27 / 87
第三番
第26話 湖畔の喫茶店 1
しおりを挟む
准と静湖は雨の丘をくだり、湖畔の鎧の店に至った。はじめて訪れる者は仰天して硝子瓶のような店を眺めるものだが、静湖は准に手を引かれるままうつむいていた。
店内では扇が菓子づくりを続け、鎧が頬づえをついていた。が、入り口の扉の銀鈴が鳴り、准が見知らぬ子を連れてきたとわかると、鎧はがたんと椅子を引いて立ち、二人に駆けよった。
「准、このお嬢さんは」
「しずだよ」
扉のそばの土産物や人形が並べられた棚の脇で、静湖は青い髪先やあごから雫をしたたらせ、動かない。鎧が、静湖の儚げな様子に圧倒されたかのようにおろおろと声をかける。
「お嬢さん、いや、しずちゃん。どこから来た? ひどいなりじゃねぇか、ずっと雨の中を?」
静湖はうつむいたまま目を瞬くばかりだ。
「言葉がわからねぇのか?」
「そういうわけじゃないみたいだけど」
准は思いめぐらす。なにも憶えていない、と言っていたのは、どうしてあの木のもとにいたのかがわからないのか? それとも、今までのすべての記憶がない? どちらにせよ、静湖が戸惑うのは当然だ、と准は気遣った。
「しず、とりあえず着替えよう。服を貸してあげる」
「そうだそうだ、温まってこい」
鎧は二人に店の奥へ続く戸を示す。
その先は硝子の建物ではなく、斜めにそそりたつ船の船倉部へ続いていた。
「行こう、しず」
静湖は小さくうなずく。准は再びその手を引いて店の奥へ向かった。
扇という少女は目の前のやりとりに関心を寄せることもなく、菓子の生地を並べている。鎧は、准と静湖を見送りながら声をかけた。
「なぁ扇。あの時もこんな感じだったよなぁ」
扇はかすかに顔をあげる。鎧はひとり語り続けた。
「いきなりあの魔術師がさ。雨の中、ひどい有様で」
「……記憶しています」
鎧ははぁと息をつき、硝子の向こうの丘をあおいだ。
「あの丘では不思議なことがあるもんだ。この雨、普通の客が来るわきゃないと思ってたよ」
静かに続く雨のもと、運命が動く音を、誰もが聴いていた。
*
静湖は夢の中を歩くかの心地で、ぼんやりと准に手を引かれていた。案内された道も店も、まったくなじみない異国のようだ。だが異国とは? 自分はどこから来てどこへ帰るべきなのだ? それを考えると頭がずきずきと痛んだ。
准は狭い階段をくだっていき、斜めに立てつけられた擦り硝子の戸を開いた。わっと温かな蒸気があふれる。静湖ははじめて五感が働いたかのように、冷えきった体に湯気をこころよく感じた。
「あったかい……!」
「鎧さんがお湯をわかしてくれていたみたい」
扉の向こうもまた、斜めになった部屋だった。そこは蒸気が満ちた浴室で、浴槽の周りには歯車や配線が並び、機関室に湯を張ったかのようだ。なにもかもが見たことない造りで、静湖は目を見開く。
「しず、お風呂、入れる?」
湯の温度を確かめていた准に問われ、静湖はうなずく。見知らぬ浴室には緊張したが、今すぐに湯につかることを全身が欲していた。
「じゃあ僕は外で着替えているから」
「一緒に入らないの……?」
とっさに准のぬれた服をつかんだのは、彼も冷えて寒そうだ、と思ったからだ。
「え、一緒に?」
准は目を白黒させる。浴槽は二人で入るのに不足ない広さで、湯気は十分に満ち、互いの姿を隠してくれるだろう、と静湖は思った。
「し、しずは、女の子だよね……?」
と言いながら、准はくしゅんとくしゃみをした。静湖は服をさらに引っ張る。
「准、入らないと。僕は女の子じゃないし」
「え、そうだったの」
そのやりとりで、ずきんと胸が痛んだ。なぜだろうと思いながら、静湖は准とともにぬれた服を脱いだ。あらわになる体。ああ、やっぱり僕は女の子じゃない……と考えが回りだす。浴室ではそうやってため息をつくくせがあった、と静湖は思い至る。だがどんな場所だった? 周りには誰がいた? 思いだせない。
いろいろな思いを巡らせながらつかった湯は、冷えた体のすみずみにしみ渡った。静湖は再び、心の中の取りだせないものたちに焦点を当てようとする。頭が痛んだ。同時に、胸の奥もが。
「思いだせない……いろんなこと」
「しず、苦しい?」
静湖はうなずいた。そして、忘却の淵から浮かびあがる名前を口にした。
「みかげ」
その名が誰を指すのかもわからない。だが唱えれば、心に灯がともるように感じる。
「みかげさん、大切な人なんだね」
「うん。みかげという人と、はぐれちゃったのかな」
静湖は無難にそうまとめた。准が深くうなずく。
「そういうことなら心配しないで。しばらくうちにいてよ。情報はいろいろ集まる場所だからさ」
うん、と静湖は口元を笑ませた。
あふれそうな不安は、温かい湯の中に溶かされて流れ出ていったかのようだった。
静湖が浴槽を出て体をふいていると、一足先にあがっていた准が、申し訳なさそうに衣類を差しだした。
「ごめん、しず……鎧さん、扇の服を出してくれてたみたいで。他のものを取ってくる」
准が広げた服に、あっ、と静湖は歓声をあげる。
「それ、着たい」
