最後の晩餐部

深渡 ケイ

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第7話:幻のフルコース

第7話:幻のフルコース

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 窓ガラスに白い息がふわっと張りついて、すぐ消えた。

 部室のストーブは点いているのに、足元だけが妙に冷える。湊はスマホを握ったまま、机の上に置いた紙コップのココアを写真に撮った。湯気がいい感じに立って、冬っぽい。

「よし。“部活の冬、始まった”っと」

「始まってねぇよ」蓮が部室のドアを肘で押し開け、コンビニ袋を揺らした。「寒いだけだ」

「寒いのも映えるだろ」

「お前の人生、全部“映え”でできてんのか」

「だいたいそう」

 湊が笑って親指を立てると、蓮は鼻で笑って袋から肉まんを出した。湊の視線がつい入口へ滑る。いつもなら、ドアが開いた瞬間に聞こえるはずの声がない。

「……紬先輩、まだ?」

 蓮の手が一瞬止まった。肉まんの紙が、かすかにくしゃっと鳴る。

「来ねぇ」

「え、遅刻? 部長が遅刻とか、世界の終わりじゃん」

「終わってんのはお前の頭だ」

 湊は椅子をくるっと回して、部室の壁に貼ってある“最後の晩餐部”の手書きポスターを見た。紬の丸い文字で、でかでかと「今日のメニュー:幻のフルコース」と書いてある。やたら気合い入ってる日だった。

