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8)夜の街
退院して数日が経ち、梓は久しぶりに夜の街へ足を向けていた。
身体のラインを美しく見せる伸びの悪いパキッとした黒いスーツの袖に腕を通した時の感覚は、ご褒美で好きなものを食べているときのような喜びに似ていた。
清武の優しさを存分に味わった休みの期間だったが、梓はそれが日に日に重く感じていて、仕事へ復帰をすることが楽しみで仕方ない。梓はお気に入りのピアスや指輪などの装飾品を身にまとい、甘くそして爽やかな香りのする香水をふわっと耳元にかけ、足早に慣れた道を進み、行き慣れた職場に向かっていた。
今日は、長期で休んでから初めての出勤。
迷惑をかけたことの申し訳なさと、また仕事ができる嬉しさと、頑張ろうという気持ちが慌ただしく梓の中で競争している。仕事を休むことになり、自分の勤める店のオーナーに電話で事情を説明した時は今までにないほど心配された。
売り上げは平均的で、店に居なくても大した損害にならないだろうと梓自身は思っていたが、大事なスタッフとして扱ってくれるオーナーや店長、そしてスタッフの皆の理解力と存在は、梓にとって有難いものだった。今後迷惑をかけてはいけないと思い自分がオメガであることを知らせた時、もう置いてもらえないだろうと覚悟したが、戻ってくることを暖かく願うその対応に、梓は感謝しながら自身も早く戻ることを願っていた。
あと数メートルで目的地である。
「あっちゃーん!」
鶏の感極まった空気をひっかくような嗄れ声が、梓の足を止めた。
「やーん!大丈夫だった?最近見ないと思ったら倒れたっていうじゃないっ!何で知らせてくれなかったの?大丈夫?今は体調大丈夫?電話しても出てくれないしー!おうちまで行くの迷惑かなって思いながらもそもそもマンション知ってても部屋わからないしぃ!それでそれで……!」
隙間なく言葉をつなげて、音調を変えずに話し続けながら梓に抱き着く大木のような人間。花束を身に着けているかのような淡い多色を輝かせているドレスを着ているが、手足はゴツゴツとしていて、鍛えられた筋肉を強調するように太く青く血管が浮き出ているのが目に入る。ドレスが窮屈なのか、それとも窮屈なドレスを着ているのかはわからないが、インパクトあるその姿は、この街でも有名だ。
アイちゃんや愛子と呼ばれる、ベータ性の男性である。
愛子の本名は、梓も記憶に薄い。しかし、愛子とは母親の代からずっとお世話になっていて、最早彼は家族のような存在。唯一、梓がオメガであることをずっと前から知っている人物でもある。
ちなみに愛子を彼というと失礼にあたるため、愛子を誰かに紹介する時は、彼女と呼ばなければならない。
愛子は、ベータ性の男性でありながら乙女の心を貫く人間であり、今社会がオメガよりも最も下級として見ている存在、ベータ性による同性愛者である。
性同一性障害者と周りは指をさすが、愛子は気にも留めず、漢らしい体つきを隠すことなく、女として人生を送っている。
社会から向けられる色んな目があり、たくさん苦労してきたであろう愛子は、よくこういうのだ。
『好きを貫くのは私の勝手』
その強気な姿勢に励まされた者は多く、愛子は今、同じ性癖を持つ人を集い、店を営んでいる。愛子の人の善さと強さを理解されてか、呆れられて見放されてるのかは判らないが、愛子の存在はこの街では多くが受け入れ、店もそこそこ繁盛している。受け入れている者も多いとはいえ、理解していない者も中にはいる。
だが、それを気にしない愛子は身体だけではなく精神も逞しい。
俗に言うオカマという存在は、少しずつこの街だけでも理解されてきているのではないだろうか。それは、愛子だからなのかもしれないが、そういった性癖を持つ者が堂々と外を歩くことのできるこの街が、梓は大好きだ。
梓が夜の街の花となったのも、愛子の応援と手助けあってである。最初は猛反対したものの、オメガ性とはまだ社会的に冷遇された人種であるがため、家柄が助けにならなければ、まともな職に就くことなど、何かしらの予言を言い当てるレベルで難しいとも言える。
