最後の晩餐部

深渡 ケイ

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第5話:文化祭の裏メニュー

第5話:文化祭の裏メニュー

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 湊はホイップの山をもう一段盛って、スプーンを引き抜いた。

「よし。白い富士山、完成」

「湊、写真! 写真先! 先に撮ってから渡して!」

「わかってるって。ほら、角度は……こうだろ」

 スマホを構えると、屋台の上に置いたアサイーボウルが照明に艶めいた。ブルーベリー、バナナ、グラノーラ。最後に金箔みたいな飾り粉をひと振り。映えのために仕入れた、食べられるラメ。

「うわ、やば。プロじゃん」

「湊の手元、動画で撮っていい? 手元だけ!」

「いいけど、手元だけって言ったよな? 顔は盛れないからな」

「え、湊の顔も映え枠でしょ」

「どこがだよ」

 笑い声が重なり、呼び込みの声がすぐ上から降ってくる。

「いらっしゃーい! アサイー映えボウル! 限定トッピングありまーす!」

「整理券こちらでーす! 並ぶ人、壁沿い!」

 教室の入口には簡易の看板。手書きの文字の横に、湊が昨夜撮った写真がでかでかと貼られている。実物より五割増しでうまそうに見えるやつ。

「湊、次の注文、いちご増し! その次、チョコソース多め!」

「はいはい、了解。いちご増しは、いちごの山ね」

「山って言うな、山って。原価!」

「原価って言うな、原価って。夢!」

 隣でレジを打っている女子が吹き出した。

「湊、口だけは一流」

「口だけで生きてるからな」

 言った瞬間、自分で少し笑ってしまう。忙しさで頭が熱い。腕も指も止まらないのに、胸の奥のどこかが、妙に冷たい。

「湊、飲んで。水」

 ペットボトルが差し出された。湊はキャップを開けて一口飲む。喉を通るのは水だけなのに、なぜか腹が重い。

「サンキュ。……うちの店、今日いけるな」

「いけるどころじゃないよ。今、行列、廊下まで伸びてる」

「マジ? 俺ら、文化祭の王じゃん」

「王はもっと丁寧にバナナ切って」

「はいはい、王、バナナ切りまーす」

 湊がまな板にバナナを並べると、背後から男子の声が飛んだ。

「湊! インスタのストーリー、もう上がってる! 『二年三組、神』って!」

「神は俺じゃなくてフィルターだろ」

「いや、湊の構図。マジで伸びるって」

「伸びるなら、うちのホイップも伸びてほしいわ」

 湊はホイップを絞りながら、スマホの通知をちらりと見る。いいねの数字が増えていく。コメントも流れていく。

「えぐ」「絶対買う」「映えすぎ」

 指が勝手にスクロールする。気持ちは上がるはずなのに、画面の光がやけに薄っぺらい。

「湊、スマホ! 手止まってる!」

「止まってねえって。ほら、動いてる」

「動いてるのは親指だけ!」

「親指も大事だろ、文化祭」

「言い訳うま!」

 笑い声。湊は笑って、また盛る。盛って、撮って、渡す。繰り返し。

「お待たせしましたー! 映えボウル、いちご増し!」

「きゃー! 写真撮っていいですか?」

「どうぞどうぞ。光、こっちのほうが綺麗っすよ」

「やさし! 助かる!」

 シャッター音。歓声。湊は慣れた手つきでライトの位置を少しずらす。すぐに次の注文票が滑り込む。

「湊、限定トッピング行く? 『秘密の裏メニュー』って貼っちゃったけど」

「誰が貼ったんだよ」

「私。だってウケるじゃん」

「ウケるけど、裏メニューって何だよ」

「湊が今考えて」

「今!?」

「今!」

「無茶振り文化祭かよ!」

 湊は一瞬だけ天井を見上げた。蛍光灯が白く眩しい。頭の中で、何かがカラカラ回って空回りする。

「……じゃあ、名前は『月光ミルク』」

「なにそれおしゃれ!」

「中身は?」

「白い。とにかく白い。ホイップ、ヨーグルト、ココナッツ、白ぶどう……あと、食べられるラメ増し。月光」

「原価!」

「夢!」

「夢で赤字になる!」

 クラスメイトが腹を抱える。

「裏メニュー、月光ミルク! 本日限定! 湊考案!」

「勝手に考案されてる!」

「湊、早く作って! 今、注文入った!」

