最後の晩餐部

深渡 ケイ

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第8話:約束のオムライス

第8話:約束のオムライス

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 廊下の窓から差し込む光が、薄い埃をきらきら浮かせていた。卒業式の予行練習のせいで、校内は妙に落ち着かない。どこからか、体育館のマイクチェックの「アー」が聞こえる。

 最後の晩餐部の部室前。湊は扉に手をかけたまま、スマホの画面を見ていた。

「……やば。光、いい。部室って映えるな」

 自分で言って自分で納得して、扉を開ける。

「おーっす!」

 中はいつも通り……と言いたいところだった。机の上の紙コップ、散らかった台本みたいなメモ、空の写真立て。だけど空気が違う。誰かが先に入って、換気したみたいに、匂いが薄い。

 窓際に、紬がいた。

 白いカーディガンが少し大きく見えて、袖の先から覗く手首が細い。けれど顔を上げた瞬間、ぱっと部室の色が戻った。

「湊くん!」

 紬は手を振った。笑い方はいつも通り、明るい。だけど、その笑顔が少しだけ、頑張って貼り付けたみたいに見えた。

 湊はその違和感に、すぐ別の言葉をかぶせた。

「おおお! 出所!? いや退院!? どっち!?」

「一時退院。出所って言わない」

「じゃあ仮釈放!」

「それも言わないよ」

 紬は笑った。笑い声は軽いのに、最後に小さく咳が混ざった。

「……っ、ごほ。あ、ごめん。ほこり?」

「部室のほこりは俺らの青春の証だな」

「証、汚い」

 そこへ、扉が乱暴に開いた。

「遅い」

 蓮が入ってきて、紬を見た瞬間、足が止まった。視線が一瞬、紬の手首に落ちる。すぐに目を逸らし、いつものしかめっ面を作った。

「……来たのか」

「来ちゃった」

 紬は肩をすくめる。軽い仕草なのに、背中が少し丸い。椅子に座るときも、慎重だった。

 湊は机を叩いて宣言する。

「よし! これで部、完全復活! 卒業式前に部長が帰ってきたとか、エモすぎる。写真撮ろ」

「またそれ?」

「だって今、めっちゃ『物語』の一枚じゃん」

 湊がスマホを構えると、紬は両手でピースを作った。蓮は露骨に顔を背ける。

「蓮も入れよ。ほら、幼馴染ツーショットでバズる」

「バズらせるな」

「いいじゃん、卒業式前だし。記念」

「記念って言葉、軽いな」

「軽い方がいいだろ。重いと持ち歩けねえ」

 湊が言うと、紬がくすっと笑って、目を細めた。

「湊くん、そういうとこ好き」

「え、今のどこが褒めポイント!?」

「軽いところ」

「褒めてんのかそれ!」

 蓮が小さく鼻で笑った。ほんの一瞬だけ、肩の力が抜ける。

 湊はその瞬間を逃さず、シャッターを切った。

 カシャ。

 紬の笑顔の横で、蓮は半目。湊は満面。

「よし。最高。卒業アルバムよりいい」

「卒業アルバムに勝つな」

「勝つよ。だって部室の方が……なんか、うまい」

 湊は自分で言って首を傾げた。

「うまいって何だよ。俺、味わかんねえのに」

 紬が机の上のメモを指先でなぞる。紙が少し揺れる。

「最後の晩餐部、ちゃんと続いてたんだね」

「当たり前だろ。部長不在でも、俺が……」

「空回りしてた」

 蓮が即答した。

「おい!」

「してた」

「紬まで!?」

 紬は笑いながら、唇を押さえた。笑いを止めるみたいに。指先が白い。

「でも、空回りって、元気な証拠だよ」

「ほら、部長はわかってる」

 湊は勝ち誇った顔をする。蓮がため息をついた。

「……無理すんなよ」

 蓮の声は小さく、尖っていなかった。紬は「ん?」と首を傾げる。

「無理? してないよ」

「してる」

「してないって。ほら、こうして来れたし」

 紬は両腕を広げてみせる。その動きが少し遅れて、風を切らない。湊はそれを「久しぶりだからだな」と勝手に解釈した。

「久々の部室テンションだな。わかる。俺も体育館の予行練習、眠すぎて死んだ」

「死ぬな」

「卒業式前に縁起でもない」

 紬が笑って、また咳が喉の奥で引っかかった。今度は飲み込むみたいに、口を閉じて耐える。目尻に薄く涙が滲む。

 湊は見て見ぬふりで、机の上の紙コップを持ち上げた。

「はい、部長に歓迎の水。……水しかないけど」

「ありがとう」

 紬は受け取ったけど、すぐには口をつけない。手の中で温度を確かめるみたいに、カップを包む。

 蓮がそれを見て、口元を歪めた。何か言いかけて、飲み込んだ。