梓の家庭環境は、母子家庭で親はオメガのソープ嬢。父親は誰なのかは分からない。
家柄を最も気にされるオメガの性。梓を受け入れてくれる場など、見つけようがなかった。
母親もいつの間にか梓を捨て、姿を消した。
義務教育の真っ只中で、心の成長が大事ともいえる中学時代。身寄りもなく、頼る人間もいなく、絶望をしていたオメガの少年梓を、愛子は、見捨てることなどできなかった。
わが子のように、梓が成人を迎えるまで面倒を見てくれていた。高校にも進学させた。誰に何と言われようと、授業参観日は顔を出した。体調を崩したら病院へ連れていき、毎日喧嘩をした時もあった。
そんな我が子のような存在が、同じ夜の街を歩きたいというのだ。
愛子は反対せずにはいられなかった。だが、それしか生きていける術がないのもこの時代の事実。
愛子は、梓の決心を受け止め、全力でサポートを決意した。
それなのに、────数日前、可愛い我が子が倒れたと人伝で聞いた。駆けつけたかった。
成人してからしばらくして、迷惑をかけまいと住んでいたアパートから去り引っ越してからは、関わりは街で会ったら話す程度。歯がゆくて、助けてあげられなくて、愛子は苦しくて辛くて、その思いを梓を抱きしめることで解消しようとしていた。
「アイちゃん、苦しいよ……」
鋼のような腕に包まれて、力強く抱きしめられた梓は酸素を求めて口をパクパクとさせながら訴えた。
「あら、ごめんなさい。感極まっちゃって」
愛子の力は、男性の平均よりも強いであろう。その鋼のような腕に抱かれ、骨が砕けなかった事が奇跡とも思える。梓はゲホゲホと咽こみ、黒い宝石と言える瞳を涙で潤わせ、一層光を集めていた。
「あんた、本当に大丈夫なの?」
愛子はエラの張った岩の様な骨格と、青いタワシのような顎を隠すかのように白く塗装された顔を近づけ、眉間に皺を寄せて梓の顔をじっくりと見つめた。
「大丈夫だよ。ほら、もう立ってるから」
立ち上がって軽く体を揺らし、梓はさっきまでの嫌な気持ちを振り払うように愛子を笑顔で見つめ返した。
「……ほんとに?」
「ほんと。アイちゃんは心配しすぎだよ」
「そう? でも、心配して損はないじゃない。私の可愛い子なんだから」
愛子は、うねうねと動くようなふざけた仕草をし、さらっとした長い髪の毛を揺らした。
元々金色の髪は紫や青を織り交ぜ、金と銀の薄いグラデーションを生み出し、色彩は鮮やかさを放っている。髪の根元は明るく、先端は暗くなるように染められ、自然にスラッとした姿に溶け込んでいる。
それに反して、梓は何も変わっていない。黒いスーツに黒い髪、黒い瞳は、いつもどおりのように見えたが、その奥には確かに何かを抱えていた。
「明日はまた忙しくなるから、体調崩さないようにね。長く休んでたんだから、戻るのは無理しないでね?」
──愛子の笑顔は、まるで力の源のように思えた。
少し早めに出たこともあって、時間に余裕があった梓は愛子にここ数日の流れを説明する。
恋人が、出来たことも。
「ちょっとー!運命的じゃない!素敵素敵ぃ!」
中学から恋焦がれた相手の事を、愛子は知っていた。
どんな子だったかは、うっすらとしか記憶にないが、学生時代に何度か見かけたことはあった。
「やーん!怪我の功名ってやつ?よかったじゃない!」
愛子は梓の両手を野球のグローブのような大きな手で握ると、腕がもげるのではいかという勢いで上下に振って喜んだ。
「ちょっと愛子さん、梓の腕が無くなっちゃいますよ」
聞きなれた声を耳に通し、梓はふわっと抱き寄せられ愛子との距離が少し空く。
「清武!」
仕事帰りであろう、清武の姿が、二人の間にするりと入る。
「お久しぶりです愛子さん。俺とは学生の時以来かもしれませんね」
愛子に向けられた爽やかな笑顔。
「あら、清武くん?随分大きくなったわねー」
近所のおばちゃんという言葉が似合う返答に、清武は相変わらずだなと言わんばかりの表情を見せた。
