最後の晩餐部

深渡 ケイ

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第6話:味のしないガム

第6話:味のしないガム

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 蓮は保健室前の長椅子に腰を落とし、膝の上のポーチを開いた。

 中は色とりどりのシート薬と、小瓶、アルミの包み。誰かの筆箱みたいに整然としているのに、数だけが妙に多い。

「……今日の分、増えてる」

 小声で吐いて、蓮はスマホのメモを開く。時間ごとに打った短い文字列。朝、昼、夕、就寝前。頓服。予備。予備の予備。

 ポーチの隅に、透明な袋が折りたたまれて入っている。新品のままじゃない。何度も開け閉めした跡がある。

 ガチャ、と保健室のドアが開いた。

「お、蓮。待ってた?」

 湊が顔を出した。肩からカメラバッグを提げている。いつもの調子で、目だけきらきらしてる。

「お前、なんでここにいんだよ」

「え、だって紬先輩、今日ちょいしんどいって言ってたし? 部活、保健室集合って」

「……集合とか言ってねぇ」

「え、言ってたよ。『最後の晩餐部、臨時支店は保健室でーす』って。めっちゃノリ良かった」

 湊の真似る声が妙に似ていて、蓮は一瞬だけ笑いそうになる。すぐに口を閉じた。

「お前は廊下で待っとけ」

「えー。俺、手伝えることあるって。点滴のやつとか」

「触るな」

「はい!」

 湊は即座に両手を上げて、目線だけで保健室の中を覗こうとする。

「紬先輩、寝てる?」

「……寝てるっつーか、休んでる」

 蓮はポーチを閉じ、膝で押さえた。湊の視線がそれに落ちる。

「それ、薬? 多っ。え、紬先輩って花粉症とかもフル装備?」

「黙れ」

「すいません!」

 湊は笑いながらも、ふと鼻を擦る。気まずさを誤魔化す癖だ。蓮はその軽さが嫌いで、ちょっと羨ましくもある。

 保健室から、かすれた声がした。

「れん……?」

 蓮は立ち上がった。「今行く」

 湊が一歩ついてくる。

「俺も——」

「廊下」

「はい!」

 湊は壁に背中をつけて、手持ち無沙汰にカメラバッグのチャックをいじった。

 蓮はドアを静かに閉め、保健室の中へ入った。

 白いカーテン越しに、紬がベッドに起き上がっているのが見える。髪をまとめるゴムが手首にかかったまま。頬は笑ってるのに、色が薄い。

「起きてんなら呼べよ」

「呼んだよ。今、呼んだ」

「今じゃねぇ。……水」

 蓮が紙コップに水を注いで差し出すと、紬は受け取って口をつけた。ほんの一口。喉の奥を通すみたいに、時間をかけて。

「ん……」

 紬の眉が一瞬だけ寄る。すぐに笑ってみせた。

「おい、無理すんな」

「してない。ほら、私、得意だから。『無理してない顔』」

「得意とかいらねぇ」

 蓮はベッド横の小さな棚を開けた。そこにも薬が並んでいる。番号を振った小さなシール。蓮が貼ったやつだ。

「今日、昼の分、追加されてた」

「ばれた?」

「ばれるに決まってんだろ。数えてんだよ、こっちは」

「れん、こわい」

「お前が隠すからだろ」

 紬は肩をすくめる。その動きが、いつもより小さい。

 蓮はポーチからシートを出して、必要な分だけ切り離す。掌に乗せると、軽い。軽すぎて腹が立つ。

「これと、これ。あと、これ。飲めるか」

「いける。いけるいける」

 紬は明るく言って、薬を口に入れた。水を含んで、喉を動かす。

 ……一回。

 ……二回。

 三回目が、遅い。

 紬の視線が宙を泳いで、口元がかすかに歪む。蓮は何も言わず、コップを取り上げ、もう一つの透明な袋を広げた。

「れん、まだ……」

「黙って」

 紬は頷いた。頷き方が、子どもみたいに素直だった。

 喉が鳴る。次の瞬間、紬は口を押さえて身を屈めた。

「っ……ごめ……」

 蓮は袋を口元に当てる。音がする。水と薬と、何か。胃の中の、少し前の名残。

 紬の肩が小刻みに揺れて、やっと止まる。袋の口をねじって閉める。慣れた動きが、嫌になるほど滑らかだった。

「……ごめんね」

「謝るな」

「でも、湊くんの話、聞いたあとだとさ。なんか、変にお腹が『ある』感じになって」

「その感覚、いらねぇ」

「いらないって言われても、勝手に来る」

 紬は笑って、唇の端をティッシュで押さえた。白いティッシュに、ほんの少しだけ色がつく。蓮は見なかったことにして、ティッシュを丸めてゴミ箱に捨てた。

 棚の下から、もう一つ袋を出す。新品。補充。減っていくことが前提の備品。

「れん、ほんと、手際いいね」

「褒めんな」

「褒めてない。……料理できそう」

「できねぇよ」

「じゃあ、処理担当」

「言い方」

 紬はくすっと笑って、息を整えるようにゆっくり吸った。吸いきれず、途中で咳が出る。

「けほ……けほっ……」

 蓮は背中をさすろうとして、途中で手を止めた。触れれば壊れそうで、触れないともっと壊れそうで、どっちも嫌だった。

「……大丈夫か」

「だいじょぶ。れんがいるし」

 紬はさらっと言って、目を細める。蓮は目を逸らして、点滴のチューブの絡みを直す。透明な液体が一定の速度で落ちていくのを見ていると、落ち着く。数字と同じ。嘘をつかない。

