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王国の聖女編
事の顛末ーⅢ(アルディオス視点)
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夜明けの空に紺の名残が漂っている頃、執務室に明かりが灯っていた。わずかに開けた窓から頬を撫でる心地よい風が吹き、積み上がった文書の上にはインクの香りがほのかに漂う。
僕は、黒のスラックスとシルクの濃紺のシャツを纏い、執務椅子の前にある来客用のソファに腰掛けていた。肩にかけていた漆黒のローブは、いつもの席に置いてきた。
一応、報告会だからポーラータイを身につけてはいるけれど。菱形にカットされたアメトリンのブローチと、銀と黒を編んだ組紐でできている。入室直後、僕の装いを見たトレーシーが満面の笑みを浮かべて良くお似合いです、と口走ったのだからどうしてこれを身につけているかなんて、この部屋に入れる者たちには知れている。
視線は書類の文字の上を静かに辿り、耳は執務室の扉が控えめに4度叩かれる音を捉えた。
「入室を許可する」
「失礼いたします」
深緑の髪を揺らし、クリスが入ってきた。手には書類の束を携えている。僕の対面のソファにはダークレッドの燕尾服を着たトレーシーが座り、ヴィントとツヴァイは部屋の一角に控えていた。
この面々が一堂に会するのは久しぶりのことだ。クリスは深く礼をして、それぞれに報告書を差し出す。
「王国の情勢について、影と私が諜報したものを照らし合わせ、最新のものをお持ち致しました」
「聞こう」
僕は手を止めて、静かに顔を上げる。瞳にあるのは労いと、冷えた観察だ。
「始めに、ヴィントから」
「は。まず、王国の公式声明ですが、聖女の失踪については個人の独断による暴走行動であり、魔の国にも、王国にも責任なしとの内容でした。概ね主の予想通りです」
「ええ。たとえ真相を問い詰められても全員が知らぬ存ぜぬを通せばいいこと。教会との亀裂は入りましょうが彼自身、以前から聖女の真偽について思うところがあったようですから」
クリスの口調は静かだったが、その一言には確かな重さがあった。
僕が、彼を国に招いた最大の理由は見極めるため。素質、思考、人となり。若輩だが、悪くない・・・だけれど。
あの時、彼が蒼の瞳を濁らせ、諦念を浮かべた瞬間。僕の敵ではなくなった。
その上、これから隣国の次期王が教会との距離感を測る体制に入るのだ。駒、とまではいかなくとも獅子身中の虫を手に入れたに等しい。
加えて、王太子自身が僕から無期限の国外退去の処分を受けている。彼の言葉がどれほど自己弁護に傾こうとも、しばらくは僕の国に干渉する余地など微塵もないのだ。
「彼はしばらく、聖女失踪の件について教会と、王家のバランスを取るため内政に励む。監視の許可も貰ったし、情報源として申し分ない。有効活用させてもらおう」
ちなみに、僕の予想では彼も、王国も持ち堪えると踏んでいる。ぜひ頑張ってもらいたいものだ。
一つ懸念があるとすれば、聖女を喪った教国の動き。こればかりは注視するより他にない。
・・・宣言後にも、何一つ動きがなかった癖に。欲をかいて僕を怒らせないといいけど。
「加えて、同行者たちですが。まず、王太子の護衛騎士は彼の判断に異を唱えることなく随行。王都に戻ってからもそばを離れることなく、問題行動はありません」
「得てして騎士とは真実よりも、忠義を取るものです。特に、彼は王太子付きが長い」
「単身で動くことは、考えなくてよさそうだね」
そう評してから、目の光を強めて意識的に次の報告を促す。それに気づいて頷いたクリスは、次に一枚の紙を捲った。
「アルディオス様の憂慮であった、聖騎士のルイスですが。彼はどうやらアレに魅了されていただけのようで、聖女失踪の責任を問われて聖騎士団を追放され、冒険者となりました」
「へぇ」
その言葉に、嫌な記憶が蘇ってしまったのかトレーシーが心底ぐったりした顔をした。
心なしか、彼のトレードマークのベレッタも元気がなさそうに見える。
「いやあ、部屋に置き去りにされていた兜から、ものすごい匂いが・・・あれは、マジでえげつなかった」
