タングルド(修正版)

柴楽 松

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 光広はソファに座ったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。
鉄平の衣類が散らばった部屋が、静寂に包まれている。まるで、時間が止まったかのような感覚に陥った。

「あいつは今、悟のところで幸せそうにしてるんだろうな」

 光広はゆっくりと自分の手を見下ろした。無意識のうちに握りしめていたボールペンを、今度は丁寧に手のひらに戻す。
ペンの表面に映る小さな光が、光広の視線を引き寄せた。

"悟の幸せ"という言葉が頭を巡るたびに、胸の奥が痛む。
悟に対して悪意があるわけではない。むしろ、悟の幸せを祝うべきだという気持ちもあった。
でも、どうしてもその思いが自分の中で繋がらない。悟の隣にいる鉄平が、今は他人のように感じられて仕方なかった。

鉄平が光広の前に現れたあの日。
それはまるで運命がそうさせたかのように、光広にとっては大きな出来事だった。
そして、その運命のような出会いが、今こうして終わりを迎えていると思うと、信じられない気持ちが強くなる。

「もう一度…会いたい」

 その言葉を、口に出すことすらできずに心の中で呟く。
彼が戻ってくることはないと分かっているから、余計にその思いが切なく、胸を締めつける。

 鉄平が帰らないのは、光広のせいだ。光広が、どこかで彼に気持ちを伝えられなかったから。気づいたときには、すでに彼の心は悟に向かっていた。何もできなかった自分を、今でも許せない。

「……でも、もう諦めなくちゃな」

 そう呟くと、目頭が熱くなるのを感じた。
涙がこぼれる前に、光広は顔を上げて深く息をついた。涙をこらえようとしても、止められなかった。
ほんの少しでも、鉄平に向けていた自分の気持ちが流れ出てしまいそうだった。

 静かな部屋の中で、光広はその思いを胸に抱きながら、もう一度立ち上がる決意を固める。

 鉄平がいる場所は、もはや自分の居場所ではない。
それを分かっていても、胸が痛むのはどうしようもなかった。だけど、そんな自分に向き合うしかないのだ。

「……いっそのこと、全部忘れたいな」

 忘れることができれば楽になれるのだろうか。忘れられたなら、こんなに苦しむことはないのかもしれない。けれど、それは無理だということも、心の奥底で分かっていた。

光広は、冷たい床に足をつけて立ち上がった。目を閉じて深呼吸をする。体調が優れないことを感じてはいるが、それでも今日を終わらせなくてはならない気がした。

「今日は早く寝よう」

 そう思いながらも、彼の荷物が視界に入るたびに、気持ちが乱れていくのを感じていた。
これからどうすればいいのか分からない。鉄平が戻ってくることはないのだと、頭では分かっているのに、どこかでその希望を持ち続けてしまっている自分がいた。

 そんな感情に溺れそうになりながらも、光広は無理にでもその日を終わらせようとする。

それが少しでも楽になれる方法だと思ったから。



 ※※※



 好きな人は言った。
『君は運命ではない』と。

 長い間の片思いの相手が、急に知らない誰かの番となった。
その瞬間、正隆は心の中で何かが音を立てて崩れるのを感じた。ずっと隣で守り続けた彼が、もう自分に必要ないことが分かってしまった。あんなに一緒にいたのに、隣にいることはなくなったのだ。

 春の新入生が校内を賑わす季節。
二年生に上がった正隆と悟は、お互いが入部している写真部のサークル勧誘のために、校内でチラシを配っていた。本来なら別の部員がやるはずだったが、珍しく体調を崩したと知らせがあり、急遽二人で配ることになった。

 静かなイメージの文系サークルは意外にも人気があり、手元に残ったチラシはすぐに数枚だけとなった。次のチラシを取りに部室へ向かわなくてはならなかったが、悟を人気の少ない廊下に一人で歩かせるのは心配で、正隆がチラシを部室に取りに向かうことにした。たった五分の離れた時間だけでも心配だったが、まだ少しチラシが残っているからと、悟がその場に残ることを決めた。

 その行動が、今となっては後悔の塊でしかない。

 急いで戻った。正隆はきっと、人生で最速のスピードで戻ったのだろう。だが、そこには悟の姿はなかった。

 校内を隅々まで探し回った。入学式が始まり、長い時間をかけて隈なく探し回ったが、悟の姿は見つからなかった。何度電話をかけても繋がらない。もはや頭がどうにかなりそうなほど、不安と焦りが押し寄せてきた。その時、ようやく目にした覚えのある後ろ姿に、正隆は走り出した。

「悟!」

 必死で駆け寄るが、正隆の声は、疲れからか掠れていた。

「正隆……」

 どこに行っていたのか、怒鳴りたかった気持ちもあったが、悟の目の前に立つと、それを言葉にすることすらできなかった。沈黙が二人の間に広がり、正隆は口を閉ざした。

 『番になった。初めて会った相手と』という言葉を悟から聞いた時、正隆は頭が真っ白になった。

 悟はとても貞操が固い。番にならないように、首には頑丈なチョーカーが巻かれている。
そのチョーカーは、アルファが引きちぎることのできない最新型の指紋センサー付きで、外したいと思っても、本人の意思がない限り誰にも外すことはできない。そんなチョーカーを外したいと思わせるほどの相手が現れた。
それは、今日初めて会った男だった。

 幼少期からずっと恋焦がれてきた相手を手放すのは、あまりにも呆気なかった。
いろいろ揉めたが、番になってしまった以上、二人は離れることはない。

悟が幸せなら、それでいいと思った。
諦めるしかない。それ以前に、悟がその相手を選び、幸せを感じているのなら、それでいいのだと自分に言い聞かせた。

 その後、悟が番の相手に婚約者がいたことを知ったとき、正隆は言葉にできないほどの怒りを感じた。
失恋のその日に、あまりにも理不尽な環境に、正隆の中では怒りを通り越して呆れの気持ちが広がった。

 その婚約者を奪った男、光広という人物が正隆に八つ当たりをしてきた。
怒りの矛先を変えなければ、頭がおかしくなりそうだと言わんばかりだった。

 光広は、気まぐれな猫のような見た目で、柔らかな綿毛のような悟とは性格も見た目も正反対だった。
正隆にとっては、苦手なタイプの華やかな男だったが、この件をきっかけに顔を知ることになり、今後は関わらないだろうと思っていた。
しかし、同じ大学に通っている以上、顔を合わせることは避けられない。

 見た目通り、光広は陽気で社交的なタイプでありながら、いつも独りでいることが多かった。
時折、元婚約者の鉄平が声をかける姿を見かけたが、光広はそれを避けるようにその場を離れることが多かった。

 正隆はその姿に少しだけ同情する気持ちを抱いていた。
元婚約者を失うという深い傷を抱えている光広を見ていると、悟との関係を諦めた自分でも、少しばかり心が痛んだ。

 ある日、キャンパスの中庭を歩いていると、鉄平が光広を呼び止めていた。

「光広、顔色が良くないぞ。ちゃんと食べてるか?」

 正隆はその場面を見かけて、少しだけ心配になった。光広は強がっているように見えたが、その必死さが、まるで自分を守るために壁を作っているように感じられた。

「お前には関係ないだろ」

 光広の言葉が、まるで野良猫のように威嚇するように響いた。それを無視して、鉄平は光広の手を引こうとする。しかし、正隆はその行動に耐えきれず、ついに声を上げた。

「何をしているんだ」

 鉄平が光広を気にかけるその姿に、正隆は心の底から憤りを感じていた。

「お前がしたこと、忘れた訳じゃないだろ。こいつの気持ちを考えてやれよ」

 突然話しかけられた鉄平と光広は驚いて正隆を見つめた。正隆は普段、悟以外の人にはこんな干渉をしないタイプだったが、今はもう黙っていられなかった。

「あんたには関係ないだろ」

「そうだな。お前みたいな奴に付き纏われたら、踏ん切りがつかないだろうな」

 正隆の怒りは沸点に達し、鉄平の鋭い表情にも負けず、彼の言葉は真っ直ぐ光広に向けられた。

「鉄平くん!」

 その時、悟の声が遠くから聞こえてきた。

「悟さん!休んでないと!」

 正隆の心は、悟の姿を見た瞬間に一気に緩み、同時に後悔が胸に広がった。悟の顔色が思った以上に悪く、最近は講義も休みがちだったことを思い出し、正隆はその場を離れることができなかった。

 少し、血の通いが悪い色をしている悟の顔。
最近、講義も休みがちで、正隆はなかなか顔を合わせることがなかった。
最初は、顔を合わせたくないのだろうかと思ったが、それでも気になる。
実際のところ、悟の顔色や体調不良が明らかで、正隆は一目でその状態を理解した。

 あの日から何度か、悟が住んでいるアパートの近くまで足を運んだが、番と一緒に生活を始めたと聞いてから、訪ねてはいない。
だが、今、この目の前の状況に、あの時の自分を強く後悔していた。
悟の体調不良がこれほどまでに酷い状態だったことに気付いてやれなかったのだと思うと、胸が締め付けられる。

 ふらつく悟の足元を支えるように、鉄平が駆け寄る。
その姿は、まるで壊れやすい大事なものを守るかのようで、悟への愛が滲み出ていた。
その瞬間、正隆は感じた。鉄平が悟をどれほど大切にしているのかが、痛いほど伝わってきた。

 鉄平は、先ほどまでしつこく追っていた光広のことを忘れ、悟との世界に入っていった。
その空気に、正隆と光広は居心地の悪さを覚えた。

「……」

 無言で立ち去る光広。その背中を追いかける正隆は、光広のあまりにも冷たい態度に胸が痛む。

「何でついてくるんですか!」

 自分もあの空気に耐えられなかったが、それでも光広が気になって仕方がなかった。あの様子を見せられて、無関心でいられるわけがない。

「同情なら、いらないです!」

 光広の声はひどく冷たく、何かを隠すような雰囲気が漂っていた。その姿に、正隆は少し胸を痛める。
しかし、それでも深入りすることはできない。どこかで迷惑をかけたくないという思いが、正隆の足を止めさせる。光広の背中が見えなくなるまで、ただその姿を見つめることしかできなかった。

 それから一日も経たずに、正隆は再び光広を見かけた。彼が歩く足元はフラフラしており、どう見ても不調を隠しきれていない。
ここ数日、光広がどれほど病的に痩せているかを、正隆は感じていた。

 昼に見かけたときも、光広は食事を取っている様子を見なかったし、目の下にはくっきりと隈が浮かんでいた。それは、精神的にも肉体的にもかなりの負担を抱えている証拠だった。正隆は無力さを感じながらも、どうすることもできず、遠くから見守ることしかできなかった。

 この日はそうもいかなかった。
光広が帰路を歩いている途中、手に持っていた参考書からボールペンを落としてしまう。
周りの誰もがそのペンが転がるのに気付かない中、正隆は仕方なくそのペンを拾い上げ、声をかけた。

「おい」

 振り返った光広の顔色は、昼間見たときよりも一層悪く、まるで死にかけたような肌色をしていた。唇は血の気を失い、乾燥してひび割れている。正隆は、その異常なほどの顔色を見て、言葉を失った。

「何ですかセンパイ」

 光広は必死に自分の不調を隠そうとしているのが伝わってきた。それが、逆に痛々しく感じた。
正隆は、心の中で「大丈夫か?」と問いかけたが、それを口に出すことはできず、ただボールペンを手渡すだけだった。

 そして、なぜか正隆は、突然、光広を少しでも引き止めなければならない気がしてきた。

ボールペンに印刷されている漫画のキャラクターについて、知っていることを話し始める。
しかし、光広はそれを拒むように、あっさりと話を切り上げ、足早にその場を去ってしまう。

 なぜ、自分はこんなにも光広が気になるのだろうか。
正隆はその答えを見つけられなかった。
ただ、あんなにも辛そうにしている光広を、鉄平以外誰も気にかけていないことが、どうしても不憫でならなかった。

 正隆は、その日のことを思い出しながら、再び光広のアパートへと向かう決心をした。

彼がどんな状態で暮らしているのか、何が原因でこんなに病んでしまったのか、それを自分の目で確かめたくてたまらなかった。
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