「え? でも」
静湖はフリルとレースに彩られた淡い青色の給仕服を受け取って、わぁ、と胸に抱き、幸せにひたった。
「しず、それが好きなの?」
「うん」
そうだ、自分はこれが好きだ。心が嬉しく跳ねるのをどこかで不思議に思いながら、静湖は女もののその服に袖を通し、再び准にともなわれ店へ出ていった。
*
店内では扇が菓子づくりを続け、鎧が頬づえをついていた。が、入り口の扉の銀鈴が鳴り、准が見知らぬ子を連れてきたとわかると、鎧はがたんと椅子を引いて立ち、二人に駆けよった。
「准、このお嬢さんは」
「しずだよ」
扉のそばの土産物や人形が並べられた棚の脇で、静湖は青い髪先やあごから雫をしたたらせ、動かない。鎧が、静湖の儚げな様子に圧倒されたかのようにおろおろと声をかける。
「お嬢さん、いや、しずちゃん。どこから来た? ひどいなりじゃねぇか、ずっと雨の中を?」
静湖はうつむいたまま目を瞬くばかりだ。
「言葉がわからねぇのか?」
「そういうわけじゃないみたいだけど」
准は思いめぐらす。なにも憶えていない、と言っていたのは、どうしてあの木のもとにいたのかがわからないのか? それとも、今までのすべての記憶がない? どちらにせよ、静湖が戸惑うのは当然だ、と准は気遣った。
「しず、とりあえず着替えよう。服を貸してあげる」
「そうだそうだ、温まってこい」
鎧は二人に店の奥へ続く戸を示す。
その先は硝子の建物ではなく、斜めにそそりたつ船の船倉部へ続いていた。
「行こう、しず」
静湖は小さくうなずく。准は再びその手を引いて店の奥へ向かった。
扇という少女は目の前のやりとりに関心を寄せることもなく、菓子の生地を並べている。鎧は、准と静湖を見送りながら声をかけた。
「なぁ扇。あの時もこんな感じだったよなぁ」
扇はかすかに顔をあげる。鎧はひとり語り続けた。
「いきなりあの魔術師がさ。雨の中、ひどい有様で」
「……記憶しています」
鎧ははぁと息をつき、硝子の向こうの丘をあおいだ。
「あの丘では不思議なことがあるもんだ。この雨、普通の客が来るわきゃないと思ってたよ」
静かに続く雨のもと、運命が動く音を、誰もが聴いていた。
*
静湖は夢の中を歩くかの心地で、ぼんやりと准に手を引かれていた。案内された道も店も、まったくなじみない異国のようだ。だが異国とは? 自分はどこから来てどこへ帰るべきなのだ? それを考えると頭がずきずきと痛んだ。
准は狭い階段をくだっていき、斜めに立てつけられた擦り硝子の戸を開いた。わっと温かな蒸気があふれる。静湖ははじめて五感が働いたかのように、冷えきった体に湯気をこころよく感じた。
「あったかい……!」
「鎧さんがお湯をわかしてくれていたみたい」
扉の向こうもまた、斜めになった部屋だった。そこは蒸気が満ちた浴室で、浴槽の周りには歯車や配線が並び、機関室に湯を張ったかのようだ。なにもかもが見たことない造りで、静湖は目を見開く。
「しず、お風呂、入れる?」
湯の温度を確かめていた准に問われ、静湖はうなずく。見知らぬ浴室には緊張したが、今すぐに湯につかることを全身が欲していた。
「じゃあ僕は外で着替えているから」
「一緒に入らないの……?」
とっさに准のぬれた服をつかんだのは、彼も冷えて寒そうだ、と思ったからだ。
「え、一緒に?」
准は目を白黒させる。浴槽は二人で入るのに不足ない広さで、湯気は十分に満ち、互いの姿を隠してくれるだろう、と静湖は思った。
「し、しずは、女の子だよね……?」
と言いながら、准はくしゅんとくしゃみをした。静湖は服をさらに引っ張る。
「准、入らないと。僕は女の子じゃないし」
「え、そうだったの」
そのやりとりで、ずきんと胸が痛んだ。なぜだろうと思いながら、静湖は准とともにぬれた服を脱いだ。あらわになる体。ああ、やっぱり僕は女の子じゃない……と考えが回りだす。浴室ではそうやってため息をつくくせがあった、と静湖は思い至る。だがどんな場所だった? 周りには誰がいた? 思いだせない。
いろいろな思いを巡らせながらつかった湯は、冷えた体のすみずみにしみ渡った。静湖は再び、心の中の取りだせないものたちに焦点を当てようとする。頭が痛んだ。同時に、胸の奥もが。
「思いだせない……いろんなこと」
「しず、苦しい?」
静湖はうなずいた。そして、忘却の淵から浮かびあがる名前を口にした。
「みかげ」
その名が誰を指すのかもわからない。だが唱えれば、心に灯がともるように感じる。
「みかげさん、大切な人なんだね」
「うん。みかげという人と、はぐれちゃったのかな」
静湖は無難にそうまとめた。准が深くうなずく。
「そういうことなら心配しないで。しばらくうちにいてよ。情報はいろいろ集まる場所だからさ」
うん、と静湖は口元を笑ませた。
あふれそうな不安は、温かい湯の中に溶かされて流れ出ていったかのようだった。
静湖が浴槽を出て体をふいていると、一足先にあがっていた准が、申し訳なさそうに衣類を差しだした。
「ごめん、しず……鎧さん、扇の服を出してくれてたみたいで。他のものを取ってくる」
