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第96話
しおりを挟む空が、静かだった。
コメントも、支持率も、心音字幕もない。
でも水晶灯は点いている。生活の灯として、回線として、まだ世界のどこかと繋がっている。
私は息を吸って、吐く。
――いまはもう、泣いても死なない。
その事実が、遅れて胸に落ちてきて、逆に怖い。怖いけど、首輪は鳴らない。
私は禁忌の精霊石を掌に乗せた。
光は、以前みたいな「勝手な命令」じゃない。ちゃんと、私の意思を待っている。
だから私は、最後の枠を開く。
卒業ライブ。
そう呼ぶのが、いちばん正しい。
空に、枠が立ち上がる。
【配信枠:卒業ライブ(契約者・スカーレット)】
【視聴:任意】
【同期:任意】
私は一度だけ、ためらってから、息で合図した。
「……来て」
声は、まだ戻らない。
でも精霊石が拾って、空に文字が落ちる。
【来て】
次の瞬間、世界が戻ってきた。
王都の水晶灯が一斉に明るくなり、遠くの地方の広場にも、海の港にも、同じ枠が灯る。
コメント欄は、最初だけ躊躇したみたいに空白で。
それから、雨みたいに降り始めた。
【生きてた】
【首輪ない……】
【弟くんは?】
【卒業ライブって何】
私は笑いそうになって、すぐに口元を押さえた。
もう死なないのに、癖だけが残ってる。
それが、少しだけ情けなくて、少しだけ愛おしい。
私はリオンの寝顔を横目に見た。王城の客間で、毛布を鼻まで引き上げて、寝息を立てている。
守れた。
でも、あの赤字は消えていない。
【投票連動:地下扉開放→対象:リオン 処理 待機中】
見えないところで、まだ待機している。
だからこそ。
私は今、ちゃんと終わらせる。
空に、テロップを落とす。
【みんな、聞いて】
【これは「勝利宣言」じゃない】
【私は今日、引退します】
コメントが一瞬、止まった。
止まったのに、世界は落ちない。
昔の私なら、ここで煽った。泣かせて、燃やして、数字を伸ばして、勝ち切る。
前世の私は、それで生きてた。
でもこの世界で私は知った。
多数派は、守ってくれる。
同じ速度で、殺しもする。
私は息を整えて、次の言葉を落とす。
【私は前世で、インフルエンサーだった】
【人の感情を動かして、数字に変えて、生きてた】
【でもここでは、数字が人を殺せた】
【私の命も、弟の命も、国の命も】
【だから、私は卒業する】
画面の端に、別枠が勝手に出た。
【24時間観察チャンネル:対象/王太子カイル(元)】
檻の中の男が、泥にまみれた顔でこちらを見上げている。
逃走不可。改ざん不可。停止不可。
それでも彼は、目だけで「まだ終わってない」と言っていた。
私は視線を返さない。
カイルは、もう私の物語の中心に置かない。
卒業っていうのは、そういうことだ。
私は空に、淡々と落とす。
【これから私は「配信で生きる」のをやめます】
【支持率で呼吸するのをやめます】
【誰かの憎しみで勝つのをやめます】
【私は、一人の人間として生きる】
コメント欄が、ざわめきから悲鳴に変わった。
【やめないで】
【まだ地下が】
【回線が残ってる】
【あなたしか無理】
わかってる。
私が消えたら、また誰かが「入口」を握る。
また誰かが、民の祈りを燃料にする。
だから私は、最後に「引き継ぎ」をする。
インフルエンサーの引退は、逃げじゃない。運営の移管だ。
【だから、置いていく】
【契約のルールを、文字にして残す】
【多数派が現実を作るなら】
【多数派が「嘘を作らない」仕組みにする】
精霊石が、淡く震えた。
空に、確認ログが整列する。
【提案:回線残滓(魔神系) 全域焼却】
【提案:投票連動処理の恒久停止(全域)】
【提案:王命放送の入口 永久分散(単独管理禁止)】
【確認:精霊契約 二要素認証】
ここで、私は思い出す。
この世界の契約は、私だけじゃ成立しない。精霊のYESが必要で、そして――多数の同期が必要だ。
私は息を吸って、落とした。
【お願い】
【私のためじゃない】
【弟のためでもない】
【あなたたち自身のために】
【同期して】
世界が、返事をした。
水晶灯の向こうで、無数の人が精霊石を握る。祈る。頷く。
「見ているだけ」だった人たちが、初めて「参加」する。
コメントが、祈りに変わる。
【同期する】
【やる】
【もう奪わせない】
空気が熱を持った。
焼けるような光が、回線の裏側へ走っていくのがわかる。
私は最後に、卒業生みたいに一言だけ落とした。
【ありがとう】
【そして、さようなら】
光が世界をなぞり、どこかで長年溜まった憎しみのノイズが、燃えて、ほどけていく。
その瞬間。
私の視界の端に、まだ消えていなかった赤字が――ふっと滲んだ。
【投票連動:地下扉開放→対象:リオン 処理 待機中】
……消えた?
消えかけた?
安堵が胸に広がりかけて、私は自分の呼吸を止める。
もう首輪はないのに、身体が勝手に警戒する。
次の瞬間、精霊石が、私の掌で嫌な脈を打った。
空に、見覚えのない表示が走る。
【エラー:処理待機 移送先不明】
【回線残滓 未収束】
【ラストイベント:開始条件 達成】
私は、息を飲んだ。
卒業ライブのはずだった。
なのに世界は、終わり方を選ばせてくれない。
そして、眠っていたはずのリオンが、びくりと肩を跳ねた。
まるで、地下の扉が――今、別の場所で開いたみたいに。
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