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第9話『黒き薔薇の誘惑』
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「ご婚約、おめでとうございますわ。マリアンヌ様」
カトリーヌは、笑みを崩さず言った。
社交界での春の祝宴。ベルヴァール家から公式に発表された「婚約」の知らせを受け、今やマリアンヌは再び社交の中心に戻っていた。
その姿は凛とした気品をたたえ、髪には淡い藤の花飾り、ラベンダー色のドレスは静かな光沢を帯びていた。
「ご丁寧にありがとう。あなたのほうも、順調に“楽しく”お過ごしのようで」
マリアンヌは扇子で口元を隠しながら、さらりと返す。
その視線は笑っていない。カトリーヌも、それを分かっていた。
「ええ。ジュリアン様とは、穏やかで幸福な日々を過ごしておりますわ。……けれど、時折、彼の目が遠くを見ているように感じるのですの」
「そう。視線は自由ですもの」
「でも、心までは、自由ではないでしょう?」
マリアンヌはふと、目を細めた。
「だから何かが不自由な人ほど、他人の“幸福”に口を出したがるのね」
その言葉に、カトリーヌはわずかに表情を崩した。だがすぐに、再び“儚げな笑み”を取り戻す。
「ご忠告、感謝いたしますわ。ですが、どうかお気をつけあそばせ――」
「……?」
「公爵様のような孤高の方には、時として深い“影”がございますの。誰かを愛することに慣れていない方が、“傷”の上から愛を重ねると、いつか裂けてしまうことも」
「それが……“あなたの失敗談”かしら?」
マリアンヌの声は穏やかだったが、その言葉は鋭く的を射ていた。
カトリーヌの唇が、かすかに震えた。
その瞬間――
「カトリーヌ」
やわらかく、けれど冷たい声が割り込んだ。
黒の燕尾服に身を包んだレオンが、静かに二人の間へ歩み寄る。
「おや、ベルヴァール公爵様。失礼を……」
「私は、君に対して“失礼”など求めていない」
レオンの目は笑っていない。だが怒りでもない。ただ、冷たく澄んでいた。
「だが、私の“婚約者”に対しては、礼をもって接してもらいたい」
カトリーヌの背筋がわずかに硬直する。
「もちろんですわ。私はただ……ご挨拶を」
「それなら、もう十分だ。これ以上の“忠告”は不要だ」
レオンの言葉は、決して大きくはなかった。だが、まわりの人々の空気ははっきりと変わった。
マリアンヌはその横顔を見つめながら、そっと息を吐く。
「ありがとう、レオン」
「……私は君の盾だ。君が望む限り、どんな矢も払う」
その夜。マリアンヌの部屋。
ドレッサーの前で髪をほどいたマリアンヌは、鏡越しにレオンの言葉を思い出していた。
“私は君の盾だ”
それは、誰かに守られたいと願ったわけではない彼女にとって、初めて“心地よい”と感じた言葉だった。
アデルが静かに紅茶を運んできた。
「今日のカトリーヌ嬢、少し……焦っていたように見えました」
「ええ。自分の手からこぼれた“宝石”は、もう戻らないと気づいたのでしょうね」
「でも――」
「でも?」
「その“宝石”が、最初から自分のものではなかったと気づくのは、もっとあとですわ」
マリアンヌはふっと笑った。
「あなた、最近ずいぶんと皮肉が上手になったわね」
「お姉様の影響です」
数日後。
ギュスターヴが王都の騎士団詰所から戻ると、マリアンヌに一通の手紙を渡した。
「……ジュリアンからだ」
「ジュリアン?」
封筒には、彼らしい丁寧な筆跡。マリアンヌは一瞥しただけで封を切る。
中にあったのは短い文だった。
――僕はまだ、君のことを“過去”にできていない。
――もし一度だけ、会ってくれるなら、広場の噴水の前で待っている。
マリアンヌはため息をついた。
「未練があるのは、あちらの方みたいね」
「行くのか?」
「……行かないわ」
「なぜ?」
「もう“過去の自分”に興味はないの。私は今、“私の意志”で未来を選んでいるもの」
ギュスターヴは何も言わず、妹の髪をひと筋、そっと撫でた。
そしてマリアンヌは気づく。