准が広げた服に、あっ、と静湖は歓声をあげる。
「それ、着たい」
「え? でも」
静湖はフリルとレースに彩られた淡い青色の給仕服を受け取って、わぁ、と胸に抱き、幸せにひたった。
「しず、それが好きなの?」
「うん」
そうだ、自分はこれが好きだ。心が嬉しく跳ねるのをどこかで不思議に思いながら、静湖は女もののその服に袖を通し、再び准にともなわれ店へ出ていった。
*
0
あなたにおすすめの小説
冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎
王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。
……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。
追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。
無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」
騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!
捨てられた王妃は情熱王子に攫われて
きぬがやあきら
恋愛
厳しい外交、敵対勢力の鎮圧――あなたと共に歩む未来の為に手を取り頑張って来て、やっと王位継承をしたと思ったら、祝賀の夜に他の女の元へ通うフィリップを目撃するエミリア。
貴方と共に国の繁栄を願って来たのに。即位が叶ったらポイなのですか?
猛烈な抗議と共に実家へ帰ると啖呵を切った直後、エミリアは隣国ヴァルデリアの王子に攫われてしまう。ヴァルデリア王子の、エドワードは影のある容姿に似合わず、強い情熱を秘めていた。私を愛しているって、本当ですか? でも、もうわたくしは誰の愛も信じたくないのです。
疑心暗鬼のエミリアに、エドワードは誠心誠意向に向き合い、愛を得ようと少しずつ寄り添う。一方でエミリアの失踪により国政が立ち行かなくなるヴォルティア王国。フィリップは自分の功績がエミリアの内助であると思い知り――
ざまあ系の物語です。
私の存在
戒月冷音
恋愛
私は、一生懸命生きてきた。
何故か相手にされない親は、放置し姉に顎で使われてきた。
しかし15の時、小学生の事故現場に遭遇した結果、私の生が終わった。
しかし、別の世界で目覚め、前世の知識を元に私は生まれ変わる…
拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました
星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝――
路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、
気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
さようならの定型文~身勝手なあなたへ
宵森みなと
恋愛
「好きな女がいる。君とは“白い結婚”を——」
――それは、夢にまで見た結婚式の初夜。
額に誓いのキスを受けた“その夜”、彼はそう言った。
涙すら出なかった。
なぜなら私は、その直前に“前世の記憶”を思い出したから。
……よりによって、元・男の人生を。
夫には白い結婚宣言、恋も砕け、初夜で絶望と救済で、目覚めたのは皮肉にも、“現実”と“前世”の自分だった。
「さようなら」
だって、もう誰かに振り回されるなんて嫌。
慰謝料もらって悠々自適なシングルライフ。
別居、自立して、左団扇の人生送ってみせますわ。
だけど元・夫も、従兄も、世間も――私を放ってはくれないみたい?
「……何それ、私の人生、まだ波乱あるの?」
はい、あります。盛りだくさんで。
元・男、今・女。
“白い結婚からの離縁”から始まる、人生劇場ここに開幕。
-----『白い結婚の行方』シリーズ -----
『白い結婚の行方』の物語が始まる、前のお話です。
【完結】悪役令嬢の身代わりで処刑されかけた侍女、悪人面強面騎士にさらわれる。
雨宮羽那
恋愛
侍女リーリエは、処刑される予定の主・エリーゼと容姿がそっくりだったせいで、身代わりとして処刑台へ立たされていた。
(私はエリーゼ様じゃないわ!)と心の中で叫んだ瞬間、前世の記憶がよみがえり、ここが読みかけだった悪役令嬢ものの小説の世界だと気づく。
しかも小説ではエリーゼが処刑されるはずなのに、リーリエが処刑されかけているという最悪の展開。
絶体絶命の瞬間、リーリエの前に現れたのは強面で悪人面の騎士ガウェイン。
彼はなぜかリーリエを抱えあげ連れ去ってしまい――?
◇◇◇◇
※全5話
※AI不使用です。
※「小説家になろう」「エブリスタ」様にも掲載しております。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる