遅ればせながら恋

ひろり

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いやみな相手

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「安い買い物ではありません。十分迷って、何が足りないか、またお話しを伺わせてください」
 先月、契約を白紙に戻した客に、橋本はしもと瑠美るみはそう言って電話を切った。
 その客から、今月になって「やっぱりあの家を買いたい」という連絡が入った。
 今月は、すでに6千万のマンションを売り上げていた。
 この契約がうまくいったら1億超える。もう一つ話を進めている4千万の物件も決まれば、2億に届く勢いだ。
 瑠美は現時点の営業成績表を見た。
 今月こそあの男に勝てる…
 余裕の笑みを浮かべて、瑠美は契約書の準備を始めた。


 不動産関連の業界は、まだまだ男社会である。
 女子社員は、適当なところで結婚退職してもらって、代わりに、多少仕事ができなくても、安い給料で働いてくれる若い女の子を入れたほうが、男性社員の士気も上がる。適度に仕事ができるベテラン女性が必要なら、非正規で即戦力を雇用し、人件費を抑えたほうがいいというのが会社の本音だ。
 三十半ばで総務部に勤務していた瑠美は、自分が、会社が想定する女性社員の枠外に位置している自覚はあった。
 肩を叩く代わりに、社員のキャリアと全く無関係な部署に異動させ、やんわりと居辛い状況を作って、退社へと自ら舵を切らせるのは、ありがちな手法だ。

 瑠美もある日、営業部への異動を言い渡された時は、とうとう来たかと覚悟し、転職雑誌を手に取ったりした。
 しかし、実際に異動してみると、内勤の冷房地獄に、すっかり体調を崩していた時期だったこともあり、外回りが新鮮で、職場の環境が体に与える影響が、いかに重要かを実感した。
 もう少し居座ってやろう、会社の思惑など知ったことかと居直り、先輩社員の同行を積極的に買って出て、本腰を据えた。

 そして幸運なことに、同年代の既婚、未婚の友人たちが、ちょうど戸建てやマンション購入を考え始める時期と合致して、営業部異動を伝えると、ぽつぽつと相談が舞い込んだ。
 客が友人となると、今後の付き合いもあるので、より慎重になって希望する物件を探す。失望させてはならないという思いから、自分の時間も忘れて友人の話に耳を傾け、女性目線のこだわりを知ったりする。
 気がつけば、異動2か月目にマンションを売り上げ、周囲を驚かせていた。
「瑠美、ありがとう。ホントにいいマンションが買えた。ありがとう」
 そう言われ、瑠美は不動産の営業職に、楽しさとやりがいを見つけてしまった。

「いやあ、君にこんな才能があるとは思わなかったよ。長いこと事務職でくすぶらせておかないで、もっと早く異動させるべきだったよ」
 古巣の総務部長の小岩井こいわいが、ワイングラスを片手に下品な笑い声をあげる。
 総務部の飲み会は大抵居酒屋だったので、小岩井から食事に誘われた時は、どうせ居酒屋だろうと思っていたら、予想外に小洒落たフレンチレストランだった。
 居酒屋では、小岩井は入社して間もない若い女子社員を周りに侍らせ、三十前後の女性社員は、瑠美も含めその様子を、遠巻きに鼻で笑って見ていたものだった。
 その若い女が好きな小岩井と、二人きりで向かい合って、食事をしている居心地の悪さと不気味さに、瑠美の顔は強張っていた。

「いやあ、初めての契約おめでとう。私も鼻が高いよ」
「はあ… ありがとうございます」
「それにしても橋本さん、なんだか垢抜けたねえ」
 小岩井は嘗め回すように、じっとりとした視線を送ってきて、時々オープンカラーの胸元で目を止める。
 そういうことか… と瑠美は納得した。

 ガンガンに冷房をきかせた部屋で、ひっつめ髪の薄化粧にマスクをして、カーディガンにストール、ひざ掛けにくるまり、頻繁に鼻をかみながら仕事に励んでいた姿は、小岩井にとっては、垢抜けないおばさんにしか見えなかったのだろう。
 営業部では、客に失礼のないように、髪も化粧もそれなりに整え、スーツを着こなしている。
 近くにいるときは、手も出す気になれないただの年増だったが、オシャレになって、しかも他部署にいるので、手を出してもバレにくい。三十もとおに過ぎて、相手もいなくて仕事に励んでいる女だから、落としやすいと見たか。

「すみません、部長。私、まだ仕事が残っているので失礼しますね」
「え、まだ来たばかりじゃないか」
 小岩井が焦って、ワイングラスをテーブルに置いた。
「小岩井部長のことだから、居酒屋にちょっと寄って、サクッと済ませられると思ったんですよ。まさかこんなオシャレな、フレンチのお店だなんて思ってもなくて… ごめんなさい。これからお客様とお会いするので失礼します。ワインご馳走様でした」
 一方的にまくし立てると、瑠美は席を立った。

「バカにしやがって、あのエロおやじ」
 店を出るなり、瑠美が吐き捨てた。
「エロおやじって、小岩井さんのこと?」
 背後から男の声がした。
 ぎょっとして振り返ると、そこに同じ営業部の笹原ささはらあきらが立っていた。
「さ、笹原さん。こんなところで何してるんですか!」
 驚いてきつい口調で言う瑠美を、笹原はクスクス笑って見ている。
「何があったか知らないけど、俺に当たられても困るなあ」
「当たってません。ここで何してるか聞いてるだけで」
「仕事に決まってるでしょ。このレストランのオーナーの相談に乗ってた」
「中に居たんですか!」
 笹原は苦笑しながら、口元に人差し指を立てる。
「大きな声出すなよ。それより小岩井さん、出てきたら困るだろ」
 そう言って、軽く瑠美の背中を押して歩くよう促した。

「笹原さん、人が悪い。居るなら声かけてくれればよかったのに」
「普通、かけないだろ。同僚と上司がフレンチでワイン傾けてたら」
「誤解しないでください。何もありませんから」
「俺、何も言ってないけど」
「部長に誘われて、どうせいつもの居酒屋だろうと思ったらフレンチで… びっくりですよ。慌てて出てきました」
「なんだ、食べてこなかったの? ここ美味しいのに」
「もう! 笹原さん、面白がってる」
「だって面白いもん」
 瑠美は、不機嫌そうに口をつぐんだ。
「この近くに、美味しい定食屋があるんだけど行く?」
 笹原の軽い口調に、瑠美は思わずうんとうなずいた。
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