 湊は空気を変えるように、手を叩く。

「でさ! 卒業式のあと、どうする? 部の最後の活動、やるだろ」

「最後って言うな」

 蓮が噛みつく。

「え、でも卒業するし、区切りは区切りだろ」

 湊が言うと、紬が首を振った。

「区切りは、終わりじゃないよ」

「……名言きた。スクショしていい?」

「しないで」

「じゃあ心に保存する」

 湊が胸を押さえると、紬が声を立てて笑った。笑ったあと、一瞬だけ呼吸が浅くなる。肩が小さく上下する。

 それでも紬は、湊の目を見て言った。

「卒業式のあと、オムライスの約束、覚えてる?」

 湊は目を丸くする。

「覚えてるに決まってんだろ! あれだろ、ふわとろのやつ。ケチャップで……」

「名前、書いて」

「名前?」

「『紬』って」

 蓮がすっと紬の方を見た。視線が重い。紬はそれに気づかないふりをして、笑顔のまま湊に向き直る。

 湊は親指を立てた。

「余裕。俺、文字は得意。写真も得意。味は……知らん」

「味は、湊くんの言葉でいい」

 紬の声は柔らかいのに、どこか急いでいた。湊はその「急ぎ」を、楽しみに似たものだと勘違いして、勢いよく頷いた。

「任せろ! 卒業式直前の一時退院祝い、最高のオムライス回にしてやる!」

「回って言うな」

 蓮が突っ込む。

「だって俺ら、だいたい回だろ。『第○回・最後の晩餐部』」

「勝手にナンバリングするな」

「じゃあ、部長が決めて」

 紬は少し考えるふりをして、指を一本立てた。

「『約束のオムライス』」

 湊が口笛を吹く。

「タイトル強い。エモい。映画じゃん」

「映画なら、途中で泣かせにくる」

 蓮がぼそっと言う。湊は笑って肩を揺らした。

「泣くのは卒業式だけで十分だろ。俺、泣かねえけど」

「泣け」

「命令すんな!」

 紬が二人の間に視線を行ったり来たりさせて、楽しそうに笑う。笑いながら、机の端に指を置いて体を支える。ほんの一瞬、力が抜けたみたいに肩が落ちる。

 その瞬間、蓮が椅子を引いた音が大きく鳴った。

「……紬。今日はもう帰る時間、決めてるんだろ」

「うん。そんなに長くは、いられない」

 紬はさらっと言って、湊を見る。

「だから、会えてよかった」

 湊は軽く手を振った。

「大丈夫だって。卒業式まで、まだ時間ある。部室にも何回でも来れるだろ」

 紬は笑って頷いた。頷き方が、少しだけ小さかった。

「うん。来る」

 蓮は何も言わず、窓の外を見た。校庭の向こうで、卒業式の看板が風に揺れている。

 湊はスマホをしまいながら、いつも通りの調子で言った。

「じゃあ次、オムライスの打ち合わせな。ケチャップの文字、練習しとくわ。ミスったら『紬』が『紡』とかになるかもしれん」

「それ、別の部活になるね」

「紡績部?」

「あるの?」

「知らん!」

 紬がまた笑って、咳を飲み込んだ。

 その咳の音だけが、部室の隅に小さく残った。湊は気づかないふりで、机のメモを持ち上げる。

「よーし。『約束のオムライス』、開店準備だ。部長、久々に腹……じゃなくて、心、減ってるだろ?」

 紬はカップを胸の前で抱えたまま、ふっと目を細めた。

「うん。すごく」


 湊がスマホを伏せると、部室の空気がふっと軽くなった。

 窓の外は夕方の光で、校庭の白線が薄く溶けている。机の上には、誰かが持ってきた紙ナプキンと、使いかけのペン。最後の晩餐部らしい、妙に生活感のある散らかり方だった。

「で、湊くん」

 紬が椅子の背にもたれて、指先で机をとんとん叩く。

「今日のメニューは? 映えは? 盛り付けは?」

「いや、映えは……」

 湊は言いかけて、蓮の視線に刺されて飲み込んだ。

 蓮は腕を組んだまま、露骨にため息をつく。

「映えとか言ってる時点で信用ゼロ」

「お前さっきから厳しすぎだろ」

「厳しくしないと、こいつはすぐ盛る」

「盛るな。盛るのは卵だけにしろ」

 紬が吹き出して、口元を手で隠した。笑い声が一拍遅れて、少しだけ短い咳に変わる。

「……っ、けほ」

「大丈夫?」

 湊が反射で聞くと、紬はすぐに親指を立てた。

「大丈夫。笑いすぎただけ。湊くんの語彙が油っこいから」

「油っこいのはオムライスに必要だろ」

「必要なのは優しさです」

「どっちも入れりゃ最強だな」

 湊が軽く返すと、紬は「それそれ」と頷いた。けれど頷いたあと、視線が一瞬だけ机の端に落ちた。そこにある小さな白いケース――薬のケースのようなものに、指が触れそうで触れないまま止まる。

 蓮がその手元を見て、視線を逸らすのが早かった。

 湊は気づかず、椅子を引き寄せる。

「なあ、紬。俺さ、考えたんだけど」

「うん?」

 紬は顔を上げる。いつもの笑顔で、目がまっすぐ湊を迎えた。

「卒業式の後さ。……俺の家、来てください」

 部室の空気が、ぴしっと止まった。

「は?」

 蓮の声が低くて短い。

 紬は瞬きして、次の瞬きの間に笑いを作った。

「湊くん、それ告白のテンポだよ。練習した?」

「してねえよ! 違う、違う。そうじゃなくて」

 湊は慌てて手を振り、言葉をつなぐ。

「みんなで、だよ。最後の晩餐部として」

「……」

 蓮の目が細くなる。

「お前、何企んでる」

「企んでねえって。企むならもっと計画的にやる」

「それはそれで怖い」

 紬がくすくす笑って、肩をすくめた。

「湊くんの家、どんな家?」

「普通。……たぶん。うち、飯は基本、各自って感じだけど」

「へえ」

 紬は興味深そうに首を傾げる。その動きが少しだけゆっくりで、頬の色が夕方の光に紛れて淡く見えた。

 湊はそこに意味を見つけないまま、話を押し進めた。

「俺さ、作りたいんだよ。オムライス」

「オムライス」

 紬がその言葉を繰り返す。舌の上で転がすみたいに、丁寧に。

「例の、不揃いなやつ?」

「そう。あの不揃いなオムライス」

 湊が笑うと、紬も笑った。

「ふふ。写真、撮りづらいやつ」

「撮りづらいって言うな! でも、そう。だからこそ、だよ」

「だからこそ?」

 湊は頷いて、机の上のペンを指で回した。うまく言える気がしないのに、言わないと消えてしまいそうだった。

「卒業式って、なんかさ……終わるじゃん。いろいろ」

「終わるね」

 紬の声が柔らかくて、湊の背中が少しだけ熱くなる。

「だから、終わったあとに、俺んちで。みんなで食べよう。ちゃんと……食べたことにしよう」

「食べたことに」

 紬が目を細める。笑ってるのに、そこだけ静かだった。

 蓮が椅子を軋ませて前に出る。

「お前、簡単に言うな」

「簡単じゃねえよ。俺なりに結構、真面目に言ってる」

「真面目に言ってる顔が軽い」

「顔の仕様だろ!」

 紬が「仕様って」と笑って、また短く咳をする。

「……けほ」

「紬」

 蓮が名前だけ呼ぶ。声が柔らかくなりかけて、すぐ硬く戻る。

「水、いる?」

「いらない。蓮、過保護」

 紬はそう言って、蓮の眉間を指でつんと押した。

「湊くんの提案、続き聞きたい」

「続きっていうか、もう全部言った」

 湊は頭を掻いて、照れ隠しに笑う。

「卒業式の後、俺の家に来てください。あの不揃いなオムライス、俺が作ります。みんなで食べましょう」

 言い終わった瞬間、部室の時計の秒針がやけに大きく聞こえた。

 紬はゆっくり息を吸って、口角を上げた。

「……うん」

 その「うん」が、すごく小さいのに、部室いっぱいに広がった。

「行く」

 湊は胸の奥がふっと軽くなるのを感じて、勢いで親指を立てた。

「よし。決まり。蓮もな」

「俺は——」

 蓮が反射で拒否しかけて、紬の顔を見た。紬は何も言わない。ただ、笑っている。

 蓮は舌打ちを飲み込んだみたいに口を結び、視線を湊に戻す。

「……行く。監視役として」

「監視って。俺、犯罪者かよ」

「卵を半熟にする罪」

「それはむしろ褒めろ」

 紬が両手を合わせた。

「じゃあ、約束ね。卒業式の後」

「約束」