「清武、どうしたの?」
「ああ、久しぶりの出勤だろうから、見送りに」
突然の清武の登場に、梓は戸惑った。
どこまで過保護なのだろうか。もう成人してから数年過ぎた良い年頃だというのに。
この戸惑いは、少し呆れにも似ていた。
「愛子さん。俺たち結婚するんですよ」
久しい挨拶もそこそこに、清武は梓の了承なく愛子に告げた。
「あら、そうなの?」
「はい、できるだけ早く。実は明日にでも籍入れたいんですけどね。愛子さんには梓の親としてお話したかったので、いつか時間いただければなと」
少し、冷めたようなそんな空気を清武から感じ取れる。
「オメガだって知っていたら、もっとはやく挨拶にいけたんですけどね?お義母さん」
その一言は、愛子も知っていたのだろ?という嫌味が込められていたように感じ取れる言い方だった。
「あらやだーこわーい。お義母さんなんて嬉しいけどまだ気が早いわー」
愛子の返事も、どこか棘を見せている。
「もうそろそろ、行かないとダメだろ?店の前まで一緒に行こう」
セットした髪の少しの乱れを整えるかのように、清武は梓の前髪を優しく撫でた。
「そう……だね。アイちゃんごめんね。また今度詳しく話すからね」
「まってるー!無理しちゃダメよー?何かあったら今度は私を頼るのよ!」
立ち去ろうとする二人の姿を見つめながら、愛子はスマートフォンをひらひらと梓に見せて手を振った。
大事なものを扱うかのように腰に手を回されている梓。歩きにくそうにも見える二人の距離。
「なんか、不釣り合いっていうか……」
愛子は小さく抱く胸の違和感を口にした。
────────
「身体、大丈夫か?」
店の裏玄関に着くまで、何度も清武に同じことを問われた。
「大丈夫、何か変だと思ったら早退するから」
何回、同じ返事をしただろうか。嫌気がさしながらも、心配してくれる優しさを無下にすることなどできず、梓は困った笑みを浮かべた。
梓は、医者に抑制剤を飲むことも打つことも禁止された。今まで強い薬を使用し、過剰摂取していたために命に危険が及ぶと言われ、精密検査を勧められたのだが、今後の薬の使用を控えることから、血液検査や健康診断程度の検査で済ませたのだった。
この前まで続いていた頭痛も、薬をやめてからすっかりと良くなった。
あの頭痛は、使用していた薬の副作用だったのだろう。
副作用が出るほどの強い薬を今まで使っていたために、弱い薬を使用しても効き目が出るかはわからない。
ヒートも、どのタイミングでどのように起きるのか、梓にはわからなかった。
それもあってか、清武の心配は異常なほどである。
このままだと、客として店に入り、仕事が終わる朝まで居座る可能性があった。
「今日は絶対帰って、明日の仕事に備えて、ね?」
駄々をこねる子供に諭すような口調で、梓は清武に言った。
「でも……」
心配で仕方ないんだという瞳を向けられ、大型犬の甘え上手な姿を見せつけられているような気持ちになりながらも、梓は折れまいと心を強く持った。
「ダメ」
帰ったらいっぱい甘やかしてあげるから。
そう言って清武の手から抜け出そうとすると、その手はなおも力を増し、唇同士を引き寄せ合った。店の裏で客が通ることの少ない場所とはいえ、誰かに見られてはいけない。そう思い、引き離そうとしても清武の力には敵わず、されるがままに唇を重ねた。
明かりの少ない裏路地ということもあり、清武の大きな身体なだけあって、傍から見たら男女のカップルに間違えられるであろう。うっすらと暗いことが手助けとなり、清武の欲は止まらずにいた。
「っダメ……」
互いの息が荒くなるほどに深い口づけを、しつこいほどに長く味わい、梓は目を潤ませる。時間と身体に余裕がなくなり、梓は焦りを感じ始めた。
「もう少し」
再び唇を重ねようとする距離まで、清武が顔を近づけた瞬間だった。
「はーい終了ー!」
パンッと手を叩く音と共に、鍵盤を叩くかのような軽やかな声が耳に入る。
「店長っ」
焦りを見せながら振り向くと、そこには梓が務める店の店長の姿があった。