 カーテンの向こう、廊下から湊の声が聞こえた。

「蓮ー! 紬先輩、起きてる? 差し入れ買ってきた! ガム! 味、めっちゃ種類あるやつ!」

 紬が目を輝かせる。

「ガム! いいね。味の話、できる」

 蓮は喉の奥で舌打ちした。

「お前、噛めねぇだろ」

「噛めるよ。噛んで、味を……」

 紬の言葉が途中でほどける。笑いで誤魔化すみたいに、口角だけが上がった。

「……噛んだふり、できる」

 蓮は袋を持ったまま、カーテンの端を少しだけ開けた。

「うるせぇ。ここ保健室」

「え、すいません! じゃ、静かにテンション上げます!」

 湊が小声で叫んで、袋を掲げる。カラフルなガムのパッケージが、やけに明るい。

「紬先輩さ、味のしないガムって知ってる? あれ、逆に映えない? って思って!」

「映えないのに映える理論、やめて」

 紬が笑う。笑い声が、少し息に引っかかる。

 蓮はカーテンを閉め、袋を棚の奥に押し込んだ。見える場所に置くと、全部ばれる気がした。

 紬が小さく手を伸ばす。

「れん、湊くん、入れてあげて。話、聞きたい」

「……ちょっとだけだ」

 蓮はドアを開けた。湊がすぐに入ってこようとして、蓮の目つきで足を止める。

「靴、揃えろ」

「はい! あ、え、保健室って土足じゃないんだっけ……」

「揃えろ」

「揃えます!」

 湊がもたもたと靴を揃える間、紬はベッドの上で背筋を伸ばし、何もなかったみたいな顔を作った。

 蓮はそれを見て、何も言わない。

 言えば、崩れるのは分かっていた。崩れたものを、湊が拾えるとも思えなかった。拾えないくせに、明るい言葉で撫でて、余計に痛くする。

 湊がガムを差し出す。

「紬先輩、どれがいい? ぶどう? ソーダ? あと、謎に“無”って書いてあるやつある」

「“無”?」

 紬が指を伸ばしかけて、途中で止める。ほんの一拍の空白。

「それ、気になる。無の味、聞きたい」

 湊が笑う。

「無の味って、哲学じゃん。最後の晩餐部、急に難易度上がった」

 蓮はその言葉にだけ、反射で眉が動いた。湊は気づかず、袋を開けてガムを振ってみせる。

「じゃ、俺が噛んで実況する。紬先輩は聞くだけで食べたことになるんだろ? 最強じゃん」

「最強だよ」

 紬が言って、また咳を飲み込むみたいに喉を押さえた。笑顔は崩さない。

 蓮はベッド脇のゴミ箱を、さりげなく近づけた。音を立てないように。気づかれないように。慣れた手つきで。


 廊下の窓が開いていて、夕方の冷たい風が校舎の奥まで流れ込んでいた。部室の扉が閉まった瞬間、笑い声の余韻だけが薄く残って、次の音が来ない。

 湊はスマホを弄りながら、蓮の横を歩く。

「今日の俺、盛れてた? 紬先輩のツッコミ、完璧すぎて助かったわ」

 蓮は返事をしない。靴音だけが一定で、顔は前を向いたまま。

「……おい、蓮? 機嫌悪い? 俺、なんか踏んだ?」

 湊が覗き込むと、蓮の喉が小さく動いた。言葉を飲み込むみたいに。

「別に」

「別にって顔じゃないだろ。眉間、永久に寄ってんぞ」

 蓮は一度だけ湊を見る。目が鋭いのに、焦点が少し遠い。

「お前、あいつのこと、どこまで知ってる」

「どこまでって……好きな食べ物とか? あ、でも食べ物は食べられないんだっけ。えーと、物語を食べる体質、みたいな」

 湊は自分の説明がだんだん怪しくなっていくのを誤魔化すように笑った。

「なんだよ、その顔。俺、ちゃんと部活してるだろ。今日なんか“駅前のたこ焼きの湯気”の描写、結構刺さってたし」

 蓮は足を止めた。廊下の真ん中。窓からの風で、掲示物の端がパタパタ揺れる。

「……刺さるとか、そういう話じゃない」

「じゃあ何の話だよ」

 蓮は拳を握って、開いて、また握る。爪が手のひらに食い込むくらい強く。

「お前さ」

