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第59話
しおりを挟むエレーナの身体が、きしんだ。
白かった紋は、もう灰じゃない。煤みたいに黒く濁って、黒い糸が皮膚の下で暴れてる。
浄化の光を装って、吸って、吸って、吸い尽くした器。
でも今は逆だ。
支持率80%の多数派が作った“拒否”が、逆流の刃になって、彼女の中の導管を壊していく。
私は床に触れないまま浮いて、距離を取った。
怖い、と思っただけで首輪が「ちり…」と鳴る。
泣いたら死ぬ。怒っても死ぬ。笑ったら、終わり。
だから、息だけで言う。
【テロップ:王妃エレーナ(個体E-7) 吸収停止→逆流発生】
空の巨大モニターに、全国の字幕が整列していく。
コメントが落ちてくる。怒りも、理解も、冷たい計算も。
そして、もう一つの声。
耳じゃない。骨の内側に直接響く、あの圧。
――教皇だ。
「器が壊れたか」
優しい言葉を選ぶ声。なのに、内容は部品点検みたいに乾いている。
「回収の必要はない。廃棄だ」
同時に、配信の画が一瞬だけ“礼拝堂”の色に塗り替わった。
白い壁。祈る群衆。救済の歌。
でも、二要素認証が走る。
【確認:精霊契約 二要素認証】
精霊がYESと言った映像だけが残る。
礼拝堂の幻は、滲んで剥がれた。
配管。番号札。黒い糸束。
工場の現実が、また露出する。
教皇の声が、苛立ちを一滴だけ混ぜた。
「……不都合な真実だな」
その瞬間、エレーナが私を見た。
目の焦点が、初めて“演技”じゃなくなる。
彼女は王妃の顔のまま、壊れた器の声で、私に縋った。
「……たす、けて」
喉が震える。
声を出したくなる。
首輪が、舌裏を刃で撫でた気がして、私は息を止めかけた。
だめ。止めたら心拍が乱れる。死ぬ。
私は、ただ呼吸を薄くする。
エレーナは膝をつこうとして、膝が折れない。
“跪け”の圧を撒いてきた本人が、今は多数派の拒否に押さえつけられている。
皮膚の下の黒い糸が、ちぎれた。
人工の血が、赤じゃなく濁った液体として漏れる。
「わたしは……命令されたの……」
「吸えって……跪かせろって……」
彼女の視線が、空を探す。
教皇に、助けを求める目。
でも、教皇の声はもう遠い。
「E-7、機能停止。次を回せ」
切り捨て。
王妃だったものは、ただの欠陥品に戻った。
エレーナの瞳が、今度は私に戻る。
「スカーレット……お願い……」
「わたし、怖い……」
怖い、という言葉が、私の首輪を鳴らした。
「ちり…」
私の恐怖じゃない。
“怖い”という概念に反応して、首輪が思い出させる。喉の内側の刃を。
私は、息だけで笑うふりをした。笑ったら死ぬから、笑わない。
ただ、冷たく“形”だけ作る。
【テロップ:救いを求めるの?】
エレーナが小さく頷く。
「わたしは……人間じゃないけど……」
「でも、痛いの……」
「捨てられるの、いや……」
私は、彼女の中に見えた。
信仰を吸う器として作られ、王妃の顔を被せられ、役目が終わったら廃棄される。
確かに地獄だ。
でも。
私は、地下の扉を思い出す。
投票確定で開く扉。触れた瞬間に走る処理。対象:リオン。
“器”の運用のために、子どもが材料にされる工場。
私の両親は事故に見せかけて落とされ、弟は別動で確保された。
この仕組みの上で。
彼女は王妃の顔で、民を跪かせた。
私を処刑台に載せた。
私は息で、言葉を落とす。
【テロップ:自己責任】
エレーナが固まった。
「……え」
【テロップ:あなたは“命令された”で済む側の人間じゃない】
【テロップ:痛い? 捨てられるのが嫌?】
【テロップ:じゃあ、最初から吸わなきゃよかった】
エレーナの唇が震える。
「だって……逆らえなかった……!」
その叫びは、配信に乗らない。
でも心音は乗る。
そして、彼女の心音字幕が、遅れて空に走った。
【……怖い。消されたくない。助けて。】
【……でも、あの子たちは、どうでもよかった。】
【……私は生きたかった。】
多数派が、一瞬で冷える。
同情しかけた空気が、また拒否に変わる。
拒否は壁になる。
壁は、彼女の逃げ場を奪う。
エレーナが私に手を伸ばす。
触れないで。
近づかないで。
首輪が鳴る。私は、後退する代わりに上へ浮く。
【機能:浮遊(多数派権限) 維持】
私は距離を保ったまま、最後のテロップを落とした。
【テロップ:救いは“多数派”が作る】
【テロップ:あなたの多数派は、もういない】
エレーナの胸の奥で、核が脈打つ。
魔教団式の契約印が、赤黒く光った。
教皇の声が、最後にだけ近づいた。
「廃棄」
次の瞬間。
エレーナの身体の黒い糸が、内側から一斉に引き裂けた。
音がしない破裂。
祈りを吸うための導管が、逆流で焼き切れていく。
彼女は倒れない。倒れる前に、装置みたいに分解されていく。
それでも目だけは、最後まで私を見ていた。
助けて、と。
私は、息を整える。心拍を平らにする。
そして、冷たく確認する。
エレーナが壊れた。
でも投票は止まらない。
地下の扉は、触れれば処理が走る。
リオンは、まだ“対象”のままだ。
空に、新しい警告が点いた。
【警告:投票確定まで 残り00:01】
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