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第86話
しおりを挟む白い礼拝堂の映像が、また一枚はがれた。
その下にあるのは、配管の海と、鉄の匂いと、粘つく黒い糸。
そして――王妃エレーナ(個体E-7)の身体だけが、妙に静かに揺れていた。
彼女の「跪け」の圧は、もう来ない。
代わりに、内側から何かが裂ける音がする。
逆流。多数派の“拒否”が、器の導管を内側から刃に変えている。
私は笑えない。
勝った、と思った瞬間に首輪が鳴るから。
だからただ、息を細くして、見せる。
【個体記録:E-7】
【状態:機能停止/逆流発生】
【回収:不要】
【廃棄:許可】
空に出たその文字が、彼女の終わりを“手続き”に変える。
でも、彼女の目だけは、まだこちらを見ていた。
装置の目じゃない。怯えた人の目。
黒い糸が、彼女の首筋からほどけていく。
皮膚の下を走っていたはずの束が、外に出て、空気に溶ける。
溶けるたびに、彼女の身体の輪郭が薄くなる。
「……っ」
声は、私じゃない。
彼女の喉から、やっと出た音だ。
たぶん、最初で最後。
その音を聞いた瞬間、私の首輪が「ちり…」と鳴った。
怖い、じゃない。
“安心”に近い感情が、いま一番危ない。
私は息で、テロップを落とす。
【息を整える】
【心拍を上げない】
それだけが、生き残るための祈り。
エレーナは膝を折った。
いつもみたいに、誰かを跪かせるためじゃない。
自分の身体が、もう立っていられないだけ。
「ごめ、なさい」
耳で聞く声だった。
頭の中じゃない。幻でもない。
ちゃんと震える、弱い声。
謝罪、という単語がこの場に落ちた瞬間、コメントが止まった。
怒りの粒が、宙で固まる。
視聴者が一斉に、“見てしまった”顔になる。
彼女は自分の胸を押さえた。
そこに核がある。球体の契約印。
壊れかけのポンプが、最後の一回だけ血を送ろうとしている。
「わたし、は……」
言葉が途切れるたび、身体が透ける。
装置が壊れて、人間だけが残ろうとしているみたいに。
「ずっと、あなたを……嫌いだと、思わされてた」
思わされてた。
その受け身の言い方が、いちばん残酷だった。
彼女は自分の意思で憎んでいたわけじゃない。憎む役を“流し込まれて”いた。
私は、首輪が鳴らない程度に息を深くする。
怒ってはいけない。
哀しんでもいけない。
私は王なのに、感情すら許されない。
エレーナの瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
それは王妃の圧でも、聖女の演技でもない。
誰かに許してほしい子どもの顔だった。
「あなたの弟……」
その単語で、私の首輪が「ちりっ」と強く鳴った。
喉の内側に刃の幻が触れて、息が乱れそうになる。
私は必死で、息だけを数える。ひとつ、ふたつ。
「ごめんなさい。わたし、知らなかった……」
知らなかった。
レオンハルトが言ったのと同じ言葉。
みんな“知らなかった”で済む場所にいた。知らないままで得をする側に。
でも、彼女は続けた。
壊れかけの核で、言い逃げをしないまま。
「でも……苦しかった。ずっと、苦しかったの」
「跪け」って命令するたびに、胸の奥で何かが削れていく。
吸っているのに、満たされない。
器って、そういうものなんだ。
彼女の指が、床に落ちた黒い糸を掴もうとして、空を切る。
もう触れない。
彼女の身体は、存在の手前まで薄くなっている。
「スカーレット……」
名前を呼ばれた瞬間、私の首輪がまた鳴った。
怖い、という概念が首輪を撫でる。
“その名前を呼ばれることが怖い”じゃない。
この謝罪を受け取ったら、私の心が動く。それが怖い。
だから、私はテロップで返す。
【謝る相手が違う】
【あなたを作ったやつに、返す】
彼女の目が、揺れた。
それでも、最後にちゃんと頷いた。
自分が“誰の道具だったか”を、ようやく理解した顔で。
核が、光った。
白じゃない。金でもない。
灰色の紋が、内側から割れて、ぱき、と乾いた音を立てる。
次の瞬間。
球体の契約印が、砕けた。
砕けた破片は落ちない。光になって、ほどけて、消える。
エレーナの身体が、風に溶けるように薄くなっていく。
最後に残ったのは、唇の形だけ。
彼女はもう声にならない息で、もう一度だけ言った。
「……ごめんなさい」
そして、消えた。
王妃代替(信仰吸収器)としての“器”が、回収もされずに廃棄された。
その事実だけが、全国の空に、冷たく残る。
沈黙のあと、コメント欄が爆発した。
でも私は、そこに浸れない。
首輪が鳴る。心拍が上がる。死ぬ。
だから、息で落とす。
【暫定政府】
【条件:契約者の署名(意図)+精霊同意】
【今すぐ:回線停止/扉連動解除/リオン地上へ】
――その文字が出た瞬間。
地下の奥で、まだ閉じているはずの“扉”が、嫌な音を立てて軋んだ。
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