「イチャイチャタイムは帰ってからねー。久々の出勤なんだから、みんなに挨拶しなー」
気怠く、しかしリズミカルな口調で言葉を投げかける店長に、梓は助けられたという表情の笑顔を浮かべた。
店長は三十代後半で、元は売れっ子ホストのベータ男性である。渋さのある面持ちと、白髪交じりの黒い長髪を後ろでひとつに結んでいるが、どこか若々しい雰囲気が残っている。軽やかな口調と声質が、尚更若さを感じさせた。
「大丈夫だよ、彼氏くん。ちゃんと無事にお返しするから。帰って風呂入ってねんねしてな」
梓に触れることなく二人を引き離し、梓を店の中へと誘導した。
「ごめん、清武、俺もう行くね」
「…………」
「信じることも愛だからね」
そう口にする店長を清武はの鋭い瞳で睨みつけた。梓はそれに気づくことなく、足早に店の中へと姿を消した。
「わかってますよ、ただアルファやベータばかりのあんたたちが信用できないだけです」
「おー?」
拳を強く握り、欲や不安や色んな感情を制御しようと必死になる清武を見ながら、喧嘩でも始めようという鋭い目つきを受け止め、面白そうに笑みを浮かべた。
「まあ、そこらにいるアルファは特に信用できないかもね。ヒート起きたら襲っちゃうかもだろうし」
「っ!」
「でもさ、信じてあげてほしいね。梓もほかのスタッフのことも。そうじゃないと生きにくいよ、梓が」
そう告げて、店長は姿の見えなくなった梓の後をゆっくりと追った。
ダン────ッ。
どこにも向けられない感情が、清武の拳にこめられ、近くの建物の壁を力強く叩いた。不安で不安で、でも信じてあげたくて……。
清武は幼い感情と大人であるべき理想に葛藤した。
「梓が欲しい」
はやく番として、夫婦として、梓を手に入れたくて。
焦る気持ちを抱きながら、清武は夜の街をゆっくりと去っていった。
身体のラインを美しく見せる伸びの悪いパキッとした黒いスーツの袖に腕を通した時の感覚は、ご褒美で好きなものを食べているときのような喜びに似ていた。
清武の優しさを存分に味わった休みの期間だったが、梓はそれが日に日に重く感じていて、仕事へ復帰をすることが楽しみで仕方ない。梓はお気に入りのピアスや指輪などの装飾品を身にまとい、甘くそして爽やかな香りのする香水をふわっと耳元にかけ、足早に慣れた道を進み、行き慣れた職場に向かっていた。
今日は、長期で休んでから初めての出勤。
迷惑をかけたことの申し訳なさと、また仕事ができる嬉しさと、頑張ろうという気持ちが慌ただしく梓の中で競争している。仕事を休むことになり、自分の勤める店のオーナーに電話で事情を説明した時は今までにないほど心配された。
売り上げは平均的で、店に居なくても大した損害にならないだろうと梓自身は思っていたが、大事なスタッフとして扱ってくれるオーナーや店長、そしてスタッフの皆の理解力と存在は、梓にとって有難いものだった。今後迷惑をかけてはいけないと思い自分がオメガであることを知らせた時、もう置いてもらえないだろうと覚悟したが、戻ってくることを暖かく願うその対応に、梓は感謝しながら自身も早く戻ることを願っていた。
あと数メートルで目的地である。
「あっちゃーん!」
鶏の感極まった空気をひっかくような嗄れ声が、梓の足を止めた。
「やーん!大丈夫だった?最近見ないと思ったら倒れたっていうじゃないっ!何で知らせてくれなかったの?大丈夫?今は体調大丈夫?電話しても出てくれないしー!おうちまで行くの迷惑かなって思いながらもそもそもマンション知ってても部屋わからないしぃ!それでそれで……!」
隙間なく言葉をつなげて、音調を変えずに話し続けながら梓に抱き着く大木のような人間。花束を身に着けているかのような淡い多色を輝かせているドレスを着ているが、手足はゴツゴツとしていて、鍛えられた筋肉を強調するように太く青く血管が浮き出ているのが目に入る。ドレスが窮屈なのか、それとも窮屈なドレスを着ているのかはわからないが、インパクトあるその姿は、この街でも有名だ。