「うん」

「……あいつが笑ってるの、全部ほんとだと思ってんのか」

 湊は一瞬だけ考えるふりをして、肩をすくめた。

「そりゃ、冗談は冗談だろうけど。紬先輩、なんだかんだ元気じゃん。今日もツッコミの回転数えぐかったぞ」

 蓮の目が一瞬だけ細くなる。笑ってるんじゃない。眩しさに耐えるみたいな顔。

「……元気」

 その言葉を、蓮は口の中で噛んだ。噛んでも味が出ないガムみたいに。

 湊は気づかず、スマホをポケットにしまう。

「てかさ、蓮って紬先輩の幼馴染なんだろ? もっとドヤれよ。『俺が昔から支えてる』とかさ」

「支えてる?」

 蓮の声が低くなる。湊は「うわ、地雷だった?」と手を上げた。

「いや、悪い意味じゃなくて。なんつーの、相棒感? いいじゃん、そういうの。少年漫画みたいで」

 蓮は窓の外を見る。校庭の端に、部活帰りの生徒が小さく流れていく。夕陽が、白い線を引く。

「……少年漫画ならさ」

「うん?」

「期限なんて、ねえんだよ」

 湊は笑ってしまった。

「なんだよ急に。期限って、テスト? 文化祭?」

 蓮は湊を見ないまま、唇だけ動かした。

「……命の」

 空気が一段冷たくなった。風のせいだと湊は思った。窓、閉めればよかったな、と。

「命の期限って……大げさだな。紬先輩、病気なんだろ? でも点滴とかでやれてるし。ほら、本人もめっちゃ明るいし」

 蓮の肩がわずかに揺れた。笑いじゃない。震えを抑えるみたいな揺れ。

「明るいのは、あいつがそうしないと」

「そうしないと?」

 蓮は言いかけて、歯を食いしばる。次の言葉が喉に引っかかって、出てこない。

 湊は首を傾げる。

「え、なに? 俺、なんか知らないルール踏んでる? 『紬先輩の前では暗い話禁止』とか?」

 蓮は目を閉じた。短く息を吐く。吐いた息が白く見えそうな勢いだった。

「……お前に、言うべきなのか」

「え、何を?」

 蓮の目が開く。湊をまっすぐ射抜く。怒ってるのに、頼ってるみたいな矛盾した視線。

「お前が、あいつに話を食わせてるだろ」

「食わせてるって言うなよ。なんか俺が給餌してるみたいじゃん」

「してんだよ」

「してるけど!」

 湊は両手を広げて、笑いで押し切ろうとする。

「いや、でもそれ、部活じゃん。最後の晩餐部。俺、わりと向いてる気がしてきたし。なんなら今日、紬先輩の笑い声、いつもより多かった気がする」

 蓮の視線が一瞬だけ湊の胸元に落ちて、また上がる。湊が気づく前に、蓮は言った。

「……あいつ、今日、途中で咳してた」

「してたっけ? あー、してたかも。季節の変わり目だしな。俺も今朝、喉イガイガだったし」

 蓮の眉がピクリと動く。

「……薬も」

「薬? あー、持ってる人いるだろ。俺も頭痛薬常備してるし」

 湊は軽く手を振った。自分の軽さが正しいと信じるみたいに。

 蓮は唇を噛む。血が出そうなほど強く。

「……湊」

 呼び捨てにされたのが、やけに重く聞こえた。湊は「お、おう」と変に背筋を伸ばす。

「お前さ。あいつが笑ってるからって、全部大丈夫だと思うな」

「……じゃあ、どう思えばいいんだよ」

 湊の声が少しだけ小さくなる。冗談のテンポが崩れたのを、自分でも感じてしまった。

 蓮は言葉を探す。探しながら、喉の奥で何かが擦れる音がするように見えた。実際には聞こえない。ただ、そう見えた。

「……知らないままの方が、お前は楽だ」

「え、なにそれ。俺のメンタルを心配してくれてんの? ツンデレか?」

 湊がわざと明るく言うと、蓮は笑わない。笑えない顔のまま、拳を握り直す。

「違う」

「じゃあ何だよ。言いたいことあるなら言えよ。俺、空気読むの苦手なんだって。SNSのコメント欄なら読めるけど」

 蓮は一歩だけ湊に近づく。廊下の蛍光灯が、蓮の目の下の影を濃くした。