 湊が繰り返すと、紬は指を一本立てた。

「条件がある」

「条件?」

「映えを捨てること」

「捨てるの!?」

 蓮が鼻で笑う。

「無理だろ」

「無理じゃねえ! ……たぶん」

 湊が言い直すと、紬が嬉しそうに頷いた。

「もう一個」

「まだあんのか」

「不揃いを、直そうとしないで」

 湊は一瞬、意味がわからなくて瞬いた。

「直さない?」

「うん。不揃いのままがいい」

 紬は笑ったまま、視線を窓の外に投げた。夕日がガラスに反射して、彼女の瞳の奥に小さな光が揺れる。

「湊くんのオムライスは、湊くんの話の味がするから」

「話の味ってなんだよ」

「ふふ。甘くて、ちょっと焦げてて、最後にバターの匂いがする」

「勝手に匂い足すな!」

「足したくなるんだもん」

 紬が笑い、蓮が呆れた顔をして、湊はその二人を見比べる。

 なんだ、うまくいきそうじゃん、と湊は思った。

 その瞬間、紬の肩がわずかに揺れて、笑顔のまま一拍だけ、呼吸が途切れる。

 けれど次の瞬間には、いつもの調子で手を叩いた。

「じゃあ決まり。卒業式の後、湊くんの家で、最後の晩餐部オムライス会」

「最後の晩餐部って言うなよ、縁起でもねえ」

 湊が笑い飛ばすと、紬も笑った。

 蓮だけが笑わないまま、窓の外の光を一度見てから、紬の横顔に視線を戻した。何か言いたそうに口を開きかけて、結局、飲み込む。

 湊は気づかず、スマホを持ち上げる。

「じゃ、写真撮っとく? 約束の証拠」

「証拠って」

 紬が身を乗り出して、カメラに顔を寄せた。

「撮ろう。約束は、残したほうがいい」

 その言い方だけ、ほんの少しだけ重かった。

 湊は「真面目かよ」と笑って、シャッターを切った。


 湊がスマホをしまうと、部室の空気がふっと軽くなった。

「じゃーん。約束、覚えてる?」湊は胸を張る。「オムライス。次はちゃんと“食わせる”ってやつ」

「言い方」蓮が即座に突っ込む。「お前、紬に何させる気だ」

「いや、食べさせるじゃなくて、聞かせるって意味で――」

「余計に怪しいわ」紬が笑って、指先で机をトントン叩いた。「湊くんの言葉オムライス。ふわとろ?」

「ふわとろで、ケチャップで、旗も刺す」湊は即答した。「映えるやつ」

「旗は刺さなくていい」蓮が眉間に皺を寄せる。「部室で何を完成させる気だ」

「完成させるのは物語だろ?」湊は肩をすくめた。「味の方は……任せろ。俺、写真は得意だから」

「味じゃなくて写真なのが怖いんだけど」紬が声を立てて笑う。笑い終わり、呼吸の合間が一拍だけ、薄く空いた。

 湊は気づかないふりで、机の上の部誌を指で弾いた。「で、いつにする? 放課後? 週末?」

 紬は「うーん」と唇を尖らせ、視線を窓の外へ逃がした。ほんの一瞬、笑みがほどけて、指先が自分の袖口をつまむ。

 湊はその仕草を、単に予定を探してるだけだと思った。

「今週の土曜とか?」湊が畳みかける。「俺、家の台所空いてるし。材料も買える。ケチャップは高いやつにする」

「ケチャップにランクあるのかよ」蓮が呆れたように言い、すぐに紬へ目をやった。

 紬の返事がない。

 蓮の顎が、わずかに強張る。表情が固まって、机の縁を掴む指に力が入った。

「紬」蓮の声が低くなる。「無理なら――」

「無理じゃないよ」紬がぱっと顔を上げた。

 作ったみたいに、綺麗に笑う。

「楽しみにしてる」紬は言った。言葉の最後を、いつもより少しだけ丁寧に置くみたいに。

「だろ?」湊は勝ち誇ったように頷く。「期待していい。俺のオムライス、世界を救う」

「世界は救わなくていい」蓮が即座に返す。「お前はまず、紬の胃袋じゃなくて脳内を救え」

「脳内って言うなよ。ロマンがない」

 紬がくすくす笑って、喉の奥を押さえるように手を添えた。すぐに手を引っ込め、何もなかったみたいに背筋を伸ばす。

「じゃあ、土曜」紬が言う。「湊くんの、旗つきオムライス」

「旗は刺さないって言っただろ」蓮がため息をつく。

「刺す」湊が譲らない。「刺してこそ、約束って感じがする」

 紬は「うん」と頷いた。頷き方が小さくて、でも目だけはしっかり湊を見ていた。

 蓮はその視線を横から受け止めて、何か言いかけて、飲み込む。口元が一瞬だけ歪む。

 湊は気づかず、スマホを取り出してカレンダーを開いた。

「よし、決定。土曜、オムライス記念日。映え写真も撮る。紬、ケチャップで何描いてほしい? ハート? 猫?」

「……猫」紬が答えるまでに、ほんの短い間があった。

 湊はその間を、ただの照れだと思って笑った。

「よし。猫でいく。任せろ、俺、猫の写真は得意だから」

「だから写真じゃなくて」蓮が頭を抱える。

 紬は笑いながら、もう一度だけ言った。

「ほんとに、楽しみにしてる」

 その言葉の裏側に、薄い影が一枚だけ重なった気がしたが、湊は「期待の重さってやつだな」と勝手に解釈して、カレンダーに大きく丸をつけた。


 窓の外がオレンジに染まっていく。部室の床に伸びた影がゆっくりと形を変え、机の上の紙コップが夕陽を透かして薄く光った。

 湊は椅子の背にもたれ、スマホをいじっていた。画面にはさっき撮った部室の写真。逆光でいい感じにエモい。投稿文を考えながら、ちらりと紬を見る。

 紬は窓際の席で、頬杖をついていた。笑っているようで、笑っていないような、夕暮れの光に紛れる表情。

「なあ、紬」

「んー?」

「今日、やけに静かじゃね? 部室ってこんなに黄昏れる場所だったっけ」

「黄昏れる場所だよ。だって、最後の晩餐部だもん」

「それ、万能ワードすぎ」

 湊が笑うと、紬も小さく笑った。笑い声が、途中でふっと途切れる。

「……ごほっ」

 紬が口元を押さえた。咳は一回だけ。すぐに手を下ろして、何事もなかったみたいに湊を見上げる。

「今の、夕陽の粉吸った?」

「夕陽に粉はないよ」

「あるって。黄昏粉。知らん?」

「知らない世界が増えていく」

 紬は笑って、机の端に置いてあった水筒に手を伸ばしかけて、止めた。指先が宙で迷って、結局、机の上を軽く撫でるだけで戻る。

 湊はそれを「飲み物いらない派なんだな」くらいに流して、スマホを伏せた。

「でさ。オムライス」

「またオムライス」

「だって約束したじゃん。俺が“ちゃんとしたやつ”作るって」

「ちゃんとしたやつ、って何」

「なんかこう……ふわとろ? 割ったらトロッてなるやつ。SNSでよく見るやつ」

「映え優先」

「うるせ。映えは大事。味は……まあ、雰囲気で」

「雰囲気で食べるの?」

「雰囲気で生きてきた男だぞ」

 紬が吹き出して、肩を揺らした。笑い終わったあと、少しだけ視線が落ちる。机の木目を見つめるみたいに。

「……ねえ、湊」

「ん?」

「約束ってさ」

「うん」

「守れる約束だけ、する?」

 湊は間髪入れずに返した。

「守れない約束はしない。……って言いたいけど、してるわ俺。『痩せる』とか『早寝する』とか」

「それは守る気がないやつ」

