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芹沢ひなた編
第19話 お金を払えば、何度でも[5]
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止まるのは、逃げじゃない。
判断のために止まる。
判断するのは、自分。
それまでのしのは、「正しい方」を選んできた。
正しい方を選べば、責められない。
責められなければ、居場所が減らない。
だから、正しい方を選ぶ。
でも、雅子が言ったのは“正しい方”ではなかった。
「決めなさい」
正しいかどうかではなく、自分で決める。
その権利を、しのに返す言葉だった。
「出社する? 帰る?」
雅子は選択肢を二つにした。
三つでも四つでもなく、二つ。
“今の体でできる範囲”に絞った二つ。
しのは、出社、と言いかけて止まった。
出社、と言えば安心できる。
いつも通り。正しい。社会人として。
けれど、身体が拒否している。
身体が拒否しているのに、頭だけが出社と言う。
「……帰ります」
言ってしまった瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
罪悪感が一気に広がる。
逃げた。迷惑。社会人として。
その罪悪感が頂点まで行く前に、雅子が言った。
「了解。連絡は私がする」
「え、でも……」
「でも、じゃない。あなたは帰って寝る。寝ないと判断できない」
しのは、そこで初めて、泣きそうになった。
優しいから泣きそうなのではない。
優しくない言葉だったからだ。
雅子の言葉には、飴がない。
「大丈夫だよ」も「無理しないで」もない。
代わりにあるのは、現実の順番だった。
止まる。息をする。決める。
寝る。判断する。戻る。
“戻る”の前に、ちゃんと“止まる”がある。
それを「当たり前」として置かれることが、しのには衝撃だった。
雅子は、しのの顔を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑いではない。
「確認が取れた」という表情に近い。
「三枝。あなたは怠けてない。怠けてない人ほど、こうなる」
怠けてない。
その言葉は、褒めではなく、診断のように聞こえた。
診断だから、受け取れた。
受け取ってしまったから、余計に涙が出そうになる。
「すみません……」
また謝ろうとしたしのを、雅子は視線だけで止めた。
“謝罪”が癖になっていることを、雅子は知っている目だった。
「謝るなら、回復してから。今は帰る」
それだけ言って、雅子は改札に向かった。
背中が真っ直ぐだった。
真っ直ぐなのに、硬くない。
あの背中は「仕事ができる人」の背中というより、「自分の速度を知っている人」の背中だった。
――止まることは、悪いことじゃない。
雅子が改札を抜けたあとも、その一文だけがしのの中に残った。
その日、しのは帰った。
帰って部屋の電気をつけたまま、ベッドに倒れ込んだ。
眠った、というより落ちた。
落ちた先で、身体が初めて「動かなくていい」を許された気がした。
起きたのは夕方だった。
カーテンの隙間がオレンジ色で、世界が勝手に進んでいるのが分かった。
スマホには未読の通知が溜まっていた。
会社から、同僚から、家族から。
でもそこに、雅子からの一通があった。
「今日は欠勤で処理した。理由は“体調不良”。余計な説明は不要。明日、起きられたら連絡。起きられなければ、それも連絡不要。まず呼吸」
短い文章。
事務的に見える。
でも、“余計な説明は不要”の一言が、しのの胸をほどいた。
説明しなくていい。
許可がある。
許可があるだけで、世界は少し静かになる。
翌日、しのは出社した。
完全ではなかった。
頭の奥はまだ痛い。
でも、歩ける。息ができる。
デスクに着いたとき、雅子は何も言わなかった。
「大丈夫?」も「無理しないで」もない。
ただ、しのの机の端に、紙コップのインスタントコーヒーを置いた。
「甘いの入ってる。今日はそれを飲め」
それだけ。
それだけなのに、しのは救われた気がした。
甘さは、判断を鈍らせる。
いつもならそう思う。
でもその日は、甘さが“戻る”ための補助輪に見えた。
しのは結局、その会社を辞めた。
辞めるのは、勇気が必要だった。
辞めたら居場所がなくなる。
辞めたら価値がなくなる。
辞めたら“社会人として”終わる。
その恐怖の中で、しのを支えたのは、雅子のあの言葉だった。