「入ったのかよ!」

 湊は笑いながら手を動かす。白い材料を重ねていく。最後にラメを振る。光が粉に反射して、確かに月みたいにきらりとする。

「……うわ、綺麗」

 言ったのは、さっきまで騒いでいた女子じゃなかった。列の端の、制服のままの一年生が、ぽつりと呟いた。

「綺麗っすよね。写真、映えます」

 湊がそう返すと、一年生は小さく頷いて、カメラを構えた。撮る。笑う。去る。

 その背中を見送って、湊はまた次を作る。

「湊、今の子、めっちゃガチ勢だったね」

「文化祭は戦場だからな」

「戦場の王、手が震えてる」

「震えてねえよ。泡立てすぎただけ」

 湊は泡立て器を握り直す。確かに手が少し痺れている気がするが、ただの疲れだ。朝からずっと立ちっぱなしだし。

「湊、休憩回す? 一回出てきなよ」

「無理。俺抜けたらこの店、沈む」

「沈まないって。みんなできるよ」

「いや、俺が撮らないと映えない」

「出た、自己評価高」

「事実だろ」

 言いながら、湊はスマホを構える。出来上がった月光ミルクを、窓際の自然光のところへ持っていき、角度を探す。画面の中は完璧だ。光、色、影、全部。

 なのに。

「……なんか、腹減るな」

「え、湊、今それ言う? 匂いでしょ」

「匂いで腹減るってある?」

「あるある。脳が騙される」

「脳、ちょろいな」

 湊は笑って、喉の奥に水を流し込んだ。甘い匂いが鼻にまとわりつく。自分は味がわからない。わからないくせに、こういうのだけは作れてしまう。

「湊、顔色やばくない?」

「やばくない。照明のせい。蛍光灯、俺の顔だけ殺しにきてる」

「そういう問題じゃなくない?」

「大丈夫大丈夫。今日、俺、主役だし」

 湊は親指で通知を開く。いいねがまた増えている。コメントの中に、知らないアカウントからの一言が混じっていた。

『食べられるって、羨ましい』

「……誰だよ、急にしみるコメント」

「え、なになに?」

「いや、なんでもない。文化祭っぽいポエム」

「湊がポエム言うと怖い」

「言ってねえよ」

 湊は画面を閉じて、また客のほうへ向き直る。行列はまだ途切れない。呼び込みの声も止まらない。

「いらっしゃーい! 映えボウル、まだまだありまーす!」

「湊、次、月光ミルク二つ! カップ足りない!」

「カップは足りないし、俺の腕も足りない!」

「足りないのは睡眠!」

「それは認める!」

 笑いながら、湊はカップを並べた。白い材料を入れる。ラメを振る。光る。写真を撮る。渡す。

「……すげえな、文化祭」

 口に出した言葉とは裏腹に、湊の胸の奥の冷たさは、じわじわ広がっていく。腹は鳴らない。代わりに、どこかが空洞みたいに風を通している。

「湊、終わったら打ち上げ行く? 映え居酒屋!」

「行く行く。映え食う」

「食うんだ」

「食うって言っとけば、なんか、ちゃんとしてる感じするだろ」

「ちゃんとしてる感じって何」

「わかんねえ」

 湊は笑って誤魔化し、次の注文票を受け取った。

「はい次! いちご増し! 月光ミルク! ……裏メニュー、追加!」

「湊、裏メニュー増やすな!」

「増やしてるのは注文だろ!」

 教室の中は熱気でむせ返る。甘い匂いと、人の声と、シャッター音。湊はその中心で、回転し続ける。

 回って、回って。

 満たされるはずの数字だけが増えていくのに、湊の中の何かは、ずっと空腹のままだった。


 湊は焼きそばの鉄板から逃げるみたいに人波をすり抜けた。油とソースと甘いクレープの匂いが混ざって、空気がべたつく。

「うわ、文化祭って匂いまでうるせぇ……」

 スマホを握ったまま、親指で画面をいじる。さっき撮った“映え”写真に、いいねがぽつぽつ増えていくのが見えて、胸が勝手に軽くなる。

「よし。これで今日の俺、勝ってる」

 廊下に出ると、ざわめきが一段落ちた。遠くの体育館から太鼓の音がぼん、ぼんと腹に響く。階段を上がると、空気が急に薄くなるみたいで、湊は肩を回した。

「部室、どこだっけ……あ、こっち」

 最後の晩餐部の札は、相変わらず雑に貼られている。文化祭仕様の飾り付けはなくて、廊下の派手さの中でそこだけ色が抜けたみたいだった。

 湊が引き戸に手をかけた瞬間、中から小さく咳が聞こえた。