――黒き薔薇は美しい。だが、その香りに酔う者は皆、棘に泣く。
それを知った上で、彼女は“白き誇り”を選んだのだ。
カトリーヌは、笑みを崩さず言った。
社交界での春の祝宴。ベルヴァール家から公式に発表された「婚約」の知らせを受け、今やマリアンヌは再び社交の中心に戻っていた。
その姿は凛とした気品をたたえ、髪には淡い藤の花飾り、ラベンダー色のドレスは静かな光沢を帯びていた。
「ご丁寧にありがとう。あなたのほうも、順調に“楽しく”お過ごしのようで」
マリアンヌは扇子で口元を隠しながら、さらりと返す。
その視線は笑っていない。カトリーヌも、それを分かっていた。
「ええ。ジュリアン様とは、穏やかで幸福な日々を過ごしておりますわ。……けれど、時折、彼の目が遠くを見ているように感じるのですの」
「そう。視線は自由ですもの」
「でも、心までは、自由ではないでしょう?」
マリアンヌはふと、目を細めた。
「だから何かが不自由な人ほど、他人の“幸福”に口を出したがるのね」
その言葉に、カトリーヌはわずかに表情を崩した。だがすぐに、再び“儚げな笑み”を取り戻す。
「ご忠告、感謝いたしますわ。ですが、どうかお気をつけあそばせ――」
「……?」
「公爵様のような孤高の方には、時として深い“影”がございますの。誰かを愛することに慣れていない方が、“傷”の上から愛を重ねると、いつか裂けてしまうことも」
「それが……“あなたの失敗談”かしら?」
マリアンヌの声は穏やかだったが、その言葉は鋭く的を射ていた。
カトリーヌの唇が、かすかに震えた。
その瞬間――
「カトリーヌ」
やわらかく、けれど冷たい声が割り込んだ。
黒の燕尾服に身を包んだレオンが、静かに二人の間へ歩み寄る。
「おや、ベルヴァール公爵様。失礼を……」
「私は、君に対して“失礼”など求めていない」
レオンの目は笑っていない。だが怒りでもない。ただ、冷たく澄んでいた。
「だが、私の“婚約者”に対しては、礼をもって接してもらいたい」
カトリーヌの背筋がわずかに硬直する。
「もちろんですわ。私はただ……ご挨拶を」
「それなら、もう十分だ。これ以上の“忠告”は不要だ」
レオンの言葉は、決して大きくはなかった。だが、まわりの人々の空気ははっきりと変わった。
マリアンヌはその横顔を見つめながら、そっと息を吐く。
「ありがとう、レオン」
「……私は君の盾だ。君が望む限り、どんな矢も払う」
その夜。マリアンヌの部屋。
ドレッサーの前で髪をほどいたマリアンヌは、鏡越しにレオンの言葉を思い出していた。
“私は君の盾だ”
それは、誰かに守られたいと願ったわけではない彼女にとって、初めて“心地よい”と感じた言葉だった。
アデルが静かに紅茶を運んできた。
「今日のカトリーヌ嬢、少し……焦っていたように見えました」
「ええ。自分の手からこぼれた“宝石”は、もう戻らないと気づいたのでしょうね」
「でも――」
「でも?」
「その“宝石”が、最初から自分のものではなかったと気づくのは、もっとあとですわ」
マリアンヌはふっと笑った。
「あなた、最近ずいぶんと皮肉が上手になったわね」
「お姉様の影響です」
数日後。
ギュスターヴが王都の騎士団詰所から戻ると、マリアンヌに一通の手紙を渡した。
「……ジュリアンからだ」
「ジュリアン?」
封筒には、彼らしい丁寧な筆跡。マリアンヌは一瞥しただけで封を切る。
中にあったのは短い文だった。
――僕はまだ、君のことを“過去”にできていない。
――もし一度だけ、会ってくれるなら、広場の噴水の前で待っている。
マリアンヌはため息をついた。
「未練があるのは、あちらの方みたいね」
「行くのか?」
「……行かないわ」
「なぜ?」
「もう“過去の自分”に興味はないの。私は今、“私の意志”で未来を選んでいるもの」
ギュスターヴは何も言わず、妹の髪をひと筋、そっと撫でた。
そしてマリアンヌは気づく。
――黒き薔薇は美しい。だが、その香りに酔う者は皆、棘に泣く。
それを知った上で、彼女は“白き誇り”を選んだのだ。
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