「幻のフルコース、どうすんの。俺、今日のためにネタ仕込んできたんだけど」

「ネタって言うな。料理だろ」

「言葉の料理な。え、俺、成長してる? 今の言い方、部員っぽかった?」

 蓮は肉まんを半分に割り、湯気を吸い込むみたいに息を吐いた。その目が、湊のスマホじゃなく、ポスターの文字のほうに落ちている。

「……風邪だ。長引いてる」

「えー、先輩また? この前も咳してたしな。冬、強そうなのに」

「強そうとか関係ねぇだろ」

「いや、だってあの人、笑いながら人を回すじゃん。あれ、体力の暴力だよ」

 蓮は何も返さず、肉まんを口に運ぶ。咀嚼の音が、いつもより部室に響いた。

 湊はスマホをいじりながら、紬のトーク画面を開く。最後のメッセージは昨夜。

『明日、幻のフルコース。湊くん、メイン頼んだよ』

 その下に、湊が送った『任せろ部長! 胃袋つかむ!』が既読になっている。そこから返事がない。

「既読ついてんのに、返ってこないの珍しくね?」

「寝てんだろ」

「寝てるにしても、あの人、返信速度だけは化け物だぞ。通知来た瞬間に返してくる」

「うるせぇ。風邪だっつってんだろ」

 言い方が刺さって、湊は肩をすくめた。

「わかったわかった。じゃ、今日どうする? 部長なしでやる?」

「やるわけねぇだろ」

「え、解散?」

 蓮は肉まんをもう一つ出して、湊の前に置いた。湊は反射で写真を撮ろうとして、蓮の目に睨まれてやめる。

「……病院だ。入院した」

「え?」

 湊の声が妙に間抜けに響いた。ストーブの灯油の匂いが、急に濃く感じる。

「入院って……風邪で?」

「……ああ。長引いたからな」

 湊は「そっか」と言いかけて、口の中が乾いた。入院って、もっとこう、ドラマの中の言葉じゃないのか。

「え、でも入院って、ガチじゃん。大丈夫なの?」

「大丈夫って言ってた」

「本人が?」

「……ああ」

 蓮の返事は短い。湊はその短さを「蓮のいつもの不機嫌」として片づけたくて、わざと明るく言った。

「じゃあさ、見舞い行こうぜ。みんなで。部活だし」

「……行くな」

「え、なんで? 逆に元気出るだろ」

「迷惑だ」

「いやいや、迷惑って――」

 湊が言いかけたところで、蓮のスマホが震えた。蓮は画面を見て、親指が止まったまま固まる。ほんの一瞬、顔色が落ちたように見えた。

 湊はその変化を「寒いからだ」と思うことにした。冬だし。

「誰から? 部長?」

「……違う」

 蓮はスマホをポケットに突っ込んで、椅子の背にもたれた。目を閉じる。呼吸が一拍、遅れる。

「とにかく、今日は帰る」

「え、待って待って。部室の鍵どうすんの」

「お前閉めろ」

「雑!」

 蓮は立ち上がって、ドアに手をかけた。湊は慌てて声を投げる。

「じゃあ、俺から連絡していい? “お大事に”って」

 蓮は振り向かないまま、しばらく黙った。

「……好きにしろ」

 ドアが閉まる音が、いつもより重く聞こえた。

 湊は取り残されたみたいな部室で、ポスターを見上げた。「幻のフルコース」の文字が、今日はやけに元気すぎる。

「……入院かぁ」

 湊はスマホを握り直し、紬のトーク画面に指を置く。

『先輩、入院ってマジ? 早く治して戻ってこいよ! 幻のフルコース、延期で!』

 送信。すぐに既読がつくことを期待して、画面を見つめる。ストーブの小さな音だけが続く。

 既読は、つかない。

 湊は「寝てんのか」と小さく笑って、紙コップのココアを手に取った。温かいはずなのに、指先がなかなか温まらない。

「冬だなぁ……」

 ポスターの端が、暖気でゆらりとめくれた。そこに紬の小さな追記があった。

『前菜:思い出の匂い スープ:あの日の音 メイン:言葉 デザート:笑い』

 湊はそれを見て、胸の奥がくすぐったくなるのを「部活っていいな」に変換して、ココアを一口飲んだ。

「メイン、任せろって言ったし。帰ってきたら、腹いっぱいにしてやる」

 部室の時計が、カチ、カチと冬の速度で進んでいく。湊はスマホを机に置き、もう一度入口を見た。

 誰も入ってこない。白い息だけが、窓の向こうで静かに増えていった。


 湊は昼休みの廊下を早歩きしながら、スマホの画面を親指で叩いていた。

 昨日撮った部室の写真。逆光で、紬の笑顔だけがふわっと浮いている。いいねはそこそこ。コメントは「青春すぎ」「部活楽しそう」。

「……うん、映えてる」

 そう呟いた瞬間、胸の奥が空振りする。映えてるのに、足りない。写真の中の紬は笑ってるのに、昨日の最後の一瞬――彼女が笑いながら、ほんの少しだけ息を整えた間が、画面には残っていない。

 湊はそのまま階段を上り、放課後の部室へ向かった。

 扉を開けると、いつもの匂い――紙と、インクと、少しだけ消毒っぽい匂いが混ざった空気が鼻に触れた。

 紬は窓際の席で、ノートを開いていた。白い指でページを押さえ、ペン先がさらさら動く。

「部長ー。今日も生きてる?」

「第一声がそれなの、湊くんだけだよ」

 紬は顔を上げて笑う。笑って、ひと呼吸置いてから、わずかに肩を落とすように息を吐いた。

 湊は気づいたような気づいてないような顔で、机に鞄を置く。

「生きてるならオッケー。今日の俺、部長を元気づけるために来ました」

「元気、余ってるけど?」

「余ってるなら、俺に分けて。俺、今日の英語で死んだ」

「英語で死ぬ人、初めて見た」

 紬がくすくす笑う。笑い声が途中で細くなって、彼女は唇を指で隠した。

「……ん、失礼。ちょっと、喉が」

「乾燥? 加湿器いる? 俺、今すぐ理科室からビーカー借りてくる」

「それはただの湿度テロだよ」

「じゃあ、魔法の飴」

 湊がポケットを探るふりをすると、紬は手を振った。

「湊くんのポケット、だいたいレシートと飴の包み紙しか入ってないでしょ」

「包み紙は俺の人生の軌跡」

「ゴミ箱に軌跡残さないで」

 そこへ、扉が乱暴に開いた。

「うるせぇ……廊下まで聞こえた」

 蓮が入ってくる。目が湊に刺さってから、紬の方に移る。その視線が、湊にはただの「いつもの警戒」に見える。

「蓮くん、いらっしゃい。今日の機嫌は何点?」

「採点すんな。……で、何やってんだ」

 湊は胸を張った。

「元気づけ作戦会議」

「は?」

「部長、最近なんか……ほら、あれだよ。季節の変わり目ってやつ? だから、最高のメニュー用意しようと思って」

 紬が目を丸くする。

「最高のメニュー?」

「そう。幻のフルコース。前菜からデザートまで、言葉で食わせる」

「言い方!」

「食わせるって……お前」

 蓮が眉をひそめるが、紬は面白がって身を乗り出した。

「聞きたい。湊くんのフルコース。どんなの?」

 湊は指を折り始める。

「まず前菜。さっぱり系。部長の今日の気分に合わせて、軽く笑えるやつ」

「軽く笑えるやつ、得意そう」

「次、スープ。あったまるやつ。……ほら、なんか、家の匂いするやつ」

 紬の笑顔が一瞬だけ止まって、すぐ戻る。

「家の匂い、ね」

「で、魚料理。キラキラするやつ。写真映えするやつ」

「結局そこに戻るの?」

「戻る。だって俺、そこしか取り柄ないし」

「取り柄、他にもあるよ」

 紬がさらっと言う。湊は「ん?」と首を傾げるが、深くは追わない。

「で、肉料理。ここがメイン。部長が『うまい!』ってなるやつ」

「言葉で『うまい!』ってなるの、難易度高いよ?」

「だから、考える。俺が考える。最高にうまい話」

 蓮が椅子を引いて座る。ぎし、と音がした。

「……その『うまい話』って、また適当な盛り盛りの嘘じゃねぇだろうな」

「嘘じゃないし。盛るのはスパイスだし」

「同じだろ」

「違うって。……てか、蓮も協力してよ。部長のこと一番知ってんの、蓮じゃん」

 蓮の口が一瞬だけ固くなる。

「……知ってるとか、そういうのじゃねぇ」

 紬が間に入るように、軽い声を出した。

「知ってるよ。蓮くん、私が好きな味、だいたい把握してる」

「把握してねぇ」

「してる」

「してねぇ」

「してるってば」

 二人の言い合いに、湊が手を叩いて止める。

「はいはい。夫婦喧嘩は後で。で、デザート。ここで泣かせる」

「泣かせるの!?」

「泣かせて、最後にハーブティーで落ち着かせる。完璧」

 紬が笑って、また少しだけ咳き込む。咳は小さい。けど、肩が薄く震える。

 蓮の視線が、紬の手元――机の端に置かれた小さな薬の袋に一瞬落ちる。すぐに逸らす。その動きが速すぎて、湊は見逃す。

「部長、咳多くない?」

 湊が言うと、紬は指で唇を軽く押さえたまま、にこっとする。

「笑いすぎだよ。湊くんがうるさいから」

「俺のせいかー。じゃあ静かにする」

「それはそれで寂しい」

「めんどくさいな、部長」

「褒め言葉として受け取る」

 湊は鞄からノートを取り出した。新品の大学ノート。表紙に何も書いてない。

「でさ。フルコースをさ、毎回その場のノリでやると、俺の脳みそが焼き切れる」

「焼き切れる前に、英語をどうにかして」

「英語は焦げてる。戻らない。だから、これ」

 湊はノートを机の真ん中に置いた。

「部活動日誌。交換日記方式」

 紬が目を輝かせる。

「交換日記!」

「懐かしい響き」

「中学の時やってた。……黒歴史も量産した」

 蓮が吐き捨てるように言う。

「黒歴史って言うなよ。青春だろ」

「青春って言葉で全部ごまかすな」

 湊はノートを開き、一ページ目にペンを走らせた。字はそこそこ綺麗だが、勢いがある。

「タイトル……『最後の晩餐部 部活動日誌』」

 紬が手を叩く。

「ちゃんとしてる!」

「ちゃんとしてるだろ。で、ルール。今日の『メニュー』を書く。明日の『注文』を書く。部長が食べたい話を注文して、俺が作る」

「え、私が注文していいの?」

「もちろん。お客様は神様」

「神様、そんなに図々しくないよ」

「部長は図々しい神様でいい」

 紬は笑って、頬を指で押す。

「じゃあ……注文、いっぱいしちゃう」

 蓮が腕を組んだまま、低い声を挟む。

「……無茶言うなよ。湊の脳みそ、ほんとに焼き切れるぞ」

「蓮くん、心配してる?」

「してねぇ」

「してる」

「してねぇって」

 湊がにやっとする。

「はいはい。ツンデレ。で、蓮も書く。注文でも、感想でも、なんでもいい。三人で回す」

「俺は――」

「拒否権ない。部活だから」

「部活って万能ワードかよ」

 紬がノートに手を伸ばす。指先が少し冷たそうで、湊は反射的に自分の手を擦る。部室はそんなに寒くないのに、と頭の片隅で思うが、すぐに「窓際だからだろ」で片づける。

 紬は一ページ目の端に、小さく丸い字で書いた。

「今日の注文:湊くんの『家の匂いがするスープ』」

 湊が覗き込む。

「え、そこ刺さった? 俺、家の匂いとか言ったけど、うちの飯って別に……」

 言いかけて止める。自分の家の食卓を思い出そうとして、何も浮かばない。テーブルはある。椅子もある。皿もある。けど、音がない。

 湊は笑ってごまかした。

「まあ、俺の想像力でなんとかなる。スープなら得意だし。得意っていうか、得意な気がする」

「気がする料理、怖い」

 蓮がぼそっと突っ込む。

 紬はノートを閉じ、胸に抱える。

「……楽しみ。明日、食べる」

 その言い方が、ほんの少しだけ「約束」に聞こえて、湊は勢いよく親指を立てた。

「任せろ。俺が最高の一杯、作る」

「言葉でね」

「言葉で。……でも、ちゃんとあったまるやつ」

 紬が小さく頷く。その頷きが、少し遅れて見えた。

 蓮は窓の外を見てから、ノートに視線を戻す。

「……日誌、部室から持ち出すなよ」

「なんで?」

「なくしたら終わりだろ」

「俺、なくさないって。スマホはなくすけど、ノートはなくさない」

「信用できねぇ」

「ひどい!」

 紬が笑う。

「じゃあ、部室に置いておこう。鍵、私が管理する」

「部長が鍵持つの、なんかそれっぽい」

「それっぽいって何」

「部長っぽい」

 紬は鍵束を取り出して、机の上で軽く鳴らした。金属の音が、部室の静けさを切る。

 その手首の細さが、鍵の重さに少し負けて見えた気がして、湊はまた「細いなー、羨ましい」と雑に思う。

「よし。じゃあ今日の活動は、日誌スタート記念ってことで、乾杯しよ」

 湊が言うと、蓮が呆れた顔をする。

「何で乾杯だよ。飲み物ねぇだろ」

「空気で乾杯」

「最悪の乾杯だな」

 紬が両手をそっと持ち上げた。

「じゃあ……空気で。いただきます」

「いただきます!」

 湊も真似する。

 蓮は一拍遅れて、ため息混じりに手を上げた。

「……いただきます」

 三人の声が重なったあと、部室に少しだけ、あったかい沈黙が落ちた。

 紬はノートを抱えたまま、窓の光に目を細める。笑っているのに、どこか遠くを見るみたいな目をしていて。

 湊はそれを「明日のスープ、期待されてるな」と都合よく受け取った。

「よーし。明日、部長の胃袋……じゃなくて、心を満腹にしてやる」

「心の胃袋って何」

「あるんだよ。俺が今作った」

「作るの早い」

 蓮が小さく鼻で笑った。笑い方が、いつもよりほんの少しだけ柔らかい。

 その瞬間、紬がまた小さく咳をして、視線を落とす。指先がノートの角をぎゅっと掴む。

 湊は気づかないふりで、ペンを回した。

「じゃ、明日の仕込み。今日のうちに考えとく。スープの具材……えーと、家の匂い……味噌? いや、味噌は俺んちじゃないかも」

「湊くんの家、何味?」

「無味」

「それはそれで切ない」

「切なくない。ダイエットに最適」

 紬が笑って、「じゃあ私が味をつける」と言いかけて、言葉の途中で飲み込む。

 その飲み込み方だけが、やけに静かだった。


 湊のスマホが震えたのは、帰り道のコンビニ前だった。

「うわ、通知……」

 画面に出たのは、最後の晩餐部の共有日誌アプリ。紬からの返信。湊は反射で「いいね」を押しかけて、やめた。

「日誌にいいね機能つけたやつ、罪だろ……」

 横から覗き込んできた蓮が鼻で笑う。

「お前、反射神経だけは一流だな」
「反射神経で生きてるから」
「誇るな」

 湊は歩きながら文章を開いた。自分が昨日書いた「屋台の焼きそば回」の下に、紬の返信がずらりと並んでいる。

「……長っ。え、作文用紙三枚分くらいあるんだけど」

 蓮が肩をすくめる。

「紬が乗ったときはそうなる」
「乗ったっていうか、……なんか、ギアが違う」

 湊は読み始めた。

『湊の焼きそばは、最初の一口が「甘い」。ソースの甘さじゃなくて、湯気の奥にあるキャベツの甘さ。火が入って透けたところが舌に触れると、しゃり、と音がしそうなくらい瑞々しい。そこに遅れて粉末ソースの塩気が追いかけてきて、舌の上で「甘い」を押し広げる』

「……え、なにこれ。俺、そんなこと書いた?」
「書いてない」
「だよな?」

 湊は指でスクロールしながら、目が離せなくなっていく。

『麺は、たぶん一度蒸してから鉄板で戻してる。表面に油の膜ができて、箸で持ち上げたときに光が一瞬、線になる。噛むと、ぷつん、じゃなくて、ぷつ、ぷつ、と小さく切れていく。歯の隙間に入る感じが、なぜか懐かしい』

「歯の隙間に入る感じ……? そんなとこまで……」

 蓮が湊の手元を奪うみたいに覗き、眉間の皺が深くなる。

「……」
「なに? 怖い顔」
「別に」

 湊は軽く笑って誤魔化し、読み進めた。

『紅しょうがは、主張しないときほど強い。鼻に抜ける酸味が、鉄板の熱で少し丸くなってて、噛んだ瞬間だけ、目の奥がきゅっとなる。その「きゅっ」があるから、ソースが最後まで飽きない』

「目の奥きゅっ、って……漫画かよ」
「紬の文章、たまに漫画超えてくる」
「超えてる。てか、俺より焼きそば食ってるだろ」

 蓮は返事をしない。湊の親指が止まる。

『湊が写真を撮るとき、鉄板の前で一瞬だけ息を止めた。たぶん本人は気づいてない。湯気を待って、湯気が一番いい形になったところで、シャッターを切った。湯気が白く写ると、あの屋台の明かりが少しだけ優しくなる。あれは「食べる前の祈り」みたいだった』

 湊は思わず口元を押さえた。

「……なにそれ。俺、祈ってた?」
「祈ってないだろ」
「だよな! ただ映え狙ってただけだし!」

 蓮が小さく鼻を鳴らす。

「映え狙いが祈りに見えるときもある」
「え、なに。蓮、詩人?」
「うるせ」

 湊は笑ってスクロールする。けれど、次の段落で笑いが喉の奥に引っかかった。

『最後の一口は、少しだけ冷めてる。熱いのが嫌なんじゃない。冷めると、味が輪郭を持つ。ソースの甘さと塩気が、麺の小麦の匂いにくっついて、そこにキャベツの水が混ざって、鉄板の焦げが背中を押す。冷めた一口は、ちゃんと「終わり」の味がする』