「……っ」

「ん? 誰かいる?」

 ガラッ。

 部室は静かだった。外の喧騒が嘘みたいに、時計の秒針だけが規則正しく動いている。机の上には、紙コップと、何かの小瓶。黒いペン。ノートが一冊。

 窓際に紬が座っていた。文化祭の腕章が、彼女の細い腕には少し大きい。笑っていないわけじゃないのに、口元の角度がいつもよりほんの少し浅い。

 その隣に蓮。腕を組んで、相変わらず刺々しい空気をまとっている。けど、目は紬から離れていない。

 湊は勢いで両手を広げた。

「どうもー! 文化祭の地獄を抜けてきた男、湊でーす!」

 紬がふっと笑う。

「おかえり。地獄って言い方、好き」

「だろ? あの鉄板の前、熱気で魂抜けるって。俺、焼きそばに転生するとこだった」

「転生先、炭水化物だね」

「最高じゃん。みんなに愛される」

 蓮が鼻で笑った。

「お前、愛されたいだけだろ」

「当たり前だろ。いいねは酸素だからな」

「酸素、薄っ」

「薄くねぇよ。今、増えてるし」

 湊はスマホを掲げて見せようとして、蓮の視線が一瞬だけ鋭くなるのを感じて、なんとなく引っ込めた。

「……で? 部長と副部長が揃って、こんな静かなとこで何してんの。文化祭だぞ? もうちょい騒がないと損だろ」

 紬は窓の外を見たまま、軽く肩をすくめた。

「騒ぐ場所は、外にいっぱいあるから。ここは、静かな味を出しておきたい」

「静かな味?」

「うん。例えば、炊き立ての白ごはんの匂いって、騒がしいと消えちゃうでしょ」

「……白ごはんの匂いって、そんな繊細か?」

「繊細だよ。湊くんの心より」

「は?」

 蓮が短く言う。

「お前の心は雑味」

「雑味って、旨味の可能性じゃん」

「可能性止まり」

 湊は舌を出して、部室の机に近づいた。紙コップの横の小瓶が目に入る。透明な液体。ラベルは剥がれていて、文字が読めない。

「これ、何? 部室の新しい調味料?」

 紬が手を伸ばして、小瓶をそっと自分の側に寄せた。動きがゆっくりで、爪先まで気を遣ってるみたいだった。

「秘密の裏メニュー」

「文化祭の裏メニューって、そういうやつ?」

「そういうやつ」

 蓮が口を挟む。

「余計なもん触んな」

「触ってねぇって。俺、清潔だぞ?」

「お前の清潔は信用できない」

「偏見だろ!」

 紬がくすくす笑ったあと、喉の奥で小さく息を詰まらせるみたいに、もう一度咳をした。

「……っ、ごめん」

 湊は反射で言った。

「風邪? 文化祭って空気乾燥してるしな」

 紬は首を振る。振り方が、否定というより、話題を軽く跳ね返すみたいだった。

「大丈夫。文化祭の粉ものに負けただけ」

「粉もの最強だからな。蓮、お前も気をつけろよ。吸ったら終わりだぞ」

 蓮は紬の背中を見て、目だけで何か言いたそうにした。でも口には出さず、湊に視線を戻す。

「……用件だけ言う。今日は、ここでやる」

「何を?」

「最後の晩餐部の文化祭、裏メニュー」

 湊はパチンと指を鳴らした。

「来た! 俺の出番!」

 紬が机の上のノートを開いた。ページの端が、何度もめくられたみたいに柔らかい。そこに細い字で、いくつかのタイトルが並んでいる。

「湊くん、今日の外、すごいね。みんな、食べて、笑って、忙しい」

「文化祭はそういうもんだろ。腹減ったら買って、写真撮って、また買って」

「写真、撮って?」

「撮る。映えは義務」

 紬は湊のスマホに目を向けて、少しだけ目を細めた。

「じゃあ、私たちの裏メニューも、映える?」

 湊は胸を叩いた。

「任せろ。映えさせるのが俺の才能だ」

 蓮が即座に言う。

「才能じゃない。病気だ」

「褒め言葉として受け取るわ」

 紬がノートを指でとん、とんと叩いた。

「映えるのは、写真だけじゃなくて。言葉も、ね」

 湊は頷きながら椅子を引いた。ぎし、と音がしただけで、この部屋がどれだけ静かか分かる。

「言葉の料理ってやつ? 今日もやる?」

「うん。今日は、文化祭だから、ちょっと特別」

「特別いいね。限定とか、俺好き」

「限定は、なくなるから価値があるんだよ」

 紬の声は軽いのに、言葉の最後がふっと床に落ちるみたいだった。湊は「限定」の単語だけ拾って、笑った。