「……お前が、あいつに何か言うたびに」

「うん」

「……あいつは、生きる」

 その言い方が、湊の耳に引っかかった。まるで「生きる」が選択肢みたいに。

 湊は笑って誤魔化そうとした。

「そりゃ生きるだろ。生きないと部活できないし。俺、これからもネタ仕入れてくるしさ」

 蓮の目が揺れる。一瞬、何かを言いかけて、飲み込む。喉仏が上下する。

「……だからこそ」

「だからこそ?」

 蓮は顔を背けた。窓の外の夕焼けに目を向けるふりをして、言葉を隠す。

「……お前が知らないでいるのが、怖い」

「怖い? 何が」

 蓮は答えない。その沈黙が、廊下の風より冷たかった。

 湊は肩を叩こうとして、やめた。触ったら壊れそうな気がしたからだ。自分でも理由は分からない。

 代わりに、軽口を拾う。

「蓮さ、紬先輩のこと大事すぎて過保護になってんじゃね? あの人、強いぞ。ツッコミで人殺せるレベルだし」

 蓮が小さく息を吐いた。笑いではない。疲れの吐息。

「……強いよ」

 その声だけが、少し柔らかい。

「強いから、余計に」

 湊は「余計に?」と聞き返したが、蓮は首を振った。

「……いい。今は」

「今はって、じゃあいつだよ。引っ張るなよ。俺、気になると夜寝れないタイプなんだけど。いや寝るけど」

 蓮は湊を見た。何かを決めかけた目。けれど次の瞬間、それを捨てるみたいに目を伏せる。

「……お前が、あいつの前で余計な顔しないなら、それでいい」

「余計な顔って何だよ。俺、基本いい顔してるだろ。映え的に」

「……そういうとこだ」

 蓮は踵を返す。階段の方へ歩き出す。

 湊は慌てて後を追う。

「おい、置いてくなよ。結局なんなんだよ。俺、部活のノリ間違えた?」

 蓮は歩きながら、背中越しに言った。

「間違えてない」

「じゃあ何だよ。言えよ」

 蓮は一段、階段を下りるところで足を止めた。手すりに指をかけ、白くなるまで握る。

「……お前の言葉は、あいつにとって」

 そこまで言って、蓮は黙った。喉の奥で、言葉が引っかかっているのが見えるようだった。

 湊は「ん?」と身を乗り出す。

「俺の言葉が?」

 蓮は振り向かない。振り向いたら、言ってしまうからみたいに。

「……なんでもない」

「なんでもないって言い方、いちばんなんでもあるやつじゃん」

 湊が笑っても、蓮は笑わない。代わりに、短く言った。

「……次、部室行くとき」

「うん」

「……変なこと言うなよ」

「変なことって、例えば? 『俺のたこ焼きは宇宙』とか?」

「……そうじゃない」

 蓮は階段を下り始める。湊も追いかける。

「じゃあ何だよ。具体例くれよ。俺、禁止ワードあると逆に言いたくなるタイプなんだって」

 蓮の背中が少しだけ固くなる。

「……頼む」

 その一言が、妙に真っ直ぐで、湊は口を閉じた。

「……お、おう」

 湊は照れ隠しに頭を掻いた。

「ま、俺も紬先輩に変な顔させたくないし。任せとけって」

 蓮は何も言わずに階段を下りていく。踊り場の影に半分消えたところで、一度だけ立ち止まる。

 湊が「どうした?」と聞く前に、蓮の声が落ちた。

「……お前は、知らないまま、笑ってろ」

 湊は「何その名言」と笑った。

「俺、いつも笑ってるし。てか、蓮も笑えよ。眉間、筋肉痛になるぞ」

 蓮は答えない。影の中で、ほんの少しだけ肩が揺れた。笑いにも見えたし、耐えてるようにも見えた。

 湊はそれを「やっとノってきた」と勝手に解釈して、足取りを軽くした。

 夕方の風が、階段の下から吹き上がってきた。冷たさが喉に触れて、湊は一度だけ咳払いをする。

「ほら、俺も咳出た。季節だなー」

 蓮は振り返らないまま、手すりを強く握っていた。指先が白いことに、湊は気づかない。


