42 / 50
三枝しの編
第42話 褒め屋は誰にも救われない[6]
しおりを挟む
――数日前。
会議の中で栗原雅子と再会したあの日。
会議が終わっても、三枝しのはすぐに画面を閉じなかった。
パソコンの前に座ったまま、背もたれに体を預ける。
椅子がわずかに軋む音がした。
画面は暗い。
さっきまで並んでいた名前も、発言の順番も、すべて消えている。
それなのに、しのの視界には、まだ一人の姿が残っていた。
栗原雅子。
名前を認識するまでに、一拍あった。
画面に映った瞬間、すぐに「そうだ」とはならなかった。
数年ぶりだ。
最後に会ったのは、会社を辞める前――もっと前かもしれない。
髪型が違う。
以前は、長い髪をきちんとまとめていた。
一本も乱れないように、いつも同じ位置で。
今は、首の真ん中あたりで切り揃えたショートヘアだった。
余計な癖も、装飾もない。
でも。
姿勢。
画面の中央に自然と収まる座り方。
話し始める前の、ほんの一拍の“間”。
――ああ。
しのは、そこで確信した。
本人だ。
会議中、雅子は淡々と話していた。
声は低く、語尾を伸ばさない。
内容は正確で、無駄がない。
一言で流れが整う。
誰かが「助かります」と言っても、
「よく分かりました」と返されても、
雅子は特に反応を示さなかった。
褒めもしない。
評価もしない。
否定もしない。
ただ、仕事を進める。
その様子を見ながら、しのは胸の奥で小さく思った。
――変わっていない。
会議の終盤、参加者の画面が一つずつ消えていく。
最後に残った雅子の画面も、無言のまま暗くなった。
その直前。
「……三枝」
名前を呼ばれた。
業務用でも、親しげでもない。
確認するような、短い呼び方。
しのが反応する前に、雅子は続けた。
「止まることは、悪いことじゃない」
それだけだった。
画面は暗くなり、会議は完全に終わった。
あの日の記憶がしのの脳裏にそのまま残り続けていた。
数日後。
仕事の関係で、しのは久しぶりに対面の打ち合わせに出向いていた。
小さなオフィスビルの一室。
取引先との打ち合わせは、すでに終わっていた。
名刺交換も、次回の予定確認も済んでいる。
しのは、帰り支度をするほどでもなく、ただコーヒーが冷めるのを待っていた。
ノックの音がした。
「失礼」
入ってきたのは、栗原雅子だった。
今度は、画面越しではない。
実際の距離。
あえて会議が終わった“あと”を、この人は選んだのだと、しのは思った。
背は高い。
ヒールは低いが、自然と視線が合う。
しのは、思わず口に出していた。
「……髪、切ったんですね」
雅子は一瞬だけ間を置いた。
「うん」
それだけ。
説明もしない。
理由も言わない。
でも、その“言わなさ”が、しのの胸に残った。
止まった人の沈黙だ、と直感した。
二人は向かい合って座った。
「今は、どんな仕事を」
雅子が先に聞いた。
「編集の仕事を続けています。それと……」
「それと?」
「個人で、少し」
「少し?」
しのは、少しだけ息を整えた。
「褒め屋、を」
雅子は頷いた。
「そう」
驚きも、評価もない。
「否定しないんですね」
「否定する理由がない」
「褒めもしない」
「褒める必要もない」
その言葉に、しのは小さく息を吐いた。
――昔から、この人はそうだった。
入社したばかりの頃。
しのは、よく“整える役”を任されていた。
誰かの言葉を、角が立たない形に直す。
誰かの怒りを、手順に変える。
うまくやっても、特別な評価はない。
でも、失敗もしない。
ある日、しのは勇気を出して聞いたことがある。
「私の仕事、どうですか」
雅子は、資料から目を離さずに言った。
「壊れてない」
それだけだった。
「……良い、ですか」
「壊れてないなら、十分」
褒められた気はしなかった。
でも、不思議と折れなかった。
今になって思えば、
あれは「褒めなかった」のではない。
走らせなかったのだ。
―――。
「あなた、昔から“正しい側”にいようとする」
雅子が言った。
「思ってない人ほど、そうなる」
「……」
「止まるときも、正しい止まり方を探す」
しのは、視線を落とした。
「止まれるようには、なりました」
「止まれることを知っただけ」
「……」
「止まるかどうかは、選んでない」
その言葉が、胸に落ちた。
「褒め屋って仕事、悪くないと思う」
雅子は続ける。
「でもね」
少しだけ、声の調子が変わった。
「あなた、ずっと受け取らない側にいる」
「救っているつもりはありません」
「分かってる」
「でも、“受け取らない”って決めてる」
沈黙。
「褒める。渡す。終わる」
「……はい」
「で、あなたは?」
しのは、答えられなかった。
「誰が、あなたを褒めるの?」
雅子は、答えを出さない。
ただ、問いを置く。
「止まることは、悪いことじゃない」
「でも、止まらないことが正しいとも限らない」
しのは、何も返せなかった。
去り際。
雅子は、ふと立ち止まって言った。
「私ね」
しのが顔を上げる。
「一度、止まったの」
説明はしない。
理由も言わない。