「じゃあ今日の限定、俺が売り子してやるよ。『今だけ! 湊の言葉盛り盛りセット!』って」

「いらない」

 蓮が即答した。

「え、即却下?」

 紬が口元に手を当てて、笑いを隠す。

「でも、売り子さんは欲しいかも。湊くん、呼び込み得意そう」

「得意。『いらっしゃいませー! 人生変わる味、ありますー!』」

「うるさい」

「文化祭だぞ!」

 湊が声を張ると、紬が肩を揺らして笑った。けれど笑い終わる前に、唇が一瞬だけ白くなる。彼女はそのまま、机の下で何かを握り直したみたいに手を動かした。

 蓮がそれを見て、ほんの少しだけ顔をしかめる。

 湊は気づかず、ノートを覗き込んだ。

「で、今日のメニューは? 焼きそば? クレープ? タピオカ? 文化祭っぽいやつにしよーぜ」

 紬は指先でページをなぞって、ひとつのタイトルで止めた。

「じゃあ……『屋台のたこ焼き、最初の一個だけ熱すぎ問題』」

 湊は吹き出した。

「なにそれ! あるある過ぎる!」

「あるあるは、おいしい」

 蓮が小さく息を吐いた。

「……くだらねぇ」

「くだらないのが文化祭だろ!」

 紬が湊を見る。その目が、笑ってるのに、どこか遠い。

「湊くん。今日はね、外の喧騒から逃げてきた人だけが食べられる、裏の味にしよう」

「いいじゃん。俺、逃げるの得意」

「そういう意味じゃない」

 蓮がぼそっと言って、すぐ口を閉じた。

 湊は首を傾げたが、すぐにニヤッとする。

「まあいいや。ほら、部長。俺、話す準備できてる。熱いたこ焼きの一個目、俺の舌で受け止めてやる」

 紬は頷いた。

「じゃあ、いただきます、の前に……」

 紬が紙コップに手を伸ばし、口元に運ぶ。中身はほとんど減っていない。飲んだのかどうか分からないくらい、そっと唇を当てただけで戻した。

「……うん。大丈夫」

 その言葉だけが、部室の静けさにふわっと浮いて、すぐ消えた。

 湊は気にせず、椅子に深く座り直した。

「よし。裏メニュー、開店だな」


 教室の打ち上げ会場から漏れてくる音は、壁越しでも胃にくるくらい派手だった。拍手、笑い声、誰かのスマホから流れる流行りの曲。紙コップがぶつかる乾いた音。

 その廊下の端、使われていない準備室の前で、湊は一度だけ振り返った。

「……あっちは、まだ続いてるな」

「続いてるからこそ、こっちが必要でしょ」

 紬が、ドアの隙間からするりと入っていく。彼女の背中は文化祭の終わりの空気に溶けて、やけに軽い。湊と蓮も続いた。

 準備室は狭かった。机が二つ、椅子が四つ。カーテンのない窓から校庭の照明が差し込んで、埃が金粉みたいに舞っている。

 机の上に置かれたのは、駄菓子の山だった。うまい棒、蒲焼さん太郎、モロッコヨーグル、きなこ棒、ラムネ、チョコバット、ベビースターの小袋。

 湊は思わず笑った。

「……地味っ」

「地味って言うな。これは、裏パーティだ」

 蓮が腕を組む。文化祭の片付けをしてきたのか、髪に紙の切れ端がくっついたままだ。

 紬が指を鳴らす。

「はい、乾杯は……ラムネでいきます」

「ラムネで乾杯って、昭和かよ」

 湊が言いながら、瓶のビー玉を押す。カコン、と小気味いい音がした。

 蓮も押す。カコン。

 紬も押す。……少し遅れて、カコン。

「乾杯」

「乾杯」

「……かんぱい」

 三つの瓶が軽く触れた。ガラスの音が、やけにきれいに響いた。

 湊は一口飲んで、炭酸が鼻に抜ける感じに目を細める。

「これさ、文化祭の打ち上げっていうより、遠足の帰りみたいだな」

「遠足の帰りは一番うまい時間帯でしょ」

 紬が胸を張る。顔色はいつも通り明るい……はずなのに、光の当たり方のせいか、頬の白さが目立つ。湊は「照明が寒色だからだな」と勝手に納得した。

 蓮がうまい棒の袋を破りながら言う。

「お前、クラスの方行かなくていいのか。今頃、写真撮りまくってるだろ」

「撮ったよ、必要な分は」

 湊はスマホをポケットで叩く。

「屋台の列、ステージ、クラスの看板、あと、俺の腕の筋肉が映える角度」

「最後いらない」

 紬が即ツッコミを入れる。

「いるだろ。努力の結晶だぞ」

「文化祭で筋肉の努力語る人、初めて見た」

 蓮が鼻で笑う。

 湊は机の上の駄菓子を見回し、蒲焼さん太郎を手に取った。

「じゃあ、裏パーティのメインディッシュはこれで」

「渋いね。じゃあ私は、モロッコヨーグル」

 紬がふたを開ける仕草だけして、スプーンをくるくる回す。白いクリームが光を受けてぬるく光った。

 蓮はきなこ棒を選んだ。

「……お前ら、選び方が小学生」

「小学生の頃の方が、食べ物に真剣だっただろ」

 湊が言うと、紬がすぐに乗っかる。

「わかる。百円握りしめて、駄菓子屋で世界を買う感じ」

「世界は買えない」

「買えるよ。うまい棒十本で宇宙」

「宇宙は安いな」

 蓮が言いながら、きなこ棒の袋を開ける。粉が少し舞って、紬が反射的に口元に手を当てた。

「大丈夫か?粉、くすぐったい?」

 湊が言うと、紬は手をひらひらさせて笑った。

「くすぐったいだけ。湊、過保護」

「過保護じゃなくて、俺は衛生管理担当」

「何それ」

 蓮が呆れたように言う。

「最後の晩餐部に、衛生管理なんて概念あるのか」

「あるよ。言葉は新鮮じゃないと」

 紬が、机に肘をついて湊を見る。瞳が妙に近い。

「じゃあ、今日の新鮮なやつ、ひとつ。……文化祭の味、どうだった?」

「味?」

 湊は蒲焼さん太郎を噛みちぎり、考える。味のことを聞かれても、正直よくわからない。けど、ここは。

「……焦げたソースと、汗と、ちょっとだけ達成感」

「それ、食べ物じゃない」

「文化祭だろ」

 湊が言い切ると、紬は肩を震わせた。

「いいね、それ。焦げたソース、汗、達成感。……喉に引っかからない味」

 最後の一言が、やけに小さかった。湊は「うまいこと言うな」としか思わず、親指を立てる。

「さすが部長。コメントがプロ」

 蓮が湊の親指を軽く叩く。

「褒め方が軽い」

「軽い方がいいだろ。重いと、胃もたれする」

「胃もたれを語るな。お前、味わかんないんだろ」

「わかるし!」

 湊が即反論すると、紬が机を指でとんとん叩いた。

「じゃあ、味当てゲームしよ。目つぶって」

「出た、少年漫画の罰ゲームみたいなやつ」

「湊、目つぶるの得意そう」

「なんでだよ!」

 蓮が短く笑う。笑い声が、教室の打ち上げの喧騒よりずっと近くて、ずっと静かで、湊の胸にちょうどよく収まった。

 湊は目を閉じた。

「はい、来い」

「まずは……これ」

 紬の指が、湊の手のひらに小袋を置く感触。カサ、と乾いた音。

 湊は袋の形でわかった気がして、得意げに言った。

「ベビースター。余裕」

「ぶー。まだ開けてないのに」

「だって、音がベビースターだもん」

「音で当てるのズルい」

 紬が笑う。少し息が上ずって、笑いの終わりに短い咳が混じった。蓮の視線が一瞬だけ紬に刺さって、すぐ逸れる。

 湊は目を開けた。

「ほら、やっぱベビースターじゃん」

「正解にしてあげる。次は難しいよ」

 紬は、机の端に置いてあったチョコバットを一本持ち上げ、湊の前に差し出す。差し出した手首が、細い。文化祭の忙しさで痩せたのか、と湊は軽く思った。

「これ、何の味だと思う?」

「チョコだろ」

「ぶー。湊、固定観念の塊」

「固定観念っていうか、名前にチョコってついてるし」

 蓮が口を挟む。

「味の話をするなら、ちゃんと描写しろ。紬はそれで……」

 言いかけて、蓮は口を閉じた。代わりにきなこ棒を噛み、粉を払う。

 紬は何事もなかったみたいに、湊の方へ身を乗り出す。

「湊、じゃあ描写して。チョコバットの味。食べたこと、あるでしょ?」

「あるある。えーと……」

 湊はチョコバットを見つめ、言葉を探す。教室の打ち上げなら、適当に「うまい!」で済む。でもここだと、それじゃ足りない気がした。

「……最初は甘い。で、すぐにパンみたいな、乾いた感じが追いかけてくる。チョコのコーティングが薄くて、むしろそれがいい。口の中で、駄菓子屋の匂いがする」

 紬は目を細めて、うなずいた。

「駄菓子屋の匂い、いいね。木の床と、古い扇風機と、夏休み」

「夏休みは匂いじゃねえだろ」

 蓮が突っ込む。

「匂いだよ。夏休みは、匂いと音」

 紬がさらっと言う。言ったあと、少し間が空いて、彼女はラムネ瓶を持ち上げた。ビー玉の位置を確かめるみたいに、指でなぞる。