「……終わりの味、って何」
「さあな」
「紬、たまに変なこと言うよな。厨二……いや、文学……?」

 蓮の視線が一瞬、湊から外れる。コンビニのガラスに映る自分たちを見てるみたいに。

「紬は変じゃない」
「わ、わかった。ごめん」

 湊は慌てて言い、また画面に戻った。返信はまだ続く。焼きそばの話から、湊が日誌の最後に書いた「今度は部でフルコースとかやりたい」に触れている。

『フルコース、いいね。私は口に入れられないけど、順番なら食べられる。前菜は、温度が低いほど世界の輪郭が見えるから、冷たいスープがいい。じゃがいもの、あの粉っぽさが舌に残る前の、滑らかだけが通り過ぎる瞬間を味わいたい。食べた人の喉が、少しだけ鳴るところまで』

 湊は目を見開いた。

「喉が鳴るところまで、って……そこまで見えるの?」
「紬は見てる。聞いてる。……食ってる」

 湊は「すげえ」と言いかけて、飲み込んだ。文章が、すごいだけじゃない。鋭い。爪みたいに、細かいところを引っかいてくる。

『魚料理は、皮目をぱりっと焼いて、身の方はふわっと。箸を入れたときに、皮が一度抵抗してから、ぱちん、と割れる。そこから湯気が出ると、魚の脂の匂いが鼻に張りつく。張りついた匂いは、しばらく取れない。取れない匂いは、記憶になる』

 湊はコンビニの前で立ち止まった。蓮もつられて止まる。

「……紬、ほんとに食べたことあるみたいじゃん」
「ある。……昔は」
「え?」

 湊が顔を上げると、蓮はすぐ視線を逸らした。

「今は、そういう話を聞くだけで満腹になるんだろ? 特異体質ってやつ。便利だなぁ」
「便利とか言うな」
「え、なんで怒るの」
「……別に」

 湊は肩をすくめ、続きを読む。メインディッシュの描写は、もっとおかしかった。鮮明すぎる。

『肉は、ナイフを入れる前に香りで勝負が決まる。焼いた脂の匂いが先に来て、次に黒胡椒が鼻を刺す。そのあとに、ほんの少しだけ血の匂いがする。その匂いが嫌じゃないのは、まだ生きてるから。噛むと、肉汁が舌の上で熱い。熱いのに、なぜか冷たい。体の中に入っていく感じがするから』

 湊は口を開けたまま固まった。

「……熱いのに冷たい、って何……」
「知らねえよ」
「いや、蓮、知ってそう」
「知らねえ」

 蓮の声が少し硬い。湊は「まあ、紬の比喩だよな」と軽く流そうとして、画面の端に気づいた。返信の最後に、短い追伸がある。

『追伸:湊、今日もありがとう。食べるって、誰かの中に入っていくことなんだね。だから、ちゃんと噛んでね。急いで飲み込むと、喉が痛いから』

 湊は笑って、親指で自分の喉元をさすった。

「なにそれ。俺、早食いバレてる」
「お前、いつも飲み込むの早い」
「え、蓮も見てんじゃん」

 湊はそのまま返信欄を開いて、勢いよく打ち始めた。

『紬の描写、やばい。今コンビニ前で読んで腹減った。てかフルコース案、採用! 前菜からデザートまで、みんなで語るやつやろうぜ。あと、喉は大事にします!』

 送信ボタンを押して、湊は満足げにスマホをしまった。

「よし。俺たち、次はフルコースだ」
「……お前、軽いな」
「軽いのが取り柄。重いのは胃に任せる」
「胃に任せるな」

 蓮がそう言ったとき、コンビニの自動ドアが開いて、温かい揚げ物の匂いが流れてきた。湊は反射で「からあげ棒!」と口にして、財布を取り出す。

「蓮、何食う?」
「……いい」
「遠慮すんなって。フルコースのための前菜!」
「前菜の概念が雑」

 蓮はそう言いながらも、湊が買ったからあげ棒を見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。笑うでもなく、怒るでもなく、何かを飲み込むみたいな間。