アイちゃんや愛子と呼ばれる、ベータ性の男性である。
愛子の本名は、梓も記憶に薄い。しかし、愛子とは母親の代からずっとお世話になっていて、最早彼は家族のような存在。唯一、梓がオメガであることをずっと前から知っている人物でもある。
ちなみに愛子を彼というと失礼にあたるため、愛子を誰かに紹介する時は、彼女と呼ばなければならない。
愛子は、ベータ性の男性でありながら乙女の心を貫く人間であり、今社会がオメガよりも最も下級として見ている存在、ベータ性による同性愛者である。
性同一性障害者と周りは指をさすが、愛子は気にも留めず、漢らしい体つきを隠すことなく、女として人生を送っている。
社会から向けられる色んな目があり、たくさん苦労してきたであろう愛子は、よくこういうのだ。
『好きを貫くのは私の勝手』
その強気な姿勢に励まされた者は多く、愛子は今、同じ性癖を持つ人を集い、店を営んでいる。愛子の人の善さと強さを理解されてか、呆れられて見放されてるのかは判らないが、愛子の存在はこの街では多くが受け入れ、店もそこそこ繁盛している。受け入れている者も多いとはいえ、理解していない者も中にはいる。
だが、それを気にしない愛子は身体だけではなく精神も逞しい。
俗に言うオカマという存在は、少しずつこの街だけでも理解されてきているのではないだろうか。それは、愛子だからなのかもしれないが、そういった性癖を持つ者が堂々と外を歩くことのできるこの街が、梓は大好きだ。
梓が夜の街の花となったのも、愛子の応援と手助けあってである。最初は猛反対したものの、オメガ性とはまだ社会的に冷遇された人種であるがため、家柄が助けにならなければ、まともな職に就くことなど、何かしらの予言を言い当てるレベルで難しいとも言える。
梓の家庭環境は、母子家庭で親はオメガのソープ嬢。父親は誰なのかは分からない。
家柄を最も気にされるオメガの性。梓を受け入れてくれる場など、見つけようがなかった。
母親もいつの間にか梓を捨て、姿を消した。
義務教育の真っ只中で、心の成長が大事ともいえる中学時代。身寄りもなく、頼る人間もいなく、絶望をしていたオメガの少年梓を、愛子は、見捨てることなどできなかった。
わが子のように、梓が成人を迎えるまで面倒を見てくれていた。高校にも進学させた。誰に何と言われようと、授業参観日は顔を出した。体調を崩したら病院へ連れていき、毎日喧嘩をした時もあった。
そんな我が子のような存在が、同じ夜の街を歩きたいというのだ。
愛子は反対せずにはいられなかった。だが、それしか生きていける術がないのもこの時代の事実。
愛子は、梓の決心を受け止め、全力でサポートを決意した。
それなのに、────数日前、可愛い我が子が倒れたと人伝で聞いた。駆けつけたかった。
成人してからしばらくして、迷惑をかけまいと住んでいたアパートから去り引っ越してからは、関わりは街で会ったら話す程度。歯がゆくて、助けてあげられなくて、愛子は苦しくて辛くて、その思いを梓を抱きしめることで解消しようとしていた。
「アイちゃん、苦しいよ……」
鋼のような腕に包まれて、力強く抱きしめられた梓は酸素を求めて口をパクパクとさせながら訴えた。
「あら、ごめんなさい。感極まっちゃって」
愛子の力は、男性の平均よりも強いであろう。その鋼のような腕に抱かれ、骨が砕けなかった事が奇跡とも思える。梓はゲホゲホと咽こみ、黒い宝石と言える瞳を涙で潤わせ、一層光を集めていた。
「あんた、本当に大丈夫なの?」
愛子はエラの張った岩の様な骨格と、青いタワシのような顎を隠すかのように白く塗装された顔を近づけ、眉間に皺を寄せて梓の顔をじっくりと見つめた。
「大丈夫だよ。ほら、もう立ってるから」
立ち上がって軽く体を揺らし、梓はさっきまでの嫌な気持ちを振り払うように愛子を笑顔で見つめ返した。
「……ほんとに?」
「ほんと。アイちゃんは心配しすぎだよ」
「そう? でも、心配して損はないじゃない。私の可愛い子なんだから」