 屋上の扉がばたん、と背中で閉まった。

 放課後の風はまだ冷たくて、フェンス越しに見える街の音が遠い。湊は自販機の前で小銭を鳴らし、炭酸を二本買って戻ってきた。

「はい、部長。泡のやつ」

「ありがと。湊くん、気が利くー」

 紬は受け取って、缶を振らずにそっと開けた。ぷしゅ、と小さな音だけ。彼女は口をつけるふりをして、唇を離したまま笑う。

 湊はそれを「炭酸苦手なのかな」と勝手に片づけて、自分の缶を開けた。喉が鳴るくらい、勢いよく飲む。

「うまっ。屋上で飲む炭酸、なんでこんなに勝ち確なんだろ」

「それ、映えるね」

「映えって言うなよ、部長。俺の病気が悪化する」

「もう手遅れでしょ」

 笑い合う声の隙間に、蓮の靴音が混じった。遅れて屋上に出てきた蓮は、いつもより無口で、フェンスの影に立ったまま二人を見ている。

 湊は軽く手を上げた。

「お、蓮も来たじゃん。飲む? なんか買ってくる?」

「いらねぇ」

 即答だった。湊は肩をすくめる。

「反抗期かよ」

「お前に言われたくねぇ」

 いつもの切れ味がない。湊は缶を持ったまま紬の横に座り、足を投げ出した。

「蓮、なんかあった? 先生に説教された?」

「……違う」

 蓮は視線を外して、フェンスの向こうを見た。握りしめた手が白い。言葉が喉のところで止まってるみたいに、何度か口を開けては閉じる。

 湊は笑って誤魔化す。

「なにそれ。告白前の男子みたい」

「……湊」

 蓮が呼んだ。名前だけが、妙に重い。

「お前さ――」

 その瞬間、紬がふわっと立ち上がった。蓮の前に、半歩、身体を滑り込ませるみたいに。

「蓮。ちょっと、こっち」

「……」

「ね。お願い」

 紬の声は軽いのに、目だけが真剣だった。湊は「また二人の幼馴染モードか」と思い、空気を読んだつもりで缶を掲げる。

「じゃ、俺、向こうで風と語り合ってくるわ。青春」

「うん、青春してて」

 紬が笑って手を振る。湊は適当にフェンス際へ移動し、わざとらしく空を見上げた。

「雲、エモい」

 背後で、声が落ちる。聞こえない距離じゃないのに、聞いちゃいけない感じの音量。

「……言うつもりだった」

 蓮の声。

「言わないで」

 紬の声は、いつもより低い。

 湊は「うわ、ガチのやつ」と思って、さらに雲を凝視した。雲は何も答えない。

「湊、あいつは――」

「蓮」

 紬が遮った。短く、鋭い。

 風が一瞬、強く吹いて、紬の髪が頬に貼りつく。彼女はそれを指で払おうとして、少し遅れて、やっと直した。

「今じゃない」

「今しかねぇだろ」

 蓮の声が少しだけ震えた。湊は缶を持つ手の指を動かして、プルタブをいじった。聞こえちゃう。聞こえるのに、聞こえないふりをするしかない。

「……あいつ、何も知らねぇんだぞ」

「知ってほしい?」

 紬が笑った。いつもの明るい笑い方の形だけを残して、音が薄い。

「知ったら、どうなるの」

「……」

「湊くんはね、優しいよ。優しいから、変な方向に頑張っちゃう」

「変な方向ってなんだよ」

「自分を削る方向」

 紬の言葉が、風にさらわれないで残った。

 蓮が息を吸う音がした。

「もう削れてんだよ、紬は」

 湊は思わず振り返りそうになって、ぎりぎりで止めた。「削れてる」ってなんだ。部活のことで揉めてんのか。あるいは勉強? 文化祭? 湊は勝手に現実的な理由を探す。

 背後で、紬が一拍空けた。

「ねぇ、蓮」

 その一拍が、妙に長い。

「……あの子の前では、普通の女子高生として死なせて」

 湊の喉が、炭酸の泡みたいに引っかかった。

 死――。

 言葉だけが耳に刺さって、意味は追いつかない。湊は「また紬の比喩表現だ」と無理やり解釈しようとする。部活が終わるとか、青春が終わるとか、そういうやつ。紬、たまに大げさだし。