――止まることは、悪いことじゃない。
――止まって、息して、それから決めなさい。
辞める決断も、“止まる”の延長にあった。
逃げではなく判断。
判断できるだけの呼吸を取り戻すこと。
そして辞めたあと、しのは“言葉”に関わる仕事を選んだ。
理由は簡単だった。
自分は、言葉で壊れかけた。
言葉で救われた。
だったら、言葉の扱いを、もう少し丁寧にしたい。
丁寧に扱う人間が、世界に一人くらいいてもいい。
最初はカウンセリングも考えた。
資格を取る道も調べた。
でも、そのどれにも“責任”がついて回る。
責任を負える人は必要だ。
必要だが、自分はそこに立つのが怖かった。
“専門家”という肩書きで救う言葉は、確かに力がある。
その力があるからこそ、相手を依存させる危険もある。
自分が、誰かの人生のハンドルを握ってしまうかもしれない。
それが、怖かった。
だから、しのは境界線を作った。
褒めは治療ではない。
私は専門家ではない。
それでも、言葉が必要な人がいることを知っている。
——必要以上に優しくしない。
——相手を変えない。
——拾えることしか言わない。
——褒めは薬じゃない。
境界線は、相手のためでもある。
でも同時に、自分のためでもある。
自分が止まれるように。
自分が呼吸を失わないように。
それなのに。
「お金を払えば、何度でも」
その空気が、最近少しずつ漂い始めた。
依頼者の側が悪いわけではない。
誰だって、苦しいときは“確実なもの”が欲しくなる。
確実なものが欲しいから、料金を払う。
払うことで、安心したい。
――その気持ちは、分かる。
分かるからこそ、しのは怖い。
境界線が、相手の希望によって削られていくとき。
削られた境界線の先に、あの改札前の自分がいる気がする。
止まれない自分。
呼吸できない自分。
「社会人として」が頭の中を走り回る自分。
しのは思い出す。
あの朝、自販機の白い光の横で、雅子が言ったことを。
――止まることは、悪いことじゃない。
そして、もうひとつ思い出す。
雅子が“よく止まる人”だった理由を。
雅子は、仕事ができた。
できすぎた。
だからこそ、自分の限界を知っていた。
限界を知らない人は、限界まで行ってから倒れる。
雅子は倒れる前に止まった。
止まるのは弱さではなく、技術だと知っていた。
ある日の昼休み、しのが「どうしてそんなに止まれるんですか」と聞いたことがある。
周りが忙しさを武器にしている中で、雅子は堂々と休憩を取る。
会議の前に水を飲む。
雑談を切って、ひとりで五分だけ目を閉じる。
雅子は、少し考えてから言った。
「止まれない人は、誰かに止めてもらうしかなくなる。止めてもらうと、止めた人を恨む。だから、自分で止まる」
しのはそのとき、理解できなかった。
止めてもらうのは優しさだと思っていた。
恨むなんて、想像できなかった。
でも今は分かる。
止められると、“奪われた”気持ちになる人がいる。
自分の判断を奪われた気持ちになる。
だから、雅子は「止まって、息して、それから決めなさい」と言った。
決めるのはあなた。
止まるのはあなたの権利。
それを奪わない。
奪わないために、事実だけを置く。
しのの“褒め屋”の温度は、たぶんそこから来ている。
優しくしすぎない。
慰めで包まない。
でも、見捨てない。
事実を置く。
判断を返す。
止まれる余白を残す。
——それでも、最近、その余白が狭くなっている。
依頼が続く。
枠が埋まる。
同じ人が、繰り返し入れる。
“褒め”が目的ではなく、判断を委ねるために来る。
その兆候が見えたとき、しのは初めて「断る」という選択肢を現実として握った。
握った瞬間、手が冷たくなった。
断るのは、相手を突き放すことだと思ってしまうからだ。
でも雅子の言葉が、背中の奥で鳴る。
――止まって、息して、それから決めなさい。
止まるのは、悪いことじゃない。
止まるのは、判断のため。
判断しないまま続けるほうが、よほど危険だ。
しのは、机の上のメモ帳を見た。
そこには、短い言葉がいくつか書かれている。
依頼者の言葉。
拾えた事実。
返したい言葉。
そして、もう一行。
自分のための言葉。
「止まることは、悪いことじゃない」
しのはそれを指でなぞり、深く息を吸った。
吸って、吐いた。
ゆっくり。
自分で。
――大丈夫、と言う代わりに。
――今、止まっている、と事実を置く。
あの朝の雅子の温度を、しのは思い出す。
そして、今の自分が、その温度を誰かに渡せるかどうかを、試されている気がした。