 湊はその間を「演出だな」と思って、乗った。

「音って、例えば?」

「蝉。遠くの工事。駄菓子屋のガラス戸の、がらがら」

「がらがらは、音っていうか……」

「音だよ」

 紬が言い切る。強い言い切りのわりに、声が少し掠れていた。湊は「文化祭で喋りすぎたな」と結論づける。

 蓮が机の上のうまい棒を湊に投げる。

「ほら。喋ってばっかりじゃなくて、これも描写しろ。少年漫画主人公」

「俺、少年漫画主人公なの?」

「顔がそれっぽい」

「褒めてんのか?」

 紬が笑って、湊の肩を軽く叩いた。

「褒めてる褒めてる。湊は、言葉の屋台が似合う」

「屋台って。俺、商売人かよ」

「商売じゃないよ。……ごちそう」

 紬の「ごちそう」が、ふわっと落ちた。

 湊はうまい棒の袋を指で弾く。

「じゃあ、今日の裏パーティ、何点?」

「百点」

 紬が即答した。

 蓮が間髪入れずに言う。

「甘い」

「甘くていいの。駄菓子だもん」

 紬は机に並んだ小袋を見て、指で一つずつ数えるみたいに触れた。触れるたびに、カサカサと小さな音がする。

 廊下の向こうから、また大きな笑い声が聞こえた。誰かが「集合写真!」と叫んでいる。

 湊は、そっちを見なかった。

 この狭い準備室の、埃とラムネと駄菓子の匂い。三人分の呼吸のリズム。短いツッコミと、くだらない言い合い。

 それが、妙に腹にたまる。

「……なあ」

 湊が言うと、紬が首をかしげた。

「なに?」

「クラスの打ち上げ、行かなくてよくね?」

 蓮が即座に眉を寄せる。

「お前が言うな。お前の居場所だろ」

「いや、俺の居場所、ここだわ」

 湊は自分でも驚くくらい自然に言ってしまって、照れ隠しにラムネを飲んだ。炭酸が喉をくすぐる。

 紬は笑って、机の下から紙コップを出した。どこから持ってきたのか、二つだけ。

「じゃあ、もう一回乾杯しよ。今度は、言葉で」

「言葉で乾杯って、どうやんだよ」

「簡単。今日一番おいしかったもの、言う」

 紬が湊を見る。蓮も、少しだけ視線を寄せる。

 湊は一瞬迷って、でもすぐに言った。

「……この部屋の空気」

 蓮が鼻で笑った。

「キモい」

「お前が言うな!」

 紬は、笑いながら小さく咳をして、唇の端を指で拭った。指先が、ほんの少し震えたように見えた。湊は「寒いのかな」と思い、窓の方を見た。

「窓閉めるか?」

「ううん。開けといて。外の音、好き」

 紬が言って、また笑う。

 その笑い声が、教室の派手な打ち上げよりずっと、湊の中で「うまい」と鳴った。


 湊が最後の皿を客に渡した瞬間、教室の奥から拍手が起きた。

「裏メニュー、完売ー!」

 誰かが叫ぶと、待ってましたとばかりに歓声が乗る。黒板の「最後の晩餐部×二年一組 限定 物語プレート」の文字が、チョークの粉をまとって白く光って見えた。

 湊は反射でスマホを探しかけて、手が空を切った。

 あ、今、撮るタイミングだろ。映え。盛り上がり。完売の証拠。

 そう思ったのに、手はエプロンの裾を握ったまま止まった。

「湊くん、顔、変だよ」

 紬がカウンター越しに覗き込む。いつもみたいに笑っているのに、笑いの端が少しだけ薄い。唇が乾いているのが、妙に目についた。

「変って言うな。イケメンが崩れるだろ」

「崩れてるのは髪。ソース飛んでる」

「うわ、最悪」

 湊は慌てて前髪を撫でつけ、指先についたソースをエプロンで拭った。紬がくすっと笑う。

「そのままでもいいのに。湊くん、今日ずっと『見せる顔』してたから」

「え、してた?」

「うん。こう……カメラ目線の顔」

「してねえって」

「してた。ほら、今はしてない」

 紬の言い方が妙に確信めいていて、湊は口を尖らせた。

「……じゃあ、今の俺の顔、何顔だよ」

「『いま楽しい』顔」

「なにそれ」

「いい顔」

 紬は言い切って、ふっと息を吐いた。笑いながら、胸のあたりに手を当てる。咳払いに近い、小さな音が混じった。

「……大丈夫か?」

「うん。文化祭の空気、粉っぽいから。きっと」

 紬はさらっと言って、カウンターの下から紙ナプキンを取り出した。指先が少し冷たそうに見えたが、湊は気づかないふりをした。気づいたところで、どうせ「大丈夫」って返ってくる。

