Bittersweet Ender 【完】

えびねこ

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蓋然

8.

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 千晶が大学近くに借りた部屋は狭――広くはない。
 エレベータも無い3階建ての店舗併用住宅の2階部分。入ってすぐに猫フェンス、トイレとバスルーム、キッチン、猫のもの一式。棚に小さなテレビ、テーブル、反対側にソファーベッドとサイドテーブル、と折り畳まれた何か。サンルームには突っ張るタイプのキャットタワーが設置され、衣類が掛かっている。窓際と玄関先の不気味なオブジェは不審者避け。

「ありがと」
「ノープロブレム」

 キャットタワーの緩みを締め直し、照明の常夜灯を交換した。たったそれだけのことで無表情な顔に、ほんのり誇らしさが滲む。

「いいところだね」
「うん、屋上や階段の踊り場にも緑があって気にいってるんだ。三階は小石川の院生さんが鉢植えにまみれて暮らしてる」
 窓の外の通りは住宅と個人商店が立ち並ぶ。軒先のわずかなスペースに鉢植えやベンチが置かれていて、人々の明るさを感じる。
 階下はフラワーショップ、家賃4.6万円、水道料込、光熱費は三階と折半、部屋はなんでもすぐ手が届いて便利だと明け透けに語る。
 彼女が好んで住んでいるのはわかる。だがもう一部屋、もう少しセキュリティの整った――これではまるで誰かと同じではないか、慎一郎は浮かんだ顔を振り払う。どこかの父親と母親も、息子のことは折り合っても自身のことは十分と譲らず、未だに周囲がとりなす始末だ。
 
『いいか、オトモダチの部屋だからな』『立ってる者は誰でも使うし、必要なら藤堂さんに(当たりの)宝くじ買ってきてってくらい図々しいから』念を押した兄弟の言葉の意味をかみしめる。
 千晶なら竪穴式住居でも共同シャワーの物件でも大邸宅でも楽しく暮らすだろう。慎一郎もたくさんの家に招かれ、どこにでも良さを見出してきた。
 この不甲斐なさと、おごりは何なのか。

「どうぞ召し上がれ」
 千晶はそんな葛藤に気づいているのか、さもありなんと笑いながら具沢山のスープを差し出す。
 醤油ベースに根菜にキノコに肉に練り物に厚揚げ、と白い団子状の何か。七味唐辛子と醤油も添えて。
「すいとんか、いただきます」
 教養の時5月の学祭で作ったんだ、というと千晶がつまらなそうに眉をしかめる。正確には調理したのはクラスのメンバーで慎一郎は設営担当だった。
「完全栄養食よ、お代わりもどうぞ」
 科学はすべて仮説だのと言いながらかぶとゆで卵のぬか漬けの小鉢が追加された。
 慎一郎はニオイに首をかしげながらも、口に入れると軽く頷いた。これはいい。千晶はほんとに食べてるよ、とでも言いたげな顔で見ている。
「おいしいね」
「…よかったね」
 千晶は諦めたようにミカンに手を伸ばし、黒猫に甘栗を剥いてやる。
「これは?」「いもがらって、里芋の茎を乾燥させた保存食よ」
「これか、五十嵐って覚えてる?」「名前だけ、教養に残った上越の人よね」
 適度な歯ごたえにうまみの溶け込んだ優しい味わい。他愛ない昔話と一緒につまらないプライドも飲み込んで、二杯もお代わりをした。


「ありがとう」
「お粗末さまでした、プリンは明日いただくね」
 じっと見つめる顔に、 ん? と千晶は首を傾げ、篭盛りのミカンを差し出す。
「ふっ」
「なに?」
 笑いをこらえた変な顔を千晶は醒めた目で見返す。
 慎一郎は答えず、ニヤニヤと笑う。
「どうせ碌でもないこと聞きこんできたんでしょ」
「さぁね」
 目だけで笑い、ミカンに手を伸ばす。と、
「あっ」
 すかっとした手ごたえに今度は千晶がにやっと笑う。
 ミカンは底に穴が開いていて空洞になっていた。慎一郎は笑い返しながらも、意外と心穏やかではいられない自分に驚く。食べ物への期待値は恐ろしい。
 千晶の秘蔵酒の箱には今、本みりんの一升瓶が入っている。

 慎一郎は新しいミカンを手に取り、その重みとつややかな色を見つめる。

「会えてよかった。近づけば等しく照らしてくれる、そして暖かい」
「ふふ、太陽作戦にまんまと落ちちゃって」

 誰が、誰に、曖昧に濁した言葉を千晶はしっかり汲み取って、あっさりと流した。
 いつか話すだろうか。千晶の父親との会話を、俺の家族のことも。千晶なら彼らを見ればわかるだろう。そして、話を聞き出す――否、彼らが告白するのだ。楽になりたくて。
 千晶はそれを造作なく投げ捨てる。
 傷つけることも傷つけられることも厭わない、その強さに敵わない。
 
「近づき過ぎたら焼かれるのかな」
「『兄さんがやられた、僕がしっかりしなくちゃ』って」
「だといいねぇ」
 
 慎一郎は腑抜けた顔でまた手を伸ばし、くるっとカールした毛先に触れる。
 頬に、手先に触れ、温める。身体を曲げ、下腹部にそっと耳を寄せた。

 ――何も聞こえない。ただ頬に当たる体温、そこだけ熱が高く感じた。

「通じるよ、」もう電波のぶっ飛んだ言葉には驚かない。どう呼びかけようかと頭の中に浮かんだ単語に応えるよう小さな振動が伝わってきた。

「……」

 心のなかで話かけると、再び僅かな振動が伝わってきた。

「彼らはエイリアンなのよ、きっと」
「…っ、そいつは大変だ」
「こうして私の意識も乗っ取り――」

 千晶は睡魔がやってきたと歯を磨いて、ベッドの上で軽くストレッチをし、クッションにもたれながら横になった。
 慎一郎は足と腰をさすってやる。そして毛布とひざ掛けを箱から広げ、そっと掛けた。千晶は手触りをたしかめると頬をゆるませた。
 黒猫はひざ掛けの上で丸くなった。

「私は恵まれてる、手を伸ばせばみんなそっと力を貸してくれる。とってもありがたいよ」

 心からの感謝と、だから、今は大丈夫、そんな響きに慎一郎は目を細める。幸いなことに、彼に千晶のリスクを説明した者はいなかった。不用意に希望をもたせることも告げなかったが。

「ナツは母より口うるさいし、カズは――カズね、ま、切り札もあるし」
「なんでも券?」
「そ、彼に大事な人が見つかるまでに使いきらないとね」
 いたずらに笑った声には、言霊にとの願いも込められているようだ。
 兄が両親へ贈った子供のおままごと券、使いきれそうもないと千晶と七海に半分譲られた。使用者と期限を記載しなかったのは兄の失敗か、それとも。

「俺も恵まれてる、生きていく知恵は授けられた」

 上辺だけなら何度も口にしてきた感謝。今は自然に出たことに戸惑いと面映ゆさを感じる。千晶の背に回り、肩と首を軽く揉む。

「そして、見守ってくれる人がいる。ありがたいな」
「そうだね」千晶は軽く頷き、鼻をすんすんとさせ、もたれかかった。

「明日11時の便で発つよ。まだ、向こうでやってく」
「んー、身体は大事にね」今更知ってるし、というような薄い反応。眠さに抗わず、梅干しやドロップ、常備薬を持っていけと棚を指さす。
「干し納豆ってのが――」
「ノーサンキュー」

 慎一郎はぽつぽつと話を続けた。今の仕事のこと、家の仕事のこと、返事の代わりに軽い寝息が聞こえてくる。

 ――自惚れかもしれないが、彼女はもう気づいている。俺の存在意義とその葛藤を。そして願いを。俺が口にするかは分からない、彼女が話を聞くかどうかも分からない。どちらにしても彼女は最後にこう返すだろう『好きにしたらいいあずゆーうぃっしゅ
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