止まる。
息をする。
決める。
――その順番を、また守るために。
判断のために止まる。
判断するのは、自分。
それまでのしのは、「正しい方」を選んできた。
正しい方を選べば、責められない。
責められなければ、居場所が減らない。
だから、正しい方を選ぶ。
でも、雅子が言ったのは“正しい方”ではなかった。
「決めなさい」
正しいかどうかではなく、自分で決める。
その権利を、しのに返す言葉だった。
「出社する? 帰る?」
雅子は選択肢を二つにした。
三つでも四つでもなく、二つ。
“今の体でできる範囲”に絞った二つ。
しのは、出社、と言いかけて止まった。
出社、と言えば安心できる。
いつも通り。正しい。社会人として。
けれど、身体が拒否している。
身体が拒否しているのに、頭だけが出社と言う。
「……帰ります」
言ってしまった瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。
罪悪感が一気に広がる。
逃げた。迷惑。社会人として。
その罪悪感が頂点まで行く前に、雅子が言った。
「了解。連絡は私がする」
「え、でも……」
「でも、じゃない。あなたは帰って寝る。寝ないと判断できない」
しのは、そこで初めて、泣きそうになった。
優しいから泣きそうなのではない。
優しくない言葉だったからだ。
雅子の言葉には、飴がない。
「大丈夫だよ」も「無理しないで」もない。
代わりにあるのは、現実の順番だった。
止まる。息をする。決める。
寝る。判断する。戻る。
“戻る”の前に、ちゃんと“止まる”がある。
それを「当たり前」として置かれることが、しのには衝撃だった。
雅子は、しのの顔を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。
笑いではない。
「確認が取れた」という表情に近い。
「三枝。あなたは怠けてない。怠けてない人ほど、こうなる」
怠けてない。
その言葉は、褒めではなく、診断のように聞こえた。
診断だから、受け取れた。
受け取ってしまったから、余計に涙が出そうになる。
「すみません……」
また謝ろうとしたしのを、雅子は視線だけで止めた。
“謝罪”が癖になっていることを、雅子は知っている目だった。
「謝るなら、回復してから。今は帰る」
それだけ言って、雅子は改札に向かった。
背中が真っ直ぐだった。
真っ直ぐなのに、硬くない。
あの背中は「仕事ができる人」の背中というより、「自分の速度を知っている人」の背中だった。
――止まることは、悪いことじゃない。
雅子が改札を抜けたあとも、その一文だけがしのの中に残った。
その日、しのは帰った。
帰って部屋の電気をつけたまま、ベッドに倒れ込んだ。
眠った、というより落ちた。
落ちた先で、身体が初めて「動かなくていい」を許された気がした。
起きたのは夕方だった。
カーテンの隙間がオレンジ色で、世界が勝手に進んでいるのが分かった。
スマホには未読の通知が溜まっていた。
会社から、同僚から、家族から。
でもそこに、雅子からの一通があった。
「今日は欠勤で処理した。理由は“体調不良”。余計な説明は不要。明日、起きられたら連絡。起きられなければ、それも連絡不要。まず呼吸」
短い文章。
事務的に見える。
でも、“余計な説明は不要”の一言が、しのの胸をほどいた。
説明しなくていい。
許可がある。
許可があるだけで、世界は少し静かになる。
翌日、しのは出社した。
完全ではなかった。
頭の奥はまだ痛い。
でも、歩ける。息ができる。
デスクに着いたとき、雅子は何も言わなかった。
「大丈夫?」も「無理しないで」もない。
ただ、しのの机の端に、紙コップのインスタントコーヒーを置いた。
「甘いの入ってる。今日はそれを飲め」
それだけ。
それだけなのに、しのは救われた気がした。
甘さは、判断を鈍らせる。
いつもならそう思う。
でもその日は、甘さが“戻る”ための補助輪に見えた。
しのは結局、その会社を辞めた。
辞めるのは、勇気が必要だった。
辞めたら居場所がなくなる。
辞めたら価値がなくなる。
辞めたら“社会人として”終わる。
その恐怖の中で、しのを支えたのは、雅子のあの言葉だった。
――止まることは、悪いことじゃない。
――止まって、息して、それから決めなさい。
辞める決断も、“止まる”の延長にあった。
逃げではなく判断。
判断できるだけの呼吸を取り戻すこと。