 それより、今。

 教室に残った熱が、まだ肌に張りついている。

「なあ、紬」

「なに?」

「俺さ、完売の瞬間、撮ろうと思ったんだよ。『やったぜ』って投稿して、いいね稼いで」

「うん」

「でも、やめた」

「どうして?」

 湊は自分でも理由を探して、口の中で言葉を転がした。

「……なんかさ。スマホ出したら、この空気に穴開く気がした」

「穴」

「うん。ほら、こう……みんなの声とか、匂いとか、熱とか。今しかないやつ」

 紬の目が少し丸くなる。湊は照れて、わざと乱暴に笑った。

「別に成長したとかじゃねえぞ。たまたま」

「たまたま、すごい」

「すごくねえって」

「すごい。だって湊くん、今日、何回も笑ってた」

「そりゃ笑うだろ。文化祭だぞ」

「『誰かに見せる笑い』じゃなくて、『今の笑い』」

 紬の言い方が妙に刺さって、湊は一瞬だけ黙った。

 教室の外から、別のクラスの呼び込みが聞こえる。廊下を走る足音。どこかで揚げ物の油が爆ぜる音。文化祭の世界が、壁一枚の向こうでまだ暴れている。

 湊はカウンターに肘をつき、紬のほうへ身を乗り出した。

「……俺、笑い方に種類あるのかよ」

「あるよ。湊くんは器用だから」

「器用って便利な悪口だな」

「褒めてる」

「はいはい」

 湊が鼻で笑うと、紬も同じタイミングで笑った。二人の笑いがぶつかって、変な音になって、さらに笑いが増える。

「ちょ、やめろ、ツボる」

「湊くんが変な顔するから」

「してねえ!」

「してる!」

 そこへ、ガラッと扉が開いて、蓮が顔を出した。

「……お前ら、何やってんの」

「完売祝い」

 湊が即答すると、蓮は眉を寄せたまま教室に入ってくる。手には空になったトレーと、使い捨てスプーンの束。

「祝いって、片付けが先だろ」

「蓮は真面目か」

「真面目じゃないと、お前が死ぬ」

「死なねえよ」

 蓮はトレーを置きながら、紬のほうをちらっと見る。その視線が一瞬、鋭く重くなる。湊は気づかない。紬は、いつもの笑顔で受け止めた。

「蓮くん、片付け手伝ってくれるの?」

「……当たり前だろ」

「ありがとう。裏メニュー、楽しかったね」

「楽しかった、で済ませんな。……まあ、売れたのは、良かった」

 蓮は言いながら、机の上のゴミ袋を結び直す。結び目を強く引く手つきが、妙に固い。

 湊はその横で、エプロンの紐をほどいた。

「なあ蓮。俺、今日さ、投稿してない」

「……は?」

 蓮が手を止める。

「珍しいだろ」

「珍しいっていうか……お前、スマホが呼吸器官だろ」

「誰がだよ。俺は肺で呼吸してるわ」

「その肺、いいねで膨らむタイプだろ」

「お前、人の肺を何だと思ってんだ」

 紬が笑って、また小さく咳を飲み込む。口元をナプキンで押さえる動きが、ほんの一拍遅れる。

 湊はそれを「笑いすぎ」のせいだと思った。

「でもさ」

 湊は窓の外を見た。校庭の向こうに、夕方の光が差している。ステージのスピーカーから、誰かの歌が風に乗ってくる。

「投稿しないで、こんなに楽しいの、初めてかも」

 紬が目を細める。

「うん」

 蓮は黙ったまま、ゴミ袋を持ち上げる。その肩が少しだけ落ちる。

「……紬」

 蓮が低い声で呼ぶ。

「なに?」

「無理すんな。今日はもう——」

「無理してないよ」

 紬は間髪入れずに返した。声は軽いのに、言い切り方が硬い。

 湊は二人の間の空気に首をかしげた。

「え、何。俺、なんかやらかした?」

「やらかしてない」

 蓮が即答する。

「やらかしてないよ」

 紬も被せる。

 二人が同時に言うから、湊は吹き出した。

「息ぴったりかよ。幼馴染こわ」

「こわくない」

「こわくないよ」

 また揃う。湊は腹を抱えて笑った。笑いながら、胸の奥が妙に軽くなる。

 いいねがつくかどうかとか、誰が見てるとか、そんなの一瞬、どうでもよくなる。

「やべ、笑い止まんね」

「止めなくていいよ」

 紬が言う。カウンターに指を置いて、指先でトントンとリズムを刻む。湊の笑いに合わせるみたいに。

「湊くんが笑うと、こっちまでお腹いっぱいになる」

「それ、意味わかんねえけど、まあ……俺の笑いはカロリー高いってことだな」

「高い」

「じゃあ、もっと食え。笑いで太れ」

「太れないよ」

 紬は笑って言った。その声が、ほんの少しだけ薄く揺れた。

 蓮が何か言いかけて、口を閉じる。代わりに、湊の肩を軽く小突いた。

「片付け。笑いながらやれ」

「はいはい」

 湊は返事をして、机を拭く布巾を手に取った。

 布巾の湿り気と、教室に残ったソースの匂いと、遠くの歌声。

 その全部が、今ここにしかない。

 湊は、スマホのことを思い出しそうになって、やめた。

「なあ、紬」

「なに?」

「文化祭終わったらさ、打ち上げ……って言うと、飯なんだけど」

 湊は言いながら、自分で言葉に引っかかった。紬の前で「飯」とか、普通に言っていいのかと一瞬だけ迷う。でも紬は、迷いを拾い上げるみたいに笑った。

「うん」

「……飯じゃなくてさ。今日みたいに、裏メニュー第二弾やろうぜ。物語のやつ」

「いいね」

「いいねって言うな。俺が戻るだろ」

「戻ってもいいよ。でも、戻る前に、今をもう一口」

 紬が指を一本立てる。

 湊はその指を見て、また笑った。

「なんだよ、それ。食レポかよ」

「ううん。湊くんの『今』は、けっこう美味しい」

「……変なこと言うなよ」

 湊は照れて、布巾で机をゴシゴシ拭いた。力を入れすぎて、机がきゅっと鳴る。

 蓮が呆れた声を出す。

「机に謝れ」

「机が俺に感謝しろ」

「しない」

 紬が笑う。笑いながら、視線だけが一瞬、窓の外の夕日に止まる。その目が、遠くのどこかを数えるみたいに静かになる。

 湊はそれを「黄昏れてる」と勝手に解釈して、肩をすくめた。

「紬、エモい顔してんな」

「してないよ」

「してる。今、絶対『青春だね』って言おうとした」

「言ってない」

「言ってるって」

「言ってないってば」

 言い合いながら、紬はもう一度笑った。

 その笑いが、少しだけ息を置いてから出てきたことに、湊は気づかなかった。気づかないまま、自分の笑いが誰かの腹を満たすなら、と単純に嬉しくなった。

 この瞬間のために笑うのが、こんなに楽だなんて。

 湊は布巾を放り投げるみたいに置いて、教室の真ん中で大きく伸びをした。

「よし。片付け終わったら、校庭の屋台、冷やかしに行こうぜ」

「冷やかしじゃなくて、見に行く、だろ」

 蓮が言う。

 紬が頷く。

「見に行こう。湊くんの『今』、まだ残ってる?」

「残ってるどころか、追加で焼けるわ」

「焼かないで」

「焼く」

「焦げる」

「焦げねえ!」

 三人の声が重なって、また笑いが起きた。教室の外の喧騒に混ざって、消えていく。

 それでも湊の中には、確かに残った。撮らなくても、投稿しなくても、誰かに見せなくても。

 今ここで、誰かと笑ったことが。


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