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第35話
しおりを挟む黒い霧は、音より先に来た。
甘い。鉄みたいに甘い匂いが、肺の奥に貼りつく。
首輪が「ちり…」と鳴って、私の脈を数え直す。興奮するな。息を浅く、平らに。
空の巨大モニターには、まだ二択が貼り付いている。
【投票】A:自白(関与者の名前必須)/B:沈黙(有罪確定)
画面の端で、【事故記録:ルージュ家/改竄耐性:高/再生:可能】が光っている。
再生を押せば、次は誰の名前を言うかで地獄になる。
押さなければ、私が有罪で確定する。
そして投票が確定した瞬間、地下の扉が開く。
リオンが消される。
――逃げ場のないジレンマ。作ったのは、私じゃない。
霧が処刑台の階段を這い上がり、足首に絡んだ。冷たいのに、皮膚が焼けるみたいに痺れる。
コメント欄がざわつく。多言語の字幕が勝手に整列する。
【なにこれ】
【黒霧? 魔教団?】
【王妃の演出じゃない…?】
違う。これは“演出”じゃない。
精霊が逃げる時の、あの嫌な空白がある。空気が、精霊力を拒んでる。
王妃エレーナの圧みたいに「膝を折れ」と命令してこない。
もっと直接的だ。
「息を吸うな」と、肺そのものに命令してくる。
私は声が出ない。
だから、禁忌の精霊石に“意図”を落とす。
(来た。魔教団。狙いは私の口封じ)
テロップが空に走った瞬間、霧の向こうで誰かが笑った。
「口封じ? 違うな」
声が、霧の内側から聞こえる。直接耳に刺さる。術式で強制的に届けてる。
首輪が「ちり……!」と強く鳴った。
心拍が跳ねる。危ない。
私は息だけで、自分を殴るみたいに落ち着かせた。
霧が割れる。
黒い外套の集団。胸に、教団の紋。白でも金でもない、煤けた灰色の紋が脈打っている。
先頭の男は、顔を隠さない。
笑っているのに、目だけが無機質だ。
「禁忌に触れた者を狩るのは、我ら魔教団」
国王の建前と同じ文句を、平然と口にする。
でも、こいつらは“建前”のために動かない。
目的はもっと単純。
「お前は今、王家の嘘を“多数派”に変えかけている」
男が指を鳴らすと、霧が刃になった。細い線。喉に向けて一直線。
処刑台の見えない防壁が、いつもなら弾くはずの角度。
なのに霧の刃は、防壁の表面を“溶かして”進む。
精霊力を、腐らせてる。
コメントが一気に荒れる。
【防壁が削れてる!?】
【いいね押せ! 押せ!】
【魔教団って何者だよ】
いいねが増える。精霊力が背中に流れ込む。
でも、霧はそれを食う。
食って、黒くする。
男がゆっくり階段を上がってくる。まるで公開処刑の司祭だ。
「王家が悪魔と契約している? そんなものは昔からだ」
「契約の痕跡が映る? なら消す」
「事故記録がある? なら壊す」
彼は私ではなく、空のモニターを見上げた。
「“見ている者”が多いほど、消す価値がある」
ぞっとした。
こいつらは王家の味方じゃない。
王家の“後始末”係だ。
だから王妃が、魔女狩りを使える。
だから国王が、配信を嫌悪する。
男が手を伸ばす。霧が私の首輪に触れようとする。
首輪が反応したら、私は死ぬ。
触れられたら終わり。
私は息だけで、テロップを落とす。
(触るな。首輪は“発動の引き金”だ。お前が触れば私が死ぬ。だから触る気だろ)
男は笑った。
「賢いな、スカーレット・ルージュ」
「お前は死ぬ。だが“処刑”ではない」
「投票でもない」
「暗殺だ」
瞬間、霧が広がり、処刑台の上から下まで覆い尽くした。
視界が真っ黒になる。
なのに、空のモニターだけが見える。
投票のバーが、勝手に伸び始めた。
【A:自白】が増える。
誰かが誘導してる。
魔教団? 王妃? それとも“多数派”そのものが、結論を欲しがってる?
男の声が、至近距離で囁いた。
「お前が名前を言えば、国が割れる」
「言わなければ、有罪が確定する」
「どちらでも、地下の扉は開く」
霧の中で、何かが鳴った。
重い、金属の閂が外れる音。
――早い。投票確定には、まだ間があるはずなのに。
私は息を止めかけて、首輪が「ちり…!」と警告した。
焦るな。焦ったら死ぬ。
でも、今の音は。
地下の扉が、先に開いた。
画面が自動分割される。
【王城地下/旧拘禁区画/ライブ】
映ったのは、縄で縛られたリオン。
その背後で、黒い霧が立ち上がっていた。
そして、見慣れない教団の紋をつけた手が、リオンの口元の布を――ゆっくり外した。
「ほら」
霧の男が、私の耳元で笑う。
「お前の弟に、声を返してやる」
リオンが息を吸う。叫ぶ。
その瞬間、私の首輪が、心拍に合わせて最悪の音で鳴り始めた。
「ちり、ちり、ちり……」
笑うな。泣くな。叫ぶな。
でも弟の声が、私の感情を引き裂く。
空に、投票の締切表示が点滅した。
【確定まで:3】
霧の刃が、喉のすぐ手前まで来ている。
私は息だけで、最後のテロップを落とした。
(待って。リオン、今――“名前”を叫ぶな)
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