そして辞めたあと、しのは“言葉”に関わる仕事を選んだ。
理由は簡単だった。
自分は、言葉で壊れかけた。
言葉で救われた。
だったら、言葉の扱いを、もう少し丁寧にしたい。
丁寧に扱う人間が、世界に一人くらいいてもいい。
最初はカウンセリングも考えた。
資格を取る道も調べた。
でも、そのどれにも“責任”がついて回る。
責任を負える人は必要だ。
必要だが、自分はそこに立つのが怖かった。
“専門家”という肩書きで救う言葉は、確かに力がある。
その力があるからこそ、相手を依存させる危険もある。
自分が、誰かの人生のハンドルを握ってしまうかもしれない。
それが、怖かった。
だから、しのは境界線を作った。
褒めは治療ではない。
私は専門家ではない。
それでも、言葉が必要な人がいることを知っている。
——必要以上に優しくしない。
——相手を変えない。
——拾えることしか言わない。
——褒めは薬じゃない。
境界線は、相手のためでもある。
でも同時に、自分のためでもある。
自分が止まれるように。
自分が呼吸を失わないように。
それなのに。
「お金を払えば、何度でも」
その空気が、最近少しずつ漂い始めた。
依頼者の側が悪いわけではない。
誰だって、苦しいときは“確実なもの”が欲しくなる。
確実なものが欲しいから、料金を払う。
払うことで、安心したい。
――その気持ちは、分かる。
分かるからこそ、しのは怖い。
境界線が、相手の希望によって削られていくとき。
削られた境界線の先に、あの改札前の自分がいる気がする。
止まれない自分。
呼吸できない自分。
「社会人として」が頭の中を走り回る自分。
しのは思い出す。
あの朝、自販機の白い光の横で、雅子が言ったことを。
――止まることは、悪いことじゃない。
そして、もうひとつ思い出す。
雅子が“よく止まる人”だった理由を。
雅子は、仕事ができた。
できすぎた。
だからこそ、自分の限界を知っていた。
限界を知らない人は、限界まで行ってから倒れる。
雅子は倒れる前に止まった。
止まるのは弱さではなく、技術だと知っていた。
ある日の昼休み、しのが「どうしてそんなに止まれるんですか」と聞いたことがある。
周りが忙しさを武器にしている中で、雅子は堂々と休憩を取る。
会議の前に水を飲む。
雑談を切って、ひとりで五分だけ目を閉じる。
雅子は、少し考えてから言った。
「止まれない人は、誰かに止めてもらうしかなくなる。止めてもらうと、止めた人を恨む。だから、自分で止まる」
しのはそのとき、理解できなかった。
止めてもらうのは優しさだと思っていた。
恨むなんて、想像できなかった。
でも今は分かる。
止められると、“奪われた”気持ちになる人がいる。
自分の判断を奪われた気持ちになる。
だから、雅子は「止まって、息して、それから決めなさい」と言った。
決めるのはあなた。
止まるのはあなたの権利。
それを奪わない。
奪わないために、事実だけを置く。
しのの“褒め屋”の温度は、たぶんそこから来ている。
優しくしすぎない。
慰めで包まない。
でも、見捨てない。
事実を置く。
判断を返す。
止まれる余白を残す。
——それでも、最近、その余白が狭くなっている。
依頼が続く。
枠が埋まる。
同じ人が、繰り返し入れる。
“褒め”が目的ではなく、判断を委ねるために来る。
その兆候が見えたとき、しのは初めて「断る」という選択肢を現実として握った。
握った瞬間、手が冷たくなった。
断るのは、相手を突き放すことだと思ってしまうからだ。
でも雅子の言葉が、背中の奥で鳴る。
――止まって、息して、それから決めなさい。
止まるのは、悪いことじゃない。
止まるのは、判断のため。
判断しないまま続けるほうが、よほど危険だ。
しのは、机の上のメモ帳を見た。
そこには、短い言葉がいくつか書かれている。
依頼者の言葉。
拾えた事実。
返したい言葉。
そして、もう一行。
自分のための言葉。
「止まることは、悪いことじゃない」
しのはそれを指でなぞり、深く息を吸った。
吸って、吐いた。
ゆっくり。
自分で。
――大丈夫、と言う代わりに。
――今、止まっている、と事実を置く。
あの朝の雅子の温度を、しのは思い出す。
そして、今の自分が、その温度を誰かに渡せるかどうかを、試されている気がした。
止まる。
息をする。
決める。
――その順番を、また守るために。
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