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第2話 天才たちの幻想曲
#1
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カフェ・桜華堂には今、オーディオから流れるクラシックの代わりに、バイオリンの生演奏が響いていた。弾いているのは、明るい栗色の髪をした、中学生くらいの少女。この春から桜華堂の住人となった、和泉晶だった。
彼女の生演奏は、月に数回、気まぐれに開かれる。予告はされないので、居合わせた客はラッキー、という形だ。
晶が練習するバイオリンが店まで聞こえてきて、それをぜひ聞かせてくれと言った客がいたのがきっかけだった。桜の花の季節は去り、裏庭の桜の木には青々とした緑が茂っている。
報酬は出すから弾いてみない? という家主兼保護者、七海陽介の言葉に、少し考えて晶は了承した。
そして、口コミで評判が広まり、彼女の演奏を聞こうと通い詰める常連客もいるほどだ。市民楽団などからスカウトも来ているようだが、受験を理由に断っているらしい。
最後の音が空気に溶けて消えると、店内は拍手に包まれた。晶は照れ臭そうにそれを受けて一礼すると、
「今日も良かったぞ。ほら、新しいパフェの試作」
桜華堂の調理担当、春日井仁は、報酬のスイーツを晶に渡す。今日はアイスクリームに生クリーム、季節のフルーツがたっぷり乗ったパフェだった。演奏一回につき、スイーツと臨時の小遣いが報酬ということになっていた。
「ありがと、仁さん」
晶はそれを受け取って、居住スペースの方に消えていく。
今日の演奏は、光が降り注ぎ、柔らかな羽根が頬を撫でていくように、昴には見えた。
天才。そうとしか表現しようのない才能だった。
「やっぱり上手いわねえ、晶ちゃんのバイオリン」
ホールスタッフの藤森那由多がほうっと溜息を吐いて言うと、
「そうだねえ。今は受験生だから難しいけど、高校生になったら本格的にお願いしようかな?」
陽介もそんなことを言い出す。
森山昴は、その様子をぼんやりと眺めていた。
昴にも、天才と言われ、もてはやされた時もあった。
しかし、それは長くは続かない。
次々に結果を出さなければ、すぐに忘れ去られてしまう。
たくさんのコンテンツが溢れ返り、常に新しいものが求められる現代ならば、尚のことだ。
昴は、桜華堂のテーブルの1つで、一人の女性と向かい合っていた。二十代後半くらいの、長い黒髪を一つにまとめ、シンプルなジャケットとズボンをまとった、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「なるほど。これが桜華堂の新しい名物ですか」
女性は感心したように頷くと、手元の紙に目を戻した。
昴は緊張した面持ちで、A4サイズの紙に書かれた文字を追う彼女の反応を待っている。
二人の前には桜華堂特製ブレンドのカップが置いてあった。昴はカップを持ち上げて口を付けるが、味わう余裕はない。
「――一ノ瀬さん」
女性は昴のことを「一ノ瀬」と呼んで、ようやく口を開く。
「あなたはこの物語を通して、読者に何を伝えたいんですか?」
昴は、ぐっと答えに詰まる。
「流行りの要素とかはこの際いいんです。貴方が本当に書きたいものを、見せてください」
「桐生さん。僕は……」
もう、小説を書くのはやめます。書けません。そう言おうとしたけれど、言葉が喉につかえて出てこない。
昴の担当編集者、桐生美琴は、ぬるくなってしまった特製ブレンドを飲み干すと、
「勘違いしないでください。わたしは、あなたの書く文章が好きです。だから、あなたの心が物語を紡ぐまで、待っていますから」
またプロットができたら連絡してください、と言って、会計を済ませると店を出て行った。
昴はその後姿を見送って、深い溜息を吐いた。
森山昴、職業は大学生、及び小説家。
中学生3年生の時に新人賞を取り、一ノ瀬三月のペンネームでデビューを果たした。今の晶と同じ年だ。
中学生作家は話題になり、デビュー作はまあまあ売れた。しかし、それだけ。後が続かなかった。
2冊目の売れ行きは芳しくなく、3冊目はプロットすら通らない。