「それこそ、魅了というより粘着質な呪いだな」
僕は冷たく呟いた。アレに降った信奉者、騎士たちの何人かは失踪の一報を受けて心身に異常をきたし、酷い末路を辿ったと報告にあった。正直、偽物を見極められなかったのだから自業自得としか言いようがない。
それに対して、聖騎士は最も身近にいたにしては影響が少ない。彼自らに宿る聖魔法のせいか。聖職から外れて自由な立場になったことで、ようやく何かが解けたのだろう。
ーただ、唆されただけだとしても、犯した罪がなくなるわけではない。
「その腕は確かで、今は各地で人助けをしているとのこと。王国内を放浪していますが、魔の国への接近・怨恨は言動ともに認められません」
「わかった。彼、かつ例の件に関わった者たち全てについて、僕から手は出さない。ただし遺族が情報開示を希望する場合は丁寧に応じるように。窓口はクリスに集約をして、事実確認ができ次第速やかに開示せよ」
「畏まりました。アルディオス様」
「はっ。須くクレーエによる監視を続けます」
「もう1点、その者たちの実力については調査を重ねて確実に言い含めろ。いくら本人の希望でも、国の民を無駄死にさせることは防ぐべきだ」
「主の御心のままに」
「アルディオス様の御心のままに」
ヴィント、クリスが声を揃えて同時に臣下の礼を取る。僕は頷いて返した。
少しして、礼を解いたクリスは報告を続けた。
「その他の同行者については、領地へ戻る者、褒美を得て旅立った者とまちまちです。ですがいずれも、魔の国への恨みを公言する者はいません」
「柱による継続監視も、問題なく機能しています」
「・・・わかった」
僕はわずかに息を吐くと、掌でブローチを指先で押さえる。石を手にするその動作に、決意を込めて命じる。
「では、引き続き監視を命じる。しばらく干渉は届かないと思うが、気は緩めぬように」
部屋にいる全員が口々に返事をし、頷いた。これで一連の騒動は、ようやく終息に向かう。
初手こそ、相手に取られてしまったが。大切なものを傷つける手が二度とこの地に届かないよう、全ては綿密な計画に沿って入念に準備した。それが成って、やっと僕は一息つけた。
「報告は以上? クリス」
「はい、アルディオス様。紅茶をお淹れ致しましょうか?」
「じゃあ、1杯だけ。他は?」
「俺も飲みたい」
手を挙げて応えたトレーシーに、クリスは半目を向けているが。意に返した様子はない。
「陛下、大変光栄でありがたい申し出ですが。私は、護衛任務に戻ります」
「主、私も戻ります」
「わかった。2人ともご苦労だったね」
「ありがたき、幸せ」
僕の声かけにヴィントとツヴァイは、声を揃えて同じ角度の礼をとった。同じ騎士団所属、一応はツヴァイが上司、ヴィントが部下だ。あまり関わり合いはないようだけど、無言実行、忠義に厚いところなど根はよく似ている。
「ヴィントはクレーエの手配を整えたら、最低2日間はゆっくり休むように。ツヴァイは引き続き頼むよ」
「御意」
2人が退出すると同時にカップが2つサーブされ、僕とトレーシーは対面したまま紅茶を飲んだ。
「あつ・・・」
「トレーシーもご苦労だったね。髪、大丈夫?」
「ああ、どうせ伸びるからいい。ただもう、しばらく呪物は見たくないな」
少し青ざめ、身を抱いて震える。意外というか、彼には潔癖症なところがある。
「そうならないように願ってて」
「早く本業に戻りたい・・・」
水晶の明かりの横、オレンジの瞳が恋焦がれるように揺れた。頭の中で布でもレースでも、リボンでも弄る妄想をしているらしい。
トレーシーの本心からの言葉に、僕はちょっとだけ申し訳ない気持ちになる。
彼には、2つに加えてアレが持ってきたロザリオの処理も頼んでいたから、過度な負荷をかけた。そういうときの集中力と丁寧さは勝る者がないので、今後も活躍してもらうつもりだけど。
「・・・わかった。イシュラから成果が届いたら、一度だけ君に優先権を与えよう」
「いよっしゃあ! さすが太っ腹ぁ!」
予想もしていなかったご褒美に、彼はいきなり立ち上がって拳を振り上げた。くすくす笑う僕の背後で、激しい咳払いが一つ。