「だから、切ったの」
それだけだった。
家に帰ったしのは、予約画面を開いた。
久間崎一会。
一件だけ、残っている。
新規予約を停止する前に最後に入ってきた予約。
しのは、思った。
――この人をもって『褒め屋』は休業にしよう。
佐藤美代子の1件以来、しのの心はどこか曇っていた。
届かない褒めもある。そんなことはわかっていた。
しかし、実際に自身の褒めが届かないとなると、自分はこの仕事を続ける意味があるのかわからなくなってくる。
――だから一度止まる。
それが“正しい”ことなのかどうかは、まだ分からない。
止まることは、悪いことじゃない。
でも、止まる場所を選ぶのは、まだ怖い。
しのは、画面を閉じた。
結論は、出さない。
せめて、この最後の依頼者の仕事が終わるまでは。
ただ、止まらないままではいられないことだけは、もう分かっていた。
会議の中で栗原雅子と再会したあの日。
会議が終わっても、三枝しのはすぐに画面を閉じなかった。
パソコンの前に座ったまま、背もたれに体を預ける。
椅子がわずかに軋む音がした。
画面は暗い。
さっきまで並んでいた名前も、発言の順番も、すべて消えている。
それなのに、しのの視界には、まだ一人の姿が残っていた。
栗原雅子。
名前を認識するまでに、一拍あった。
画面に映った瞬間、すぐに「そうだ」とはならなかった。
数年ぶりだ。
最後に会ったのは、会社を辞める前――もっと前かもしれない。
髪型が違う。
以前は、長い髪をきちんとまとめていた。
一本も乱れないように、いつも同じ位置で。
今は、首の真ん中あたりで切り揃えたショートヘアだった。
余計な癖も、装飾もない。
でも。
姿勢。
画面の中央に自然と収まる座り方。
話し始める前の、ほんの一拍の“間”。
――ああ。
しのは、そこで確信した。
本人だ。
会議中、雅子は淡々と話していた。
声は低く、語尾を伸ばさない。
内容は正確で、無駄がない。
一言で流れが整う。
誰かが「助かります」と言っても、
「よく分かりました」と返されても、
雅子は特に反応を示さなかった。
褒めもしない。
評価もしない。
否定もしない。
ただ、仕事を進める。
その様子を見ながら、しのは胸の奥で小さく思った。
――変わっていない。
会議の終盤、参加者の画面が一つずつ消えていく。
最後に残った雅子の画面も、無言のまま暗くなった。
その直前。
「……三枝」
名前を呼ばれた。
業務用でも、親しげでもない。
確認するような、短い呼び方。
しのが反応する前に、雅子は続けた。
「止まることは、悪いことじゃない」
それだけだった。
画面は暗くなり、会議は完全に終わった。
あの日の記憶がしのの脳裏にそのまま残り続けていた。
数日後。
仕事の関係で、しのは久しぶりに対面の打ち合わせに出向いていた。
小さなオフィスビルの一室。
取引先との打ち合わせは、すでに終わっていた。
名刺交換も、次回の予定確認も済んでいる。
しのは、帰り支度をするほどでもなく、ただコーヒーが冷めるのを待っていた。
ノックの音がした。
「失礼」
入ってきたのは、栗原雅子だった。
今度は、画面越しではない。
実際の距離。
あえて会議が終わった“あと”を、この人は選んだのだと、しのは思った。
背は高い。
ヒールは低いが、自然と視線が合う。
しのは、思わず口に出していた。
「……髪、切ったんですね」
雅子は一瞬だけ間を置いた。
「うん」
それだけ。
説明もしない。
理由も言わない。
でも、その“言わなさ”が、しのの胸に残った。
止まった人の沈黙だ、と直感した。
二人は向かい合って座った。
「今は、どんな仕事を」
雅子が先に聞いた。
「編集の仕事を続けています。それと……」
「それと?」
「個人で、少し」
「少し?」
しのは、少しだけ息を整えた。
「褒め屋、を」
雅子は頷いた。
「そう」
驚きも、評価もない。
「否定しないんですね」
「否定する理由がない」
「褒めもしない」
「褒める必要もない」
その言葉に、しのは小さく息を吐いた。
――昔から、この人はそうだった。
入社したばかりの頃。
しのは、よく“整える役”を任されていた。
誰かの言葉を、角が立たない形に直す。
誰かの怒りを、手順に変える。
うまくやっても、特別な評価はない。
でも、失敗もしない。
ある日、しのは勇気を出して聞いたことがある。
「私の仕事、どうですか」
雅子は、資料から目を離さずに言った。
「壊れてない」
それだけだった。
「……良い、ですか」
「壊れてないなら、十分」
褒められた気はしなかった。
でも、不思議と折れなかった。
今になって思えば、
あれは「褒めなかった」のではない。
走らせなかったのだ。
―――。
「あなた、昔から“正しい側”にいようとする」
雅子が言った。
「思ってない人ほど、そうなる」
「……」
「止まるときも、正しい止まり方を探す」
しのは、視線を落とした。
「止まれるようには、なりました」
「止まれることを知っただけ」
「……」
「止まるかどうかは、選んでない」