若くしてデビューし、話題をさらった分、何かを叩きたい人間からのヘイトもたくさん来た。曰く、「それっぽいことを、それっぽい言葉で飾って言い立ててるだけ」「中身がない」「生意気で読むに堪えない」などなど。
当初は気にしないように努めていたが、今となってはその指摘は事実なのだろうと思う。
学生作家、一ノ瀬三月を覚えている人間は、たぶんもうこの世界にはいないのだと思う。
彼女の生演奏は、月に数回、気まぐれに開かれる。予告はされないので、居合わせた客はラッキー、という形だ。
晶が練習するバイオリンが店まで聞こえてきて、それをぜひ聞かせてくれと言った客がいたのがきっかけだった。桜の花の季節は去り、裏庭の桜の木には青々とした緑が茂っている。
報酬は出すから弾いてみない? という家主兼保護者、七海陽介の言葉に、少し考えて晶は了承した。
そして、口コミで評判が広まり、彼女の演奏を聞こうと通い詰める常連客もいるほどだ。市民楽団などからスカウトも来ているようだが、受験を理由に断っているらしい。
最後の音が空気に溶けて消えると、店内は拍手に包まれた。晶は照れ臭そうにそれを受けて一礼すると、
「今日も良かったぞ。ほら、新しいパフェの試作」
桜華堂の調理担当、春日井仁は、報酬のスイーツを晶に渡す。今日はアイスクリームに生クリーム、季節のフルーツがたっぷり乗ったパフェだった。演奏一回につき、スイーツと臨時の小遣いが報酬ということになっていた。
「ありがと、仁さん」
晶はそれを受け取って、居住スペースの方に消えていく。
今日の演奏は、光が降り注ぎ、柔らかな羽根が頬を撫でていくように、昴には見えた。
天才。そうとしか表現しようのない才能だった。
「やっぱり上手いわねえ、晶ちゃんのバイオリン」
ホールスタッフの藤森那由多がほうっと溜息を吐いて言うと、
「そうだねえ。今は受験生だから難しいけど、高校生になったら本格的にお願いしようかな?」
陽介もそんなことを言い出す。
森山昴は、その様子をぼんやりと眺めていた。
昴にも、天才と言われ、もてはやされた時もあった。
しかし、それは長くは続かない。
次々に結果を出さなければ、すぐに忘れ去られてしまう。
たくさんのコンテンツが溢れ返り、常に新しいものが求められる現代ならば、尚のことだ。
昴は、桜華堂のテーブルの1つで、一人の女性と向かい合っていた。二十代後半くらいの、長い黒髪を一つにまとめ、シンプルなジャケットとズボンをまとった、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「なるほど。これが桜華堂の新しい名物ですか」
女性は感心したように頷くと、手元の紙に目を戻した。
昴は緊張した面持ちで、A4サイズの紙に書かれた文字を追う彼女の反応を待っている。
二人の前には桜華堂特製ブレンドのカップが置いてあった。昴はカップを持ち上げて口を付けるが、味わう余裕はない。
「――一ノ瀬さん」
女性は昴のことを「一ノ瀬」と呼んで、ようやく口を開く。
「あなたはこの物語を通して、読者に何を伝えたいんですか?」
昴は、ぐっと答えに詰まる。
「流行りの要素とかはこの際いいんです。貴方が本当に書きたいものを、見せてください」
「桐生さん。僕は……」
もう、小説を書くのはやめます。書けません。そう言おうとしたけれど、言葉が喉につかえて出てこない。
昴の担当編集者、桐生美琴は、ぬるくなってしまった特製ブレンドを飲み干すと、
「勘違いしないでください。わたしは、あなたの書く文章が好きです。だから、あなたの心が物語を紡ぐまで、待っていますから」
またプロットができたら連絡してください、と言って、会計を済ませると店を出て行った。
昴はその後姿を見送って、深い溜息を吐いた。
森山昴、職業は大学生、及び小説家。
中学生3年生の時に新人賞を取り、一ノ瀬三月のペンネームでデビューを果たした。今の晶と同じ年だ。
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当初は気にしないように努めていたが、今となってはその指摘は事実なのだろうと思う。
学生作家、一ノ瀬三月を覚えている人間は、たぶんもうこの世界にはいないのだと思う。
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