 湊は気づかず、熱い棒を頬張って「うまっ」と言った。

「ちゃんと噛めよ」
「噛んでる噛んでる。ほら、喉鳴った?」
「……鳴ってない」

 蓮の声が小さくて、湊は聞き返そうとした。けれど、その前にスマホがまた震えた。紬からの新着。

 湊はからあげ棒を咥えたまま、画面を開く。

『追伸の追伸:喉、鳴らなくてもいいよ。鳴らない日も、食べたってことにして。』

 湊は「なんだそれ」と笑って、蓮に見せようとして、やめた。

「紬、また変なこと言ってる」
「……そうか」

 蓮はコンビニの明かりの下で、少しだけ青白く見えた。湊は「夜だからだな」と勝手に納得して、残りのからあげ棒を勢いよく噛み切った。


 湊がスマホを構えるより先に、紬はノートを膝に乗せて、ペン先を立てた。

「じゃ、今日のメインね。湊くん、“幻のフルコース”の続き。いける?」

「おう。任せろ。俺、今、めっちゃ乗ってる」

「その自信、どっから湧くの……」

 蓮が呆れた声で笑う。けど目は笑っていない。紬の指先を、ちらりと追っている。

 教室の隅。放課後の薄い光が机の端を白くなぞって、紙の上だけがやけに明るい。

 湊は咳払いして、胸の前で両手を合わせた。

「えー、では本日のコース。前菜は――」

「待って。前菜は“口に入れた瞬間”から」

 紬がすぐに噛んでくる。

「細けぇ!」

「細かいのが、効くの」

 紬は笑って、ペンをくるりと回す。その動きが少しだけ遅れて、指が紙に触れた瞬間、かすかに震えた。

 湊は気づかないふりをした。というか、気づいても「寒いのかな」くらいで終わる。

「じゃあ、口に入れた瞬間な。前菜は……柚子の香りが、最初に鼻にくる」

「うん」

 紬の目が細くなる。嬉しそうに、紙に走る線が増える。

「冷たい皿でさ、舌に当たるのが、つるっとしてて……」

「つるっと。いい」

「で、噛んだら、パキッて音。――あ、違うな。パキッじゃない。もっと、静か」

「静かに壊れる感じ?」

「そう! それ!」

 湊が指を鳴らすと、紬が声を上げて笑った。

「湊くん、今の、めっちゃ食べた」

「食べたって言うな。俺の話、食われてる」

「食べるの。私の特技」

「特技じゃなくて、才能だろ。いや、天才」

 湊が軽口を叩くと、紬は一瞬だけ視線を落とした。笑いの形のまま、息がひとつ、薄く抜ける。

「天才は……高いよ」

「何が?」

「ううん。続けて」

 紬はペンを持ち直す。指の関節が白くなるほど強く。

 蓮が椅子を引く音がした。ほんの少しだけ紬の近くに寄る。机の上に、見慣れない小さな袋が置かれた。透明で、中に白い錠剤が二つ。

 湊はそれを見て、「サプリか」と勝手に納得する。

「健康意識高いなー、部長」

「湊、黙れ」

 蓮の声が低い。

「え、なに。いきなり怖」

 紬が笑って場をやわらげる。

「健康は大事。映えより大事」

「映えも大事だろ」

「湊くんにとってはね」

「当たり前だろ。俺の人生、“いいね”でできてるから」

「軽っ」

「軽いのが湊くん」

 紬がペンを走らせる。紙が擦れる音が、やけに耳に残る。

 湊は続けた。

「次。スープ。あったかいの。最初、湯気が顔に当たってさ――」

「香りは?」

「……えっと、バター。いや、違う。バターじゃなくて、焦げる手前の……」

「ヘーゼルナッツ?」

「そうそれ! なんでわかるんだよ!」

「わかる。今、湊くんの顔が“ヘーゼルナッツ”って言ってた」

「そんな顔あんのかよ!」

 二人の応酬に、蓮が鼻で笑う。

「くだらねぇ……」

「くだらないのが、うまいんだよ」

 湊が言うと、紬が「うん」と頷いて、また書く。

 その頷きが、ほんの一拍遅れた。

 ペン先が止まる。紬は笑ったまま、唇の端を押さえるようにして、咳をひとつ落とした。音は小さく、すぐ消える。