「……冗談、言うなよ」

 蓮の声が低く落ちた。

「冗談じゃない」

 紬の声は、揺れなかった。

「最後まで、普通でいたいの。湊くんの前では」

「最後って何だよ」

「最後は最後」

 紬がさらっと言った。いつもの調子に戻そうとしてるみたいに、語尾が軽い。

「ほら、湊くんってさ、すぐ顔に出るじゃん。知ったら、毎日『大丈夫?』って聞くでしょ」

「聞くけど」

 湊は思わず口を挟んだ。自分でもびっくりするくらい、声が出た。

 二人の視線がこちらに飛んでくる。湊は慌てて缶を掲げた。

「いや、えっと。聞くよ? そりゃ。普通に」

 紬はぱっと笑って、手を叩いた。

「ほらー! ね! そういうとこ!」

「そういうとこじゃねぇよ」

 蓮が吐き捨てるみたいに言う。目が赤いわけでもないのに、湊はなぜか、泣く寸前の人の顔を連想した。

 湊は笑って場を繋ごうとする。

「なんだよ、二人して。俺、そんな過保護キャラに見える?」

「見える見える」

 紬が即答した。明るく、明るく。

「だから、お願い。蓮も、湊くんも。いつも通りでいて」

 蓮は唇を噛んで、何かを言いかけて、飲み込んだ。喉が動くのが見えた。

「……お前、ずるい」

「うん。ずるいよ」

 紬は笑って、缶を胸の前に抱えた。中身が揺れた音がしない。湊はそれを「炭酸抜けたのかな」と思い、なんとなく自分の缶をもう一口飲んだ。

「じゃ、今日の活動どうする? 屋上メニュー、風味:青春でいい?」

 湊が言うと、紬は「それ最高」と親指を立てた。

 立てた指が、ほんの少しだけ震えて見えた気がした。

 湊は「寒いもんな」と勝手に納得して、ポケットからガムを取り出して紬に差し出した。

「これ噛む? ミント。口の中スッキリする」

 紬は一瞬だけ、ガムを見つめた。それから、いつもみたいに軽く首を振る。

「今日はいいや。味、しない日」

「なにそれ。体調?」

「気分!」

 紬は笑って言い切る。湊は「気分か」と頷き、ガムを自分の口に放り込んだ。

 ミントが広がる。ちゃんと味がする。

 背後で蓮が、小さく息を吐いた。

「……わかったよ」

 その声は、投げやりじゃなくて、何かを諦める音だった。

 紬はそれを聞いて、ようやく肩の力を抜いたみたいに、屋上の空を見上げた。

「ありがと、蓮」

「礼言うな」

「言うよ。言いたいから」

 湊は二人の間に流れる空気を、いつもの幼馴染のやつだと思い込もうとして、無理やり笑った。

「よし。じゃ、今日は『最後の晩餐部・屋上編』な。メインディッシュは、俺の炭酸一気飲み芸で」

「それは胃に悪い」

「それは映えない」

 蓮が珍しくツッコミを入れて、紬が笑う。

 笑い声が風に乗って、薄くなっていく。

 湊はその薄さを、屋上の空気のせいだと決めて、もう一口、炭酸を飲んだ。


 廊下の窓がオレンジに染まり、部室の前を通る風まで甘く見えた。

 湊はスマホの画面を拭きながら、階段を二段飛ばしで上がる。屋上へ続く扉の前で、すでに蓮の背中が見えた。

 フェンスに肘をつき、夕日を睨むみたいに見ている。口元だけが、一定のリズムで動いていた。

「……ガム?」

 湊が声をかけても、蓮は振り返らない。噛む、噛む、噛む。味を確かめるというより、何かを粉砕しているみたいだった。

