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第七章 見つめた先に
#4
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殺すつもりなんてなかった。あれは事故だった。
心の中で何度も言い訳をする。
昼間なのにカーテンを引いた薄暗い部屋の中で膝を抱え、彼は繰り返す。
あれは事故だったのだ。
けれど、落下していくウォルトの最期の表情が、脳裏にこびりついて離れない。
あの夜も、月が出ていなかった。だから、例の噂を聞きつけた人間が、星見の塔に式を送ってくる。自分は薬を渡し、金銭を受け取る。
星見の塔の当直は、誰しも可能ならばやりたくない役目だ。だから、一緒に当番になっていた同僚には、「ここは自分一人でやるから」と、甘い囁きでもって、暖かい布団の中に押しやる。
そうやって一人になるのは簡単だった。こんなふうに規律が乱れていることが露見すれば、王立魔術研究院の権威も地に落ちるというものだろうが、それは自分の知ったことではない。
孤児だった自分がブラント家に引き取られたのは、魔術の才を見出されたからだ。ここで成績を残さなければ、自分は養い親から見放されてしまうだろう。
加えて、ブラント商会は近頃、資金繰り困っている。賢者の称号を手に入れ、研修資金を手に入れろと言われていた。
その男が接触してきたのは、重圧がのしかかった頃だった。
「ソムニフェルムを少しこちらに流してもらえれば、国が買い取っている値段の三倍、いや五倍の金額を出す」と、その男は言ってきた。
国の許可がなければ栽培も流通もできない、劇薬の原料だ。露見すれば重罪は免れない。それでも、ブラント商会の主は、その話に一も二もなく乗った。
そして、彼にソムニフェルムを精製して作った薬の素晴らしさを広める手伝いをするよう、持ちかけた。試しに使って見て、その効果を確かめろと。もちろん、薬を広めた分、報酬が入る。
初めは躊躇した。ソムニフェルムの効果は、彼も知識としては知っている。だが、頭が冴え渡り、力が増して何でもできるようになると言われて、弱った心は誘惑に勝てなかった。
事実、それを服用した瞬間、今まで感じたことのなかった恍惚感、万能感に包まれ、研究成果を上げることができた。
そして、同じように惑っている魔術師の卵を見つけると、「マナを増幅させる薬がある」という噂を流し、それを売りつけた。効果は上々だった。
しかし、薬の効果が切れた後、手足が震え、底が抜けるような不安と虚脱に襲われた。それに耐えられなくて、再び薬に手を出す。
これは手を出してはいけなかったものだ。戻れ。まだ間に合う。理性がそう訴えかける。
だが、抗えなかった。薬物がもたらす偽りの安寧の中で、自分は正常だと、間違ってなどいないと言い聞かせる。既に薬がないとやっていられない状態になっているのに、自分でそれに気付けないほどになっていた。それが、この薬の恐ろしいところなのだった。
あの夜も、自分と同じように薬を求める人間と、式を使って取り引きを終え、部屋の布団に帰るはずだった。ある程度長距離を飛べるが、弱い式だ。感知されて怪しまれることはないはず。
けれど、そこにウォルトがやってきた。
「お前……」
足音を忍ばせてやって来た彼に気付いたときは、遅かった。
ウォルトは瞳を揺らして、彼を見つめていた。何かの間違いであってほしかった。その目は、そう訴えているようだった。
奴はお節介な男だった。同じ街の出身の昔馴染みで、同時期に魔術研究院へ入った。一緒に切磋琢磨してきたはずが、いつの間にか彼は伸び悩み、周囲からおいてけぼりを食らっていた。
ウォルトはおそらく、彼の様子がおかしいことに気付いていた。昏い目をしてぼんやりと歩き、かと思えば神経が昂ったかのように振る舞う彼を心配して、何度も声をかけてきた。
しかし、彼はそれを拒絶した。
そして、ウォルトは彼が度々、星見の塔で何かしていることを勘づいて、ここに踏み込んできたのだった。
「それをこちらに渡せ」
ウォルトは静かに手を伸ばしてくる。見る者が見れば、彼が何かの薬物を使用していることは一目瞭然だっただろう。それを隠し通せることなど不可能であることがわからないくらい、彼は判断能力を失っていた。
彼はウォルトの手をはねつけ、その脇を走り抜けようとした。だが、ウォルトに腕を掴まれて、勢い余って一緒に床に倒れ込んだ。
ウォルトは彼の手の中にあるそれを奪い取ろうとする。
「こんなものに頼ってはだめだ!」
二人は揉み合う。ウォルトが彼の手にあった包みを奪った。
「返せ!」
彼は死に物狂いでウォルトに掴みかかる。それは自分と家を救ってくれるものだ。それがないと俺は。
二人とも武術の心得などないが、力ではわずかに彼の方が優勢だった。ウォルトは襟を掴まれ、壁際に追い詰められながらも、必死に彼の手からそれを遠ざけようとする。
揉み合ううちに、ウォルトの身体が窓枠の外に大きく傾いだ。ウォルトはそれでも、薬の包みを取られまいと、腕を彼から遠ざける。彼もそれを奪い返そうと、ウォルトの上体を押さえ付け、目を血走らせて手を伸ばす。
そして。
二人の力の均衡が崩れたその瞬間、ウォルトの身体は星見の塔から外に投げ出されていた。薬の粉末が、夜風にさらわれていく。
目を見開き、恐怖とも驚愕ともつかない表情を張り付けて、彼の身体は暗闇の中に落下していった。こういうとき、人は悲鳴を上げるものだと思っていたが、静かなものだった。
永遠のような一瞬の後、ぐしゃりと鈍い音がした。
我に返って、彼はしばらく呆然と下を見つめていた。長い時間そうしていたようにも思えるが、ほんの少しの間だったかもしれない。
ともあれ、音を聞きつけた衛兵が駆けつけてくる気配はなかった。
だから、彼は震える足で塔を駆け下りた。地面に叩き付けられたウォルトの身体は、無残に頭が割れ、虚空を見つめたまま、微動だにしなかった。
このままではまずい。恐慌状態に陥ろうとする思考の片隅で、彼は遺体を引きずり、息を切られて、図書館棟の裏手まで運んだ。
魔術で図書館の窓を開けようとしたが、彼の力では二階の窓を開けるのがせいぜいだった。そこから急いで駆け戻り、血に濡れた土を掘り返して均す。見え透いた工作だが、これが精いっぱいだった。
目撃者はいない。なんとかなる。殺そうとしたわけじゃない。そう何度も自分に言い聞かせた。
しかし、グレイス家に現れた客人。彼らは絶対に薬草師見習いや、猪獲りの猟師などではないと、彼の勘は告げていた。
このままではまずい。しかし、どうすることもできない。
突然休暇を取って帰ってきて部屋に籠る息子に、父親は何も聞かない。
震える手で、彼は油紙の包みを開き、中身を一気に口に入れる。
不安が消え、何でもできるような全能感に包まれる。
張り詰めていた息を大きく吐き出し、ダミアン・ブラントは偽りの安寧に身を委ねた。
心の中で何度も言い訳をする。
昼間なのにカーテンを引いた薄暗い部屋の中で膝を抱え、彼は繰り返す。
あれは事故だったのだ。
けれど、落下していくウォルトの最期の表情が、脳裏にこびりついて離れない。
あの夜も、月が出ていなかった。だから、例の噂を聞きつけた人間が、星見の塔に式を送ってくる。自分は薬を渡し、金銭を受け取る。
星見の塔の当直は、誰しも可能ならばやりたくない役目だ。だから、一緒に当番になっていた同僚には、「ここは自分一人でやるから」と、甘い囁きでもって、暖かい布団の中に押しやる。
そうやって一人になるのは簡単だった。こんなふうに規律が乱れていることが露見すれば、王立魔術研究院の権威も地に落ちるというものだろうが、それは自分の知ったことではない。
孤児だった自分がブラント家に引き取られたのは、魔術の才を見出されたからだ。ここで成績を残さなければ、自分は養い親から見放されてしまうだろう。
加えて、ブラント商会は近頃、資金繰り困っている。賢者の称号を手に入れ、研修資金を手に入れろと言われていた。
その男が接触してきたのは、重圧がのしかかった頃だった。
「ソムニフェルムを少しこちらに流してもらえれば、国が買い取っている値段の三倍、いや五倍の金額を出す」と、その男は言ってきた。
国の許可がなければ栽培も流通もできない、劇薬の原料だ。露見すれば重罪は免れない。それでも、ブラント商会の主は、その話に一も二もなく乗った。
そして、彼にソムニフェルムを精製して作った薬の素晴らしさを広める手伝いをするよう、持ちかけた。試しに使って見て、その効果を確かめろと。もちろん、薬を広めた分、報酬が入る。
初めは躊躇した。ソムニフェルムの効果は、彼も知識としては知っている。だが、頭が冴え渡り、力が増して何でもできるようになると言われて、弱った心は誘惑に勝てなかった。
事実、それを服用した瞬間、今まで感じたことのなかった恍惚感、万能感に包まれ、研究成果を上げることができた。
そして、同じように惑っている魔術師の卵を見つけると、「マナを増幅させる薬がある」という噂を流し、それを売りつけた。効果は上々だった。
しかし、薬の効果が切れた後、手足が震え、底が抜けるような不安と虚脱に襲われた。それに耐えられなくて、再び薬に手を出す。
これは手を出してはいけなかったものだ。戻れ。まだ間に合う。理性がそう訴えかける。
だが、抗えなかった。薬物がもたらす偽りの安寧の中で、自分は正常だと、間違ってなどいないと言い聞かせる。既に薬がないとやっていられない状態になっているのに、自分でそれに気付けないほどになっていた。それが、この薬の恐ろしいところなのだった。
あの夜も、自分と同じように薬を求める人間と、式を使って取り引きを終え、部屋の布団に帰るはずだった。ある程度長距離を飛べるが、弱い式だ。感知されて怪しまれることはないはず。
けれど、そこにウォルトがやってきた。
「お前……」
足音を忍ばせてやって来た彼に気付いたときは、遅かった。
ウォルトは瞳を揺らして、彼を見つめていた。何かの間違いであってほしかった。その目は、そう訴えているようだった。
奴はお節介な男だった。同じ街の出身の昔馴染みで、同時期に魔術研究院へ入った。一緒に切磋琢磨してきたはずが、いつの間にか彼は伸び悩み、周囲からおいてけぼりを食らっていた。
ウォルトはおそらく、彼の様子がおかしいことに気付いていた。昏い目をしてぼんやりと歩き、かと思えば神経が昂ったかのように振る舞う彼を心配して、何度も声をかけてきた。
しかし、彼はそれを拒絶した。
そして、ウォルトは彼が度々、星見の塔で何かしていることを勘づいて、ここに踏み込んできたのだった。
「それをこちらに渡せ」
ウォルトは静かに手を伸ばしてくる。見る者が見れば、彼が何かの薬物を使用していることは一目瞭然だっただろう。それを隠し通せることなど不可能であることがわからないくらい、彼は判断能力を失っていた。
彼はウォルトの手をはねつけ、その脇を走り抜けようとした。だが、ウォルトに腕を掴まれて、勢い余って一緒に床に倒れ込んだ。
ウォルトは彼の手の中にあるそれを奪い取ろうとする。
「こんなものに頼ってはだめだ!」
二人は揉み合う。ウォルトが彼の手にあった包みを奪った。
「返せ!」
彼は死に物狂いでウォルトに掴みかかる。それは自分と家を救ってくれるものだ。それがないと俺は。
二人とも武術の心得などないが、力ではわずかに彼の方が優勢だった。ウォルトは襟を掴まれ、壁際に追い詰められながらも、必死に彼の手からそれを遠ざけようとする。
揉み合ううちに、ウォルトの身体が窓枠の外に大きく傾いだ。ウォルトはそれでも、薬の包みを取られまいと、腕を彼から遠ざける。彼もそれを奪い返そうと、ウォルトの上体を押さえ付け、目を血走らせて手を伸ばす。
そして。
二人の力の均衡が崩れたその瞬間、ウォルトの身体は星見の塔から外に投げ出されていた。薬の粉末が、夜風にさらわれていく。
目を見開き、恐怖とも驚愕ともつかない表情を張り付けて、彼の身体は暗闇の中に落下していった。こういうとき、人は悲鳴を上げるものだと思っていたが、静かなものだった。
永遠のような一瞬の後、ぐしゃりと鈍い音がした。
我に返って、彼はしばらく呆然と下を見つめていた。長い時間そうしていたようにも思えるが、ほんの少しの間だったかもしれない。
ともあれ、音を聞きつけた衛兵が駆けつけてくる気配はなかった。
だから、彼は震える足で塔を駆け下りた。地面に叩き付けられたウォルトの身体は、無残に頭が割れ、虚空を見つめたまま、微動だにしなかった。
このままではまずい。恐慌状態に陥ろうとする思考の片隅で、彼は遺体を引きずり、息を切られて、図書館棟の裏手まで運んだ。
魔術で図書館の窓を開けようとしたが、彼の力では二階の窓を開けるのがせいぜいだった。そこから急いで駆け戻り、血に濡れた土を掘り返して均す。見え透いた工作だが、これが精いっぱいだった。
目撃者はいない。なんとかなる。殺そうとしたわけじゃない。そう何度も自分に言い聞かせた。
しかし、グレイス家に現れた客人。彼らは絶対に薬草師見習いや、猪獲りの猟師などではないと、彼の勘は告げていた。
このままではまずい。しかし、どうすることもできない。
突然休暇を取って帰ってきて部屋に籠る息子に、父親は何も聞かない。
震える手で、彼は油紙の包みを開き、中身を一気に口に入れる。
不安が消え、何でもできるような全能感に包まれる。
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