「だいじょぶ?」

 湊が聞く。軽い調子のまま。

「うん。いける。おかわり」

「おかわりって言うなって」

「言う。言わせて」

 紬は笑う。けど目の奥が、遠い。

 蓮が何も言わず、机の上の袋を指で押して紬の方へ寄せた。紬はそれを見ないふりで、ノートをめくる。

 紙の端に、びっしりと文字が並んでいる。湊の言葉が、料理みたいに盛り付けられている。

「……なあ、紬」

 湊はノートを覗き込んだ。

「それ、すげぇな。俺の話、こんな形になるんだ」

「形にしないと、こぼれるから」

「こぼれる?」

「うん。おいしいものって、すぐ逃げる」

 紬はペンを握り直し、笑った。

「逃がしたくないの。湊くんの“味”」

 湊は照れて、耳を掻く。

「いや、俺、味わかんねーし」

「わかってる。だから、いい」

「意味わかんねぇ」

「湊くんは、わかってない方が、いい」

 紬がさらっと言う。その直後、喉の奥で息が引っかかるみたいに、もう一度、短い咳が落ちた。

 湊は「空気乾燥してんな」と窓の方を見た。

「加湿器欲しいな、この部室」

「部室じゃない」

 蓮が即ツッコミを入れる。

「心は部室だろ」

「意味不明」

 紬が笑って、ペンを走らせる。笑い声が少しだけ細い。

 湊は勢いに乗ったまま、メインを語りだした。

「で、肉。ナイフ入れたら、抵抗がなくてさ。スッ……って入る」

「柔らかい?」

「柔らかい。けど、ただ柔らかいんじゃなくて、繊維が――」

「ほどける?」

「そう! ほどける! ほどけたところに、ソースが染みて――」

 紬のペンが加速する。紙が追いつかないみたいに、行間が詰まる。

 その途中で、紬の指が一度、ペンから滑った。ペンが机に当たって小さな音を立てる。

「おっと?」

 湊が笑って拾おうとするより早く、蓮が手を伸ばしてペンを掴み、紬の手元へ戻した。

「無理すんな」

「してない」

 紬が即答する。声が少しだけ硬い。

「してる」

「してないってば」

「……」

 蓮は言い返さない。代わりに、机の上の袋を紬の指先に近づける。

 紬はそれでも笑って、湊の方を見る。

「続けて。湊くん。今の、すごくいい」

「すごいのは紬だろ。メモ取るスピード、ありえん」

「湊の話、早口なんだよ」

「うるせぇ。テンション上がるんだよ!」

 紬が「上げて」と言うように頷く。頬が少し白い。けど笑ってる。

 湊はその白さを、「光のせい」にした。

「じゃあ、デザート。最後は――」

「最後は、ゆっくり」

 紬が言った。

「え?」

「最後は、ゆっくり言って」

 湊は「演出か」と思って、わざと大げさに息を吸う。

「……デザートは、いちご。冷たくて、甘くて、酸っぱくて」

「うん」

「最初に舌の先がキュッてなって、次に甘さが広がって……」

 紬の目が閉じる。ペンは動いているのに、まぶたの下で何かを確かめるみたいに、長く止まった。

 湊はその横顔を見て、胸の奥がくすぐったくなった。

「な? 俺、才能あるかも」

「……ある」

 紬は目を開けて笑った。

「湊くん、才能ある。ほんとに」

 その笑顔はいつも通り明るいのに、口角だけで持ち上げているみたいだった。

 蓮がふっと視線を落とす。紬のノートの端――紙に落ちた小さな点。インクが滲んだようにも見えるし、何かが落ちた跡にも見える。

 蓮の指が、その点をそっと隠すようにノートの端を押さえた。

 湊は気づかない。

「だろ? 俺、部活向いてるわ。“最後の晩餐部”」

「……うん」

 紬が頷く。頷きのあと、息が少しだけ乱れて、笑いの間に空白が挟まった。

 それでも紬はペンを止めない。

 まるで、止めたら何かが終わるみたいに。


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