さっと、席について胸に手を当て、トレーシーはきっちり角度を決めて頭を垂れた。
「陛下に、深い敬意と感謝を。部下の喜ばせ方をよくご存じのようで」
「名君でしょ」
「まさしく・・・ところで、あの魔石、どうしたんだ?」
自分の仕事の後が気になるのも彼らしい。瞳を細め、膝を組む。肘掛けに頬杖をついて僕は答えた。
「当然返したよ。裏にしてね」
「さすが、陛下」
聞いたトレーシーも、したり顔で紅茶を飲んだ。
ヒトには一般的に知られていないが。魔石には表と裏がある。表にすれば魔力は外へ。裏にすれば内へ。
額に、裏向きに埋め込み幾重にも固めたから。アレから魔力が絞り取られるほどに、ほんの少し戻る魔力で現状が、真実の姿だと思い込むようになる。
アレに違和感など、微塵も起こさせはしない。
「ごちそうさま、クリス。トレーシー、僕はもう行くよ」
「こんな早朝にどこへ? って聞くまでもないか」
「うん。ほら、出るよ」
「行ってらっしゃいませ。アルディオス様」
「クリスも、準備、頼んだよ」
3人連れ立って、執務室を出る。2人が階段を下りていくのに対して、僕は当然登る。無言で付き従うツヴァイも一緒だ。
歩いていて、眉がほんのわずか緩んだ。眩しさからではなく、僕もこれからのことを想像していたから。
最上階、黒のシーツが引かれたベッドの上で、毛布にくるまり枕に頬をうずめて眠っているだろう愛しい人。僕のいない間は、フロアごと男性の立ち入りを一切禁じているから、今は侍女と女騎士たちが静かに護ってくれている。
誰にも渡さない。僕だけのミュリエル。
そう誓った相手が、僕だけしか入れない寝室ですやすやと、微睡んでいる。そんな光景が脳裏に浮かぶ。
「・・・そろそろ、よく寝た妻を起こしに行かなければ、ね」
思わず、口に出ていた。ツヴァイは登った階段前に置いてきたから、反応する者は誰一人としていない。
外はようやく日の出とともに、朝の気配が濃くなっている。窓辺に差す光が、シャツの裾を淡く照らした。
・・・やっぱり、少し眠ろうかな。久しぶりにミュリエルを胸に抱いて、ぬくもりに顔をうずめて、彼女の甘やかな香りで癒されたい。
究極の2択を悩ましくも、嬉しく思いつつ。アメトリンに指をかけてタイを緩め、寝室の扉を静かにくぐった。
僕が望んで手に入れた平穏な1日は、これから始まるのだ。
僕は、黒のスラックスとシルクの濃紺のシャツを纏い、執務椅子の前にある来客用のソファに腰掛けていた。肩にかけていた漆黒のローブは、いつもの席に置いてきた。
一応、報告会だからポーラータイを身につけてはいるけれど。菱形にカットされたアメトリンのブローチと、銀と黒を編んだ組紐でできている。入室直後、僕の装いを見たトレーシーが満面の笑みを浮かべて良くお似合いです、と口走ったのだからどうしてこれを身につけているかなんて、この部屋に入れる者たちには知れている。
視線は書類の文字の上を静かに辿り、耳は執務室の扉が控えめに4度叩かれる音を捉えた。
「入室を許可する」
「失礼いたします」
深緑の髪を揺らし、クリスが入ってきた。手には書類の束を携えている。僕の対面のソファにはダークレッドの燕尾服を着たトレーシーが座り、ヴィントとツヴァイは部屋の一角に控えていた。
この面々が一堂に会するのは久しぶりのことだ。クリスは深く礼をして、それぞれに報告書を差し出す。
「王国の情勢について、影と私が諜報したものを照らし合わせ、最新のものをお持ち致しました」
「聞こう」
僕は手を止めて、静かに顔を上げる。瞳にあるのは労いと、冷えた観察だ。
「始めに、ヴィントから」
「は。まず、王国の公式声明ですが、聖女の失踪については個人の独断による暴走行動であり、魔の国にも、王国にも責任なしとの内容でした。概ね主の予想通りです」
「ええ。たとえ真相を問い詰められても全員が知らぬ存ぜぬを通せばいいこと。教会との亀裂は入りましょうが彼自身、以前から聖女の真偽について思うところがあったようですから」
クリスの口調は静かだったが、その一言には確かな重さがあった。
僕が、彼を国に招いた最大の理由は見極めるため。素質、思考、人となり。若輩だが、悪くない・・・だけれど。
あの時、彼が蒼の瞳を濁らせ、諦念を浮かべた瞬間。僕の敵ではなくなった。
その上、これから隣国の次期王が教会との距離感を測る体制に入るのだ。駒、とまではいかなくとも獅子身中の虫を手に入れたに等しい。
加えて、王太子自身が僕から無期限の国外退去の処分を受けている。彼の言葉がどれほど自己弁護に傾こうとも、しばらくは僕の国に干渉する余地など微塵もないのだ。
「彼はしばらく、聖女失踪の件について教会と、王家のバランスを取るため内政に励む。監視の許可も貰ったし、情報源として申し分ない。有効活用させてもらおう」
ちなみに、僕の予想では彼も、王国も持ち堪えると踏んでいる。ぜひ頑張ってもらいたいものだ。
一つ懸念があるとすれば、聖女を喪った教国の動き。こればかりは注視するより他にない。
・・・宣言後にも、何一つ動きがなかった癖に。欲をかいて僕を怒らせないといいけど。
「加えて、同行者たちですが。まず、王太子の護衛騎士は彼の判断に異を唱えることなく随行。王都に戻ってからもそばを離れることなく、問題行動はありません」
「得てして騎士とは真実よりも、忠義を取るものです。特に、彼は王太子付きが長い」
「単身で動くことは、考えなくてよさそうだね」
そう評してから、目の光を強めて意識的に次の報告を促す。それに気づいて頷いたクリスは、次に一枚の紙を捲った。
「アルディオス様の憂慮であった、聖騎士のルイスですが。彼はどうやらアレに魅了されていただけのようで、聖女失踪の責任を問われて聖騎士団を追放され、冒険者となりました」
「へぇ」
その言葉に、嫌な記憶が蘇ってしまったのかトレーシーが心底ぐったりした顔をした。
心なしか、彼のトレードマークのベレッタも元気がなさそうに見える。
「いやあ、部屋に置き去りにされていた兜から、ものすごい匂いが・・・あれは、マジでえげつなかった」
「それこそ、魅了というより粘着質な呪いだな」
僕は冷たく呟いた。アレに降った信奉者、騎士たちの何人かは失踪の一報を受けて心身に異常をきたし、酷い末路を辿ったと報告にあった。正直、偽物を見極められなかったのだから自業自得としか言いようがない。
それに対して、聖騎士は最も身近にいたにしては影響が少ない。彼自らに宿る聖魔法のせいか。聖職から外れて自由な立場になったことで、ようやく何かが解けたのだろう。
ーただ、唆されただけだとしても、犯した罪がなくなるわけではない。
「その腕は確かで、今は各地で人助けをしているとのこと。王国内を放浪していますが、魔の国への接近・怨恨は言動ともに認められません」
「わかった。彼、かつ例の件に関わった者たち全てについて、僕から手は出さない。ただし遺族が情報開示を希望する場合は丁寧に応じるように。窓口はクリスに集約をして、事実確認ができ次第速やかに開示せよ」
「畏まりました。アルディオス様」
「はっ。須くクレーエによる監視を続けます」
「もう1点、その者たちの実力については調査を重ねて確実に言い含めろ。いくら本人の希望でも、国の民を無駄死にさせることは防ぐべきだ」
「主の御心のままに」
「アルディオス様の御心のままに」
ヴィント、クリスが声を揃えて同時に臣下の礼を取る。僕は頷いて返した。
少しして、礼を解いたクリスは報告を続けた。
「その他の同行者については、領地へ戻る者、褒美を得て旅立った者とまちまちです。ですがいずれも、魔の国への恨みを公言する者はいません」
「柱による継続監視も、問題なく機能しています」
「・・・わかった」
僕はわずかに息を吐くと、掌でブローチを指先で押さえる。石を手にするその動作に、決意を込めて命じる。
「では、引き続き監視を命じる。しばらく干渉は届かないと思うが、気は緩めぬように」
部屋にいる全員が口々に返事をし、頷いた。これで一連の騒動は、ようやく終息に向かう。
初手こそ、相手に取られてしまったが。大切なものを傷つける手が二度とこの地に届かないよう、全ては綿密な計画に沿って入念に準備した。それが成って、やっと僕は一息つけた。
「報告は以上? クリス」
「はい、アルディオス様。紅茶をお淹れ致しましょうか?」
「じゃあ、1杯だけ。他は?」
「俺も飲みたい」
