。緩めた瞳に私だけを映して、ん? と首を傾げる彼に、今なら聞ける気がした。

「アル、様・・・私が話したとき、困りましたか?」
「・・・嫉妬はしたよ。僕の許可なく男と話したから」
「ええぇ、それではクリスやツヴァイ、トレーシー様たちとも話せないですよ?」
「・・・彼らは、まあ許そう」

会話を重ねるうちに、いつの間にか手の中のマグカップも空になっていて。それを取りあげたアル様は、私をゆっくりとベッドに横にしてくれる。向かい合って、照明の弱まった部屋で2人で話す。

「・・・私のせいで、嫌な思いは本当にされていませんか? 怒っていませんか?」
「全く・・・もし、この前の事について心配しているのなら、ミュリエルが温室に行く許可を出したのは僕だ。むしろ怖い思いをさせたね」

顔の前に出ていた手を、撫でてくれる。まるで、震えがないか確認するかのように。

「アル様のせいではありません・・・でも、どうしても、整えておきたい草木があって」
「図書室も、パントリーにも行けずに長らく僕のいない執務室で我慢していてくれたからね・・・正直、奥で作業してたはずなのに、出てきたのには驚いたけど」

恥ずかしくなって、顔を手で覆う。でも、微笑みながらも不思議そうな彼に、答えないなんて不義理はできません。

「立ち上がったときに、ドア越しにアル様の姿が見えて・・・いつものように様子を見に、会いに来てくれたと勘違いしてしまって」
「僕のせいか。なおさら怒れないな・・・それよりも、妻が勇敢すぎて惚れ直しちゃったよ」

まさか、ミュリエルから尋ねるなんて思ってもみなかったから。
アル様も、いつもより正直に話してくれているようで。嬉しくなって、本当のことを伝えます。

「あなたが私を、守って抱きしめていてくれたから。聞けたのです」
「そう・・・僕の重い愛が伝わっているようで、何よりだよ」
「重くなんて。私には、ちょうどいいです」

ぱちりと、瞬きするアル様。不意をつかれた可愛い顔にふふふと笑うと横向きから仰向けにされ、両手をそれぞれ指を絡めてシーツに縫い付けられる。
黒の天蓋を背に、細めた漆黒の瞳に宿るのは、溶けてしまいそうな熱。ゾクゾクと、背筋を震わせたのはそれが私にも伝染していたから。

「ミュリエル、僕を悦ばせるようなことばかり言ってると。いつか本気で監禁するよ?」
「・・・そのときは、アル様もですからね」
「?」
「1人で待つのは、怖いし嫌です。一緒に捕まっていて欲しいです」

この国の王としての立場がある、彼には無理なことだとわかっています。
だからいつか。我儘を未来に願うだけは、許してもらいたいです。

「・・・そうだね。そのときこそ、

言葉とともに、囚われたままの右手の甲にキスを落とされて。その瞬間、私にははっきりとわかりました。
彼からもらった黒のビロードの香袋に、目立たない黒で刺繍された誓いの言葉。
ぽろりと、涙が溢れます。でも、これは嬉し涙なのでどうか許して。どうか、心配しないで。

「愛しています・・・アル」
「僕も。ミュリエル」
「きゃ」

見上げていた彼に抱き締められたまま反転させられて、今度は胸の上に。バスローブ越しに体温を感じて、急に恥ずかしくなって顔を横に向けます。
・・・まだまだ溢れて止まらない涙を、ごまかすのにちょうどよかったから。

「あー、僕の妻が最高に尊い」
「・・・アルも、素敵でした。いつもあんな風に、毅然と対応をなさっているのですね」
「怖くなかった?」
「いいえ、全く。むしろ、惚れ直してしまいました」

2人して、くすくす笑う。滲んだ涙をぬぐう指が、いたずらにふにと頬をつまむ。こちらも手を伸ばしてつまみ返す。私よりも年上で男のひとなのに、お肌がつるつるで、すべすべです。
下にはアル、上は2人の体温で温められた布団に包まれて、瞼が重い。それでも、なぜか普段ためらうことも言えてしまう今夜に、聞いておきたかったことがあった。

「わたし、ちゃんと、守れましたか・・・?」

お守り作りを頼まれてから、ずっとずっと考えていたこと。
彼の想いに、信頼に応えられているのか。確かめておきたかった。

「ああ。僕の身も心も、部下たちすら守ってくれたよ」

アルは頷いて、再度抱きしめてくれた。やさしく、深く。
その腕の中で、やっと肩の力を抜いて心から安心できた。
彼の手が、額に触れる。やさしく唇が触れ、静かに言葉が落ちる。

「ゆっくりおやすみ、ミュリエル」
「おやすみなさい、アル」

私の、名前。祖国からこの身とただ一つ、持ってきたもの。
たとえ同じ名前を持つ人に出会っても、彼にこの響きで呼んでもらえるのはこの世界で私だけ。なんて、幸せなことなんだろう。
瞼を閉じると、そこにはもう恐怖も緊張もなかった。ただ、あたたかな暗闇に沈むだけだった。
きっと、明日からもまた色々ことがある。でも、私は独りじゃない。
私を、大切にしてくれるひとたちがいる。
唯一愛し、それ以上の愛を返してくれるアルが、いる。

一緒なら、大丈夫。
眠りの底へ落ちるその瞬間、私は小さくつぶやいた。


(終)
ーーーーーーーーー







これで王国の聖女編完結です。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。

次は、裏設定などを含むあとがきになります。ご興味がありましたらご一読ください。
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