『捨てられ令嬢は、孤高の公爵に娶られる』

ヤオサカ

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第8話『誓いの兆し』

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「本当に、婚約を発表なさるのですか?」

 ノアール邸の応接間。
 母・レティシアは紅茶をゆるやかに口に運びながら、そう尋ねた。

「ええ。ベルヴァール公爵から正式に申し出がありましたの」

 マリアンヌは、ひとつも取り繕うことなく応じる。
 母の表情には驚きと、どこかほっとしたような安堵の混ざった揺らぎがあった。

「あなたが“誰かに選ばれる日”を、夢見ていたのかもしれませんわ。いつも冷静で、距離を保っていたあなたが、ついに“隣に立とうとする人”を見つけたのですもの」

「母様……」

「けれど、同時に少しだけ心配でもあるの。あの方は、あまりにも孤独だった人に見えるわ」

 マリアンヌは一瞬だけ目を伏せた。

 たしかに、レオン・ド・ベルヴァールという人間は、完璧な振る舞いの奥に、沈黙の壁を築いている。
 その壁を壊す鍵は、彼自身の手にはない。たぶん――彼を選ぶ誰かの手にしか。
 

 社交界では早くも噂が駆け巡っていた。

「ベルヴァール公爵がノアール令嬢と正式に婚約……!」

「まさか、あの誇り高い“氷の令嬢”が、公爵の心を動かすなんて」

「でも、公爵家には昔から“呪い”があるって噂もあるじゃない。父親は病に倒れ、母も――」

「誰も近づけなかったのに、ノアール令嬢だけは違ったのね……」

 称賛と憧れ、嫉妬と猜疑――それらが入り混じった視線の中、マリアンヌは姿勢を崩さず、ただ一歩ずつ歩いていた。

 その傍らに、レオンが立つ。

 王宮から出たあと、二人は庭園を静かに歩いていた。
 春の気配が混じる風が、銀の髪と黒の外套をそれぞれに揺らしていた。

「あなた、今でも注目されるのは苦手なのでは?」

「好きではない。ただ……君と並んでいるときだけは、悪くないと思える」

「お上手ですこと」

「事実だ」

 そう言って歩みを止めたレオンは、庭の石畳の先、噴水の縁に視線を落とした。

「この婚約を、君は“自分の意志”だと言ってくれるか?」

「ええ、そう言えるわ。あなたが“私の意志”に問いを向けてくれたのだから」

 マリアンヌは振り向かず、風の中で言葉を落とす。

「私、あなたのことをまだすべては知らない。でも、あなたが私を尊重してくれる限り、私はあなたの“隣にいる理由”になれる」

「……感謝する」

「いいえ、感謝など無用ですわ。誇りを保つことに理由はいりませんもの」

 それでも、レオンはその言葉に小さく目を伏せた。
 

 その夜。ベルヴァール邸の一室。

 レオンは一人、書斎の椅子に腰かけていた。机の上には、古びた手紙の束。

 亡き父――エドゥアール・ド・ベルヴァールの筆跡が並ぶ。

 ――貴族の誇りは、愛によって崩れるのではない。
 ――誇りを知らぬ者が、愛を手にしようとするから崩れるのだ。

「……父上」

 彼は静かに目を閉じた。

 父は誇り高き人だった。厳格で、愛を言葉にしないまま逝った人。
 その背中を見て育った自分に、果たして“誰かを愛する”ということができるのか。

 マリアンヌの言葉が蘇る。

 ――“私の意志”に問いを向けてくれた。

 彼女は誇り高く、そして繊細だった。

 彼の壁を壊せるとしたら――彼女だけだろう。
 

 翌朝。

 ノアール邸に一通の招待状が届いた。

 宛名は、ベルヴァール公爵家より。
 差出人はレオン本人。
 文面は簡潔だった。

「婚約発表にあたり、ノアール侯爵家ご令嬢へ敬意と誓約の場を設けたく存じます」

 アデルが手紙を読み上げたあと、マリアンヌは微笑んだ。

「ようやく“形式”が“意志”になるのね」

 扇子を軽く鳴らし、立ち上がる。

「では私も、準備を始めましょう。“私の未来”に相応しい姿で、ね」

 彼女の瞳には、もはや迷いはなかった。
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