手を挙げて応えたトレーシーに、クリスは半目を向けているが。意に返した様子はない。
「陛下、大変光栄でありがたい申し出ですが。私は、護衛任務に戻ります」
「主、私も戻ります」
「わかった。2人ともご苦労だったね」
「ありがたき、幸せ」
僕の声かけにヴィントとツヴァイは、声を揃えて同じ角度の礼をとった。同じ騎士団所属、一応はツヴァイが上司、ヴィントが部下だ。あまり関わり合いはないようだけど、無言実行、忠義に厚いところなど根はよく似ている。
「ヴィントはクレーエの手配を整えたら、最低2日間はゆっくり休むように。ツヴァイは引き続き頼むよ」
「御意」
2人が退出すると同時にカップが2つサーブされ、僕とトレーシーは対面したまま紅茶を飲んだ。
「あつ・・・」
「トレーシーもご苦労だったね。髪、大丈夫?」
「ああ、どうせ伸びるからいい。ただもう、しばらく呪物は見たくないな」
少し青ざめ、身を抱いて震える。意外というか、彼には潔癖症なところがある。
「そうならないように願ってて」
「早く本業に戻りたい・・・」
水晶の明かりの横、オレンジの瞳が恋焦がれるように揺れた。頭の中で布でもレースでも、リボンでも弄る妄想をしているらしい。
トレーシーの本心からの言葉に、僕はちょっとだけ申し訳ない気持ちになる。
彼には、2つに加えてアレが持ってきたロザリオの処理も頼んでいたから、過度な負荷をかけた。そういうときの集中力と丁寧さは勝る者がないので、今後も活躍してもらうつもりだけど。
「・・・わかった。イシュラから成果が届いたら、一度だけ君に優先権を与えよう」
「いよっしゃあ! さすが太っ腹ぁ!」
予想もしていなかったご褒美に、彼はいきなり立ち上がって拳を振り上げた。くすくす笑う僕の背後で、激しい咳払いが一つ。
さっと、席について胸に手を当て、トレーシーはきっちり角度を決めて頭を垂れた。
「陛下に、深い敬意と感謝を。部下の喜ばせ方をよくご存じのようで」
「名君でしょ」
「まさしく・・・ところで、あの魔石、どうしたんだ?」
自分の仕事の後が気になるのも彼らしい。瞳を細め、膝を組む。肘掛けに頬杖をついて僕は答えた。
「当然返したよ。裏にしてね」
「さすが、陛下」
聞いたトレーシーも、したり顔で紅茶を飲んだ。
ヒトには一般的に知られていないが。魔石には表と裏がある。表にすれば魔力は外へ。裏にすれば内へ。
額に、裏向きに埋め込み幾重にも固めたから。アレから魔力が絞り取られるほどに、ほんの少し戻る魔力で現状が、真実の姿だと思い込むようになる。
アレに違和感など、微塵も起こさせはしない。
「ごちそうさま、クリス。トレーシー、僕はもう行くよ」
「こんな早朝にどこへ? って聞くまでもないか」
「うん。ほら、出るよ」
「行ってらっしゃいませ。アルディオス様」
「クリスも、準備、頼んだよ」
3人連れ立って、執務室を出る。2人が階段を下りていくのに対して、僕は当然登る。無言で付き従うツヴァイも一緒だ。
歩いていて、眉がほんのわずか緩んだ。眩しさからではなく、僕もこれからのことを想像していたから。
最上階、黒のシーツが引かれたベッドの上で、毛布にくるまり枕に頬をうずめて眠っているだろう愛しい人。僕のいない間は、フロアごと男性の立ち入りを一切禁じているから、今は侍女と女騎士たちが静かに護ってくれている。
誰にも渡さない。僕だけのミュリエル。
そう誓った相手が、僕だけしか入れない寝室ですやすやと、微睡んでいる。そんな光景が脳裏に浮かぶ。
「・・・そろそろ、よく寝た妻を起こしに行かなければ、ね」
思わず、口に出ていた。ツヴァイは登った階段前に置いてきたから、反応する者は誰一人としていない。
外はようやく日の出とともに、朝の気配が濃くなっている。窓辺に差す光が、シャツの裾を淡く照らした。
・・・やっぱり、少し眠ろうかな。久しぶりにミュリエルを胸に抱いて、ぬくもりに顔をうずめて、彼女の甘やかな香りで癒されたい。
究極の2択を悩ましくも、嬉しく思いつつ。アメトリンに指をかけてタイを緩め、寝室の扉を静かにくぐった。
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