銀の細君は漆黒の夫に寵愛される

理音

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日常編

他者から見た2人(マール視点)

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マール・フォン・リューケルト伯爵視点

ーーーーーーーーーー

年明けの王都は、肌を刺すような冷気と濃く積もった新雪のきらめきに包まれていた。
今日、魔王城では久しぶりとなる新年の謁見式が行われる。現魔王の治世において、この式が開かれるのは在位二十数年のうち数回きり。その貴重な一日に、自分が参列していることにいまだ少し現実味がなかった。

私は、マール・フォン・リューケルト。春には父の跡を継いで領地へ戻る予定の若輩の伯爵だ。魔王陛下に拝謁するのは、本日が初めてとなる。
父は生涯をかけて、前魔王に忠誠を誓った男だった。まだ少年だった私に、幾度となく彼の偉業を語って聞かせたものだ。その語り口には常に敬意があり、ある種の信仰に近い熱を帯びていた。
だが、正直なところ、私はそこまで陛下の人となりをよく知らない。文官として王都に勤めているため、治世の手腕に感嘆することはあっても、執務の現場で直接話をしたことはなかったからだ。
姿は廊下の奥、ちらりと見た際の印象としては漆黒の軍服を纏った美丈夫、という程度。伝聞のみで形成された人物像は抽象的で掴みどころがなく、敬意はあっても実感が伴わなかった。

だからこそ、今日のこの機会がどれほど特別か、わかっているつもりだった。だが、いざ式典服に身を包み厳粛な謁見の広間に列をなして座してみると、何やら落ち着かぬ心地になる。
足元が覚束なく感じられ、現実感が薄く夢の中のようだった。

夕刻の王座の間は、暖房が効いているはずなのに厳かに冴えている。床には黒い絨毯が敷かれ、頭上にはシャンデリアが光を揺らしていた。私は列の前から三分の一ほどの位置に座していたが、周囲の者たち・・・特に長年の忠臣たちは皆、目を輝かせながらも一様に身を固くしていた。
それもそのはず、その場にいた全員が最前列の中央に座す黒衣の男に、言いようのない緊張を覚えていたからだ。
黒髪黒目、長い髪を三つ編みに結って左肩に垂らしている。身に纏う黒のローブには、この国で最も格式高い植物の紋様が刻まれている。背筋を伸ばし、組んだ足を小さく揺らすその姿は、まるでこの待機の時間すらも焦れったいと言わんばかりだ。

「あれが、前魔王様・・・」

父がいれば、咽び泣いたかもしれないとふと思った。
自らの意志で息子である現魔王に王位を引き継いで、隠居したはずの男が何食わぬ顔でここにいる。その事実だけでも異様だった。
何を思い、何を見定めようとしているのか。時折、後ろを振り返りながらも視線を王座の奥へ投げるその目に、私は身震いを覚えた。
まるで、牙を収めたまま微笑む獣のようで・・・王の血筋とは、これほどまでに恐ろしいものなのか。
そんな中、緑髪の宰相が進み出て張りのある声で言う。

「謁見を始める。頭を垂れよ」

その声に従い、私は他の貴族たちと同様に膝をつき深く頭を下げた。布が擦れる微かな音、呼吸を殺すような静謐せいひつ。その緊張の中で、私は耳を澄ませた。
やがて、背後の扉が開き足音が響いた。

・・・一人分しか、聞こえぬ。
我々の、背後から入場したはずの魔王陛下とその妃。特に妃の存在が囁かれていたからこそ、この謁見は特別視されていたはずだ。
だが、歩いてくる足音は一対。左右に一歩ずつ、重厚に床を打つ音だけが広間に満ちる。

おかしい。
だが、私の周囲は誰も気にしていない様子だった。周囲の者たちは眉一つ動かさず、むしろ誇らしげにその足音を受け入れているようで、内心はさらに混乱を極める。
そして次第に、背筋が粟立つような感覚に包まれていく。
歩み寄る足音が一歩また一歩と響くたび、空気が重くなっていく。そこにのしかかるのは魔力、いや、圧だ。威圧のような、存在感のような、しかし明らかに『何か』をまとった気配が広間を染め上げていく。

私は、こめかみがじっとりと汗ばんでいくのを感じながら、それでも顔を上げることはせずにじっと耐えた。
やがて、その歩みが止まった。

おもてを上げよ」

それだけで空気が震える、静かな声だった。
私は、おそるおそる目を開ける。そして、息を呑んだ。
王座の上、黒の軍服に身を包んだ魔王がいた。想像より、ずっと若く成人したばかりと言われても納得の美貌。ただ、全体を眺める眼光鋭く、その纏う魔力も卓越したものがあり、この場を完全に掌握していた。また、紫の宝石のブローチが胸に輝き、銀と金の組紐がそれに繋がる。
・・・その左肩にはひときわ目を惹く銀の髪がこぼれている。

その髪の持ち主は、玉座に座る彼の膝の上に静かに座していた。
少女。いや、紛れもない寵妃だ。

どこか儚げで、若く見える妃は繊細なレースのヴェールで目元を覆い、小さなティアラを戴き、全身を深い黒のドレスに身を包んでいた。首筋には銀の首飾りが輝き、肩を覆う短いケープは黒のベルベット。靴は見えないが、足先まで美意識が徹底されていることは明白だった。

多くの者の視線は、銀の髪へと向いていただろう。神聖で、それ自体が光を放つかのように輝く銀糸の髪。
この場にいる魔族全てに特攻を持つ、聖魔法をその身に宿す証。
だが私は違った。妃の纏う『黒』から、目を離せなかった。

まるで陛下の影そのもののように、妃の装いには一切の隙がなかった。それどころか、ドレスの裾にあしらわれた刺繍は、陛下の軍服の袖と同じ意匠。彼の右手は妃の膝に自然と添えられていて、彼女の両手もそこにある。
まるでそこにあるのが当然であるかのようだった。

「・・・徹底している」

思わず、小声で呟いていた。
彼女は、ただ美しく装われているのではない。誰が見ても一目でわかるように、陛下が『これは我が妃である』と明示するために在る存在なのだ。

まるで、神聖さと恐ろしさを一体にした偶像。
いつの間にか、式は静かに進行していた。陛下は淡々と挨拶を述べ、一人ひとりに目を配っておられる。それに対して妃は終始その膝の上に横向きに抱かれたまま、立ち上がることも、こちらに口を開くこともなかった。
ただ、たまに陛下の胸元に顔を埋めるように身じろぎをするその様子が、妙に生々しく、私の胸をざわつかせた。
やがて、自分の名前が呼ばれた。

「マール・フォン・リューケルト伯」
「はっ、謹んでご挨拶申し上げます」

私はその場に立ち上がり、深く頭を垂れた。顔を上げると、陛下の目が、私をまっすぐに見つめていた。漆黒の、何もかもを見透かすような眼差しだった。

ぞくり、とした。

だがその直後、ふと陛下が口元に微笑を浮かべる。それは温かくもあり、同時に冷たくもある笑みだった。すべてを掌握した者だけが浮かべる、余裕の笑み。

ーその刹那。私はどうしてか、帰りたくないと思ってしまった。
春には領地へ戻り、伯爵としての務めを果たすつもりだった。だがあともう少し、この王の下で働いてみたいと欲が出る。
陛下の統べる国が、どこまで深く、美しく、恐ろしく、そして優れたものなのかを、自分の目でもう少し見てみたいと、そう思ってしまったのだ。

ああ、あれが。あれが、父が語っていた『魔王』か。
そして、その腕に抱かれるあの銀の妃は・・・


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