「おーい。先に来てたんだ。部長は?」

 蓮の肩が小さく上下した。息を吐いたのか、笑ったのか、判別できない。

「……帰した」

「え、もう? 早っ。今日は俺の『焼肉のタレだけで白飯三杯いける話』の回だったのに」

「いらねぇよ」

「いや、いるって。白飯は正義だろ」

 湊がフェンスの隣に並ぶ。金網越しの街が、夕日に押しつぶされそうな色をしていた。

 蓮はようやく湊を見た。目の下に、薄い影が落ちている。噛む動きだけは止まらない。

「……お前さ」

「ん?」

「今日、部長……紬、ちょっと咳してただろ」

「してたっけ? あれじゃね? 風、乾燥してたし。屋上って喉やられる」

 蓮の奥歯が、ぎり、と鳴った気がした。ガムが歯の間で潰れる音かもしれない。

「……そうだな。乾燥だ」

「ほら。俺、のど飴買ってくるわ。映えそうなやつ。なんか金粉入ってるみたいな」

「金粉とかいらねぇ」

「でも、いいね伸びる」

「お前の脳みそ、いいねでできてんのか」

「半分はな」

 湊が笑うと、蓮は笑わない。夕日の光が金網の影を蓮の頬に落とし、表情の線を細かく切り刻んでいた。

 湊はそのまま、フェンスの隙間から下を覗く。グラウンドに誰もいない。放課後の匂いだけが残っている。

「てか、ガム何味? ミント?」

 蓮はポケットから包み紙を出して、くしゃっと握りつぶした。小さな音がした。

「……味、しねぇ」

「え、じゃあハズレじゃん。俺だったら返金求めるわ」

「そういう問題じゃねぇ」

「そういう問題だろ。味しないガムってさ、存在意義なくない?」

 蓮の喉が動いた。噛むのが一瞬止まり、また再開する。

「存在意義とか……軽いな、お前」

「軽いっていうか、シンプルに。ガムは味だろ」

「……」

 沈黙が落ちる。夕日が沈む速度が、目に見えるくらい急に感じた。

 湊は空気が重くなりそうなのを察して、慌てて話題を拾う。

「そうだ、今日さ。部長、俺の話聞いて笑ってたよな。あれ、結構キタ。『あ、俺、役に立ってる』って感じ」

 蓮の口元が歪んだ。笑いに見えるけど、違う。

「役に立つ、ね」

「うん。ほら、あの人、話聞くのうまいし。笑うタイミングも完璧。俺のボケ、育ててくれる」

「……育ててるのは、お前じゃねぇのかよ」

「え?」

 湊が首をかしげると、蓮はフェンスに額を軽く当てた。金網が小さく震える。

「……なんでもねぇ」

「いや、なんでもねぇって言うやつ、だいたいなんでもあるだろ」

「ない」

「あるって」

「ないって言ってんだろ」

 噛む音が強くなる。湊はちょっと怯んで、両手を上げた。

「はいはい。悪かった。じゃ、俺が悪い。俺の脳みそがいいねでできてるのが悪い」

 蓮は息を吐いた。夕日と一緒に吐き出したみたいに、少しだけ肩が落ちる。

「……お前、部長のこと」

「部長? 紬さん? うん、まあ……面白い人だよな。てか、すごい。人の話だけで満腹とか、才能じゃん」

 その言葉に、蓮の噛むリズムが乱れた。ガムが舌に貼りついたのか、唇の端を指で拭う。

「才能……」

「うん。俺、正直うらやましい。食べるってさ、めんどいじゃん? 時間かかるし、片付けあるし。なのに話だけで満たされるとか、コスパ最強」