その言葉が、胸に落ちた。
「褒め屋って仕事、悪くないと思う」
雅子は続ける。
「でもね」
少しだけ、声の調子が変わった。
「あなた、ずっと受け取らない側にいる」
「救っているつもりはありません」
「分かってる」
「でも、“受け取らない”って決めてる」
沈黙。
「褒める。渡す。終わる」
「……はい」
「で、あなたは?」
しのは、答えられなかった。
「誰が、あなたを褒めるの?」
雅子は、答えを出さない。
ただ、問いを置く。
「止まることは、悪いことじゃない」
「でも、止まらないことが正しいとも限らない」
しのは、何も返せなかった。
去り際。
雅子は、ふと立ち止まって言った。
「私ね」
しのが顔を上げる。
「一度、止まったの」
説明はしない。
理由も言わない。
「だから、切ったの」
それだけだった。
家に帰ったしのは、予約画面を開いた。
久間崎一会。
一件だけ、残っている。
新規予約を停止する前に最後に入ってきた予約。
しのは、思った。
――この人をもって『褒め屋』は休業にしよう。
佐藤美代子の1件以来、しのの心はどこか曇っていた。
届かない褒めもある。そんなことはわかっていた。
しかし、実際に自身の褒めが届かないとなると、自分はこの仕事を続ける意味があるのかわからなくなってくる。
――だから一度止まる。
それが“正しい”ことなのかどうかは、まだ分からない。
止まることは、悪いことじゃない。
でも、止まる場所を選ぶのは、まだ怖い。
しのは、画面を閉じた。
結論は、出さない。
せめて、この最後の依頼者の仕事が終わるまでは。
ただ、止まらないままではいられないことだけは、もう分かっていた。
0
あなたにおすすめの小説
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」
音爽(ネソウ)
ファンタジー
容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。
本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。
しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。
*6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ちゃんと忠告をしましたよ?
柚木ゆず
ファンタジー
ある日の、放課後のことでした。王立リザエンドワール学院に籍を置く私フィーナは、生徒会長を務められているジュリアルス侯爵令嬢アゼット様に呼び出されました。
「生徒会の仲間である貴方様に、婚約祝いをお渡したくてこうしておりますの」
アゼット様はそのように仰られていますが、そちらは嘘ですよね? 私は最愛の方に護っていただいているので、貴方様に悪意があると気付けるのですよ。
アゼット様。まだ間に合います。
今なら、引き返せますよ?
※現在体調の影響により、感想欄を一時的に閉じさせていただいております。
お好きになさって下さい、私は一切気にしませんわ
Kouei
恋愛
婚約者のクレマンド様は、いつも私との約束を破ってばかり。
理由は決まって『従妹ライラ様との用事』
誕生日会にすら来なかった彼に、私はついに告げた。
「どうぞ、私以外のご令嬢をエスコートするなり、お出かけするなり、関係を持つなり、お好きになさって下さい。私は一切気にしませんわ」
二人の想いは、重なり合えるのだろうか ……
※他のサイトにも公開しています。
愛していました。待っていました。でもさようなら。
彩柚月
ファンタジー
魔の森を挟んだ先の大きい街に出稼ぎに行った夫。待てども待てども帰らない夫を探しに妻は魔の森に脚を踏み入れた。
やっと辿り着いた先で見たあなたは、幸せそうでした。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
【完結】もう…我慢しなくても良いですよね?
アノマロカリス
ファンタジー
マーテルリア・フローレンス公爵令嬢は、幼い頃から自国の第一王子との婚約が決まっていて幼少の頃から厳しい教育を施されていた。
泣き言は許されず、笑みを浮かべる事も許されず、お茶会にすら参加させて貰えずに常に完璧な淑女を求められて教育をされて来た。
16歳の成人の義を過ぎてから王子との婚約発表の場で、事あろうことか王子は聖女に選ばれたという男爵令嬢を連れて来て私との婚約を破棄して、男爵令嬢と婚約する事を選んだ。
マーテルリアの幼少からの血の滲むような努力は、一瞬で崩壊してしまった。
あぁ、今迄の苦労は一体なんの為に…
もう…我慢しなくても良いですよね?
この物語は、「虐げられる生活を曽祖母の秘術でざまぁして差し上げますわ!」の続編です。
前作の登場人物達も多数登場する予定です。
マーテルリアのイラストを変更致しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる