魔法使いの恋歌 〜波空国交響譚〜

星乃水晴(すばる)

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第三番

第26話 湖畔の喫茶店 1

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 じゅん静湖しずみは雨の丘をくだり、湖畔のがいの店に至った。はじめて訪れる者は仰天して硝子瓶のような店を眺めるものだが、静湖は准に手を引かれるままうつむいていた。

 店内ではせんが菓子づくりを続け、鎧が頬づえをついていた。が、入り口の扉の銀鈴が鳴り、准が見知らぬ子を連れてきたとわかると、鎧はがたんと椅子を引いて立ち、二人に駆けよった。

「准、このお嬢さんは」
「しずだよ」

 扉のそばの土産物や人形が並べられた棚の脇で、静湖は青い髪先やあごから雫をしたたらせ、動かない。鎧が、静湖のはかなげな様子に圧倒されたかのようにおろおろと声をかける。

「お嬢さん、いや、しずちゃん。どこから来た? ひどいなりじゃねぇか、ずっと雨の中を?」

 静湖はうつむいたまま目を瞬くばかりだ。

「言葉がわからねぇのか?」
「そういうわけじゃないみたいだけど」

 准は思いめぐらす。なにも憶えていない、と言っていたのは、どうしてあの木のもとにいたのかがわからないのか? それとも、今までのすべての記憶がない? どちらにせよ、静湖が戸惑うのは当然だ、と准は気遣った。

「しず、とりあえず着替えよう。服を貸してあげる」
「そうだそうだ、温まってこい」

 鎧は二人に店の奥へ続く戸を示す。
 その先は硝子の建物ではなく、斜めにそそりたつ船の船倉部へ続いていた。

「行こう、しず」

 静湖は小さくうなずく。准は再びその手を引いて店の奥へ向かった。

 扇という少女は目の前のやりとりに関心を寄せることもなく、菓子の生地を並べている。鎧は、准と静湖を見送りながら声をかけた。

「なぁ扇。あの時もこんな感じだったよなぁ」

 扇はかすかに顔をあげる。鎧はひとり語り続けた。

「いきなりあの魔術師がさ。雨の中、ひどい有様で」
「……記憶しています」

 鎧ははぁと息をつき、硝子の向こうの丘をあおいだ。

「あの丘では不思議なことがあるもんだ。この雨、普通の客が来るわきゃないと思ってたよ」

 静かに続く雨のもと、運命が動く音を、誰もが聴いていた。



 静湖は夢の中を歩くかの心地で、ぼんやりと准に手を引かれていた。案内された道も店も、まったくなじみない異国のようだ。だが異国とは? 自分はどこから来てどこへ帰るべきなのだ? それを考えると頭がずきずきと痛んだ。

 准は狭い階段をくだっていき、斜めに立てつけられた擦り硝子の戸を開いた。わっと温かな蒸気があふれる。静湖ははじめて五感が働いたかのように、冷えきった体に湯気をこころよく感じた。

「あったかい……!」
「鎧さんがお湯をわかしてくれていたみたい」

 扉の向こうもまた、斜めになった部屋だった。そこは蒸気が満ちた浴室で、浴槽の周りには歯車や配線が並び、機関室に湯を張ったかのようだ。なにもかもが見たことない造りで、静湖は目を見開く。

「しず、お風呂、入れる?」

 湯の温度を確かめていた准に問われ、静湖はうなずく。見知らぬ浴室には緊張したが、今すぐに湯につかることを全身が欲していた。

「じゃあ僕は外で着替えているから」
「一緒に入らないの……?」

 とっさに准のぬれた服をつかんだのは、彼も冷えて寒そうだ、と思ったからだ。

「え、一緒に?」

 准は目を白黒させる。浴槽は二人で入るのに不足ない広さで、湯気は十分に満ち、互いの姿を隠してくれるだろう、と静湖は思った。

「し、しずは、女の子だよね……?」

 と言いながら、准はくしゅんとくしゃみをした。静湖は服をさらに引っ張る。

「准、入らないと。僕は女の子じゃないし」
「え、そうだったの」

 そのやりとりで、ずきんと胸が痛んだ。なぜだろうと思いながら、静湖は准とともにぬれた服を脱いだ。あらわになる体。ああ、やっぱり僕は女の子じゃない……と考えが回りだす。浴室ではそうやってため息をつくくせがあった、と静湖は思い至る。だがどんな場所だった? 周りには誰がいた? 思いだせない。

 いろいろな思いを巡らせながらつかった湯は、冷えた体のすみずみにしみ渡った。静湖は再び、心の中の取りだせないものたちに焦点を当てようとする。頭が痛んだ。同時に、胸の奥もが。

「思いだせない……いろんなこと」
「しず、苦しい?」

 静湖はうなずいた。そして、忘却の淵から浮かびあがる名前を口にした。

「みかげ」

 その名が誰を指すのかもわからない。だが唱えれば、心にともしびがともるように感じる。

「みかげさん、大切な人なんだね」
「うん。みかげという人と、はぐれちゃったのかな」

 静湖は無難にそうまとめた。准が深くうなずく。

「そういうことなら心配しないで。しばらくうちにいてよ。情報はいろいろ集まる場所だからさ」

 うん、と静湖は口元を笑ませた。
 あふれそうな不安は、温かい湯の中に溶かされて流れ出ていったかのようだった。

 静湖が浴槽を出て体をふいていると、一足先にあがっていた准が、申し訳なさそうに衣類を差しだした。

「ごめん、しず……鎧さん、扇の服を出してくれてたみたいで。他のものを取ってくる」

 准が広げた服に、あっ、と静湖は歓声をあげる。

「それ、着たい」
「え? でも」

 静湖はフリルとレースに彩られた淡い青色の給仕服を受け取って、わぁ、と胸に抱き、幸せにひたった。

「しず、それが好きなの?」
「うん」

 そうだ、自分はこれが好きだ。心が嬉しく跳ねるのをどこかで不思議に思いながら、静湖は女もののその服にそでを通し、再び准にともなわれ店へ出ていった。

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