 蓮の目が細くなる。夕日が目に刺さったみたいに。

「……お前、ほんとに」

「ん?」

「……いいや」

 蓮は言いかけて飲み込む。飲み込む動作が、やけに大きく見えた。喉の骨が上下して、またガムを噛む。

 湊はその動きを、ただの癖だと思ってしまう。

「てか、蓮ってさ、紬さんのこと、過保護だよな。幼馴染だっけ? そりゃ気になるか」

「過保護じゃねぇ」

「じゃあ、何」

 蓮は夕日から目をそらさないまま、金網の向こうの空を掴むみたいに指を曲げた。

「……噛み殺してんだよ」

「え、何を?」

「いろいろ」

「いろいろって便利な言葉だな」

 湊が笑うと、蓮はようやく顔を向けた。目が赤いわけじゃない。でも、目の奥が乾いている。

「便利じゃない」

「じゃあ、噛みちぎって吐き出せよ。ガムみたいに」

 蓮の口が止まる。数秒、何も音がしない。

 そして、蓮はポケットから小さなケースを出した。白い錠剤の入ったやつではなく、ガムのケースだ。蓋を開け、ひと粒取り出す。

 それを、湊に差し出した。

「……噛むか」

「え、くれんの? サンキュー。味しないんだろ?」

「……しない」

 湊は受け取って口に放り込む。噛んでみる。

「……あ、ほんとだ。無。え、これ何? 修行用?」

 蓮の口元が、ほんの少しだけ動いた。笑いの形に近い。けど、目は笑っていない。

「……そうだな。修行だ」

「じゃあ俺、これで『無の境地』いくわ。いいねも捨てる」

「捨てられるわけねぇだろ」

「バレた?」

「顔に書いてある」

 湊はフェンスにもたれて、夕日を眺める。ガムを噛む。確かに味がしない。唾液だけが増えて、口の中が空っぽのまま回り続ける。

「……なんかさ」

「……」

「味しないと、噛む意味なくなるな。時間だけ過ぎる」

 蓮が短く息を吸った。次の瞬間、いつもの尖った声で返してくる。

「だったら吐けよ」

「え、もったいない」

「もったいないとか言うな」

「だって、一応ガムだし」

 蓮の拳がフェンスを軽く叩いた。金属が、カン、と鳴る。夕日の中でその音だけが冷たい。

 湊は「びくっ」と肩を揺らして、すぐにへらっと笑った。

「わ、屋上って音響くな。ライブできるじゃん」

 蓮は返事をしない。噛む音だけが戻る。噛んで、噛んで、噛んで。夕日が沈みきるまで、何かを口の中で砕き続けるみたいに。

 湊も、味のしないガムを噛みながら、隣の背中を見た。

「……蓮」

「なんだ」

「今日、部長、帰るときさ。『またね』って言ったよな」

「……言った」

「じゃあ、またある。次も。だから大丈夫だろ」

 蓮の噛むリズムが、一拍だけ止まった。

「……お前はさ」

 低い声が、夕風に削られそうになる。

「……『また』が当たり前だと思ってんだな」

「当たり前だろ。だって、俺ら部活だし」

 湊は即答した。疑いもなく。

 蓮は、夕日が落ちた空を見上げた。そこだけ、もう夜の色が混じっている。

「……そうだな」

 蓮はそう言って、またガムを噛んだ。味のしないまま、顎だけが動き続ける。


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