愛子は、うねうねと動くようなふざけた仕草をし、さらっとした長い髪の毛を揺らした。
元々金色の髪は紫や青を織り交ぜ、金と銀の薄いグラデーションを生み出し、色彩は鮮やかさを放っている。髪の根元は明るく、先端は暗くなるように染められ、自然にスラッとした姿に溶け込んでいる。
それに反して、梓は何も変わっていない。黒いスーツに黒い髪、黒い瞳は、いつもどおりのように見えたが、その奥には確かに何かを抱えていた。
「明日はまた忙しくなるから、体調崩さないようにね。長く休んでたんだから、戻るのは無理しないでね?」
──愛子の笑顔は、まるで力の源のように思えた。
少し早めに出たこともあって、時間に余裕があった梓は愛子にここ数日の流れを説明する。
恋人が、出来たことも。
「ちょっとー!運命的じゃない!素敵素敵ぃ!」
中学から恋焦がれた相手の事を、愛子は知っていた。
どんな子だったかは、うっすらとしか記憶にないが、学生時代に何度か見かけたことはあった。
「やーん!怪我の功名ってやつ?よかったじゃない!」
愛子は梓の両手を野球のグローブのような大きな手で握ると、腕がもげるのではいかという勢いで上下に振って喜んだ。
「ちょっと愛子さん、梓の腕が無くなっちゃいますよ」
聞きなれた声を耳に通し、梓はふわっと抱き寄せられ愛子との距離が少し空く。
「清武!」
仕事帰りであろう、清武の姿が、二人の間にするりと入る。
「お久しぶりです愛子さん。俺とは学生の時以来かもしれませんね」
愛子に向けられた爽やかな笑顔。
「あら、清武くん?随分大きくなったわねー」
近所のおばちゃんという言葉が似合う返答に、清武は相変わらずだなと言わんばかりの表情を見せた。
「清武、どうしたの?」
「ああ、久しぶりの出勤だろうから、見送りに」
突然の清武の登場に、梓は戸惑った。
どこまで過保護なのだろうか。もう成人してから数年過ぎた良い年頃だというのに。
この戸惑いは、少し呆れにも似ていた。
「愛子さん。俺たち結婚するんですよ」
久しい挨拶もそこそこに、清武は梓の了承なく愛子に告げた。
「あら、そうなの?」
「はい、できるだけ早く。実は明日にでも籍入れたいんですけどね。愛子さんには梓の親としてお話したかったので、いつか時間いただければなと」
少し、冷めたようなそんな空気を清武から感じ取れる。
「オメガだって知っていたら、もっとはやく挨拶にいけたんですけどね?お義母さん」
その一言は、愛子も知っていたのだろ?という嫌味が込められていたように感じ取れる言い方だった。
「あらやだーこわーい。お義母さんなんて嬉しいけどまだ気が早いわー」
愛子の返事も、どこか棘を見せている。
「もうそろそろ、行かないとダメだろ?店の前まで一緒に行こう」
セットした髪の少しの乱れを整えるかのように、清武は梓の前髪を優しく撫でた。
「そう……だね。アイちゃんごめんね。また今度詳しく話すからね」
「まってるー!無理しちゃダメよー?何かあったら今度は私を頼るのよ!」
立ち去ろうとする二人の姿を見つめながら、愛子はスマートフォンをひらひらと梓に見せて手を振った。
大事なものを扱うかのように腰に手を回されている梓。歩きにくそうにも見える二人の距離。
「なんか、不釣り合いっていうか……」
愛子は小さく抱く胸の違和感を口にした。
────────
「身体、大丈夫か?」
店の裏玄関に着くまで、何度も清武に同じことを問われた。
「大丈夫、何か変だと思ったら早退するから」
何回、同じ返事をしただろうか。嫌気がさしながらも、心配してくれる優しさを無下にすることなどできず、梓は困った笑みを浮かべた。
梓は、医者に抑制剤を飲むことも打つことも禁止された。今まで強い薬を使用し、過剰摂取していたために命に危険が及ぶと言われ、精密検査を勧められたのだが、今後の薬の使用を控えることから、血液検査や健康診断程度の検査で済ませたのだった。
この前まで続いていた頭痛も、薬をやめてからすっかりと良くなった。
あの頭痛は、使用していた薬の副作用だったのだろう。
副作用が出るほどの強い薬を今まで使っていたために、弱い薬を使用しても効き目が出るかはわからない。
ヒートも、どのタイミングでどのように起きるのか、梓にはわからなかった。
それもあってか、清武の心配は異常なほどである。
このままだと、客として店に入り、仕事が終わる朝まで居座る可能性があった。
「今日は絶対帰って、明日の仕事に備えて、ね?」
駄々をこねる子供に諭すような口調で、梓は清武に言った。
「でも……」
心配で仕方ないんだという瞳を向けられ、大型犬の甘え上手な姿を見せつけられているような気持ちになりながらも、梓は折れまいと心を強く持った。
「ダメ」
帰ったらいっぱい甘やかしてあげるから。
そう言って清武の手から抜け出そうとすると、その手はなおも力を増し、唇同士を引き寄せ合った。店の裏で客が通ることの少ない場所とはいえ、誰かに見られてはいけない。そう思い、引き離そうとしても清武の力には敵わず、されるがままに唇を重ねた。
明かりの少ない裏路地ということもあり、清武の大きな身体なだけあって、傍から見たら男女のカップルに間違えられるであろう。うっすらと暗いことが手助けとなり、清武の欲は止まらずにいた。
「っダメ……」
互いの息が荒くなるほどに深い口づけを、しつこいほどに長く味わい、梓は目を潤ませる。時間と身体に余裕がなくなり、梓は焦りを感じ始めた。
「もう少し」
再び唇を重ねようとする距離まで、清武が顔を近づけた瞬間だった。
「はーい終了ー!」
パンッと手を叩く音と共に、鍵盤を叩くかのような軽やかな声が耳に入る。
「店長っ」
焦りを見せながら振り向くと、そこには梓が務める店の店長の姿があった。
「イチャイチャタイムは帰ってからねー。久々の出勤なんだから、みんなに挨拶しなー」
気怠く、しかしリズミカルな口調で言葉を投げかける店長に、梓は助けられたという表情の笑顔を浮かべた。
店長は三十代後半で、元は売れっ子ホストのベータ男性である。渋さのある面持ちと、白髪交じりの黒い長髪を後ろでひとつに結んでいるが、どこか若々しい雰囲気が残っている。軽やかな口調と声質が、尚更若さを感じさせた。
「大丈夫だよ、彼氏くん。ちゃんと無事にお返しするから。帰って風呂入ってねんねしてな」
梓に触れることなく二人を引き離し、梓を店の中へと誘導した。
「ごめん、清武、俺もう行くね」
「…………」
「信じることも愛だからね」
そう口にする店長を清武はの鋭い瞳で睨みつけた。梓はそれに気づくことなく、足早に店の中へと姿を消した。
「わかってますよ、ただアルファやベータばかりのあんたたちが信用できないだけです」
「おー?」
拳を強く握り、欲や不安や色んな感情を制御しようと必死になる清武を見ながら、喧嘩でも始めようという鋭い目つきを受け止め、面白そうに笑みを浮かべた。
「まあ、そこらにいるアルファは特に信用できないかもね。ヒート起きたら襲っちゃうかもだろうし」
「っ!」
「でもさ、信じてあげてほしいね。梓もほかのスタッフのことも。そうじゃないと生きにくいよ、梓が」
そう告げて、店長は姿の見えなくなった梓の後をゆっくりと追った。
ダン────ッ。
どこにも向けられない感情が、清武の拳にこめられ、近くの建物の壁を力強く叩いた。不安で不安で、でも信じてあげたくて……。
清武は幼い感情と大人であるべき理想に葛藤した。
「梓が欲しい」
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そこでのほほんと大学生活を送るオメガ、大西 叶芽は友人や家族に囲まれ幸せだった。
成人を超えた彼につけられた新しい担当ソーシャルワーカー。
それが御影という男だった。
物腰柔らかく親切な彼と同じく、このオメガ守り保護する【制度】も少しずつ叶芽を追い詰めていく。
オメガが希少化して保護されるようになった世界で、自立して生きるのを目指す青年の話。
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。