「違う。守る気はある。毎回ある。毎回」

 紬はくすっと笑った。けれど、笑いの端がどこか薄い。夕陽が沈む速度に合わせて、部室の空気も少しずつ冷えていく。

「じゃあさ」

 紬が身を乗り出した。机の上に両肘をついて、湊の方へ小さく手を伸ばす。

「小指、出して」

「小指? なに、指相撲?」

「違う。指切り」

「急に昭和!」

「令和でもするよ。たぶん」

「たぶんってなんだよ」

 湊は笑いながらも、小指を立てて差し出した。紬の小指が、そこに絡む。細くて、驚くほど冷たい。

 湊は反射的に言う。

「手、冷たっ。部室の暖房、まだ早いか」

「……夕暮れって冷えるから」

 紬はそう言って、絡めた小指に少し力を入れた。指先が震えているように見えたのは、夕陽の揺らぎのせいだろう、と湊は勝手に決めた。

「で? 何の約束」

「オムライス」

「それさっき言った」

「違うの。オムライスを――食べる約束」

「食べる約束って、そりゃ食べるだろ。俺が作ったら、食べ……」

 湊はそこで言いかけて、言葉を飲み込んだ。紬の瞳が、まっすぐすぎるくらいまっすぐだったからだ。ふざけて返したら、もったいない気がした。

「……食べる。うん。食べる約束」

「いつ?」

「いつでも。来週でも、今週末でも。材料買って――」

「“いつか”じゃなくて」

 紬が言った。声は軽いのに、机の下で何かが沈んでいくみたいな響きがあった。

 湊はそれを「紬、意外とせっかちだな」と受け取って、胸を張る。

「じゃあ、決める。文化祭終わったら。終わった次の日。放課後。ここで」

「ここで?」

「ここがいいだろ。最後の晩餐部なんだから。……あ、いや、最後って言っても縁起悪いな。訂正。最高の晩餐部」

 紬は口を押さえて笑った。笑いながら、ほんの一瞬だけ眉が寄った。すぐに戻る。

「最高の晩餐部」

「そう。俺がオムライス作って、紬が――」

 湊は言いかけて、また止まった。紬が「食べる」と言い切れるかどうか、そこに触れたらいけない気がした。だから、代わりに言葉を変える。

「……紬が、満腹になるまで話す。味の話、めっちゃする。ケチャップの酸味とか、卵の甘さとか。俺、できる気がする。最近、だいぶ」

「うん」

 紬は頷いた。頷き方が、やけに丁寧だった。

「指切りげんまん」

 紬が歌うように言う。

「嘘ついたら針千本飲ます」

 湊が続けた。

「……飲めないよ、針」

「じゃあ俺が飲むわ」

「湊が飲んだら意味ない」

「意味あるだろ。俺が痛い」

「それはただの優しさ」

 紬の声が弾んで、また咳が喉の奥で引っかかったみたいに止まる。けれど今度は咳にならず、息を一度、深く吸って飲み込んだ。

「……ねえ、湊」

「ん?」

「約束、破ったらさ」

「針千本」

「針千本じゃなくて」

 紬は小指をほどかずに、湊の指を軽く引いた。まるで確認するみたいに。

「……怒る?」

 湊は即答した。

「怒る。全力で怒る。ぷんぷんで済まさない」

「どんな怒り方」

「オムライスの上にケチャップで『怒』って書く」

「かわいい」

「かわいくない。こわいだろ」

「こわい」

 紬が笑って、目尻を細めた。その笑顔はいつもの紬のままだったのに、夕陽の色のせいか、どこか薄紙一枚向こうにあるみたいに見えた。

 湊はその薄さを「逆光って人を儚く見せるな」と、また写真のことに結びつける。

「よし。約束成立」

 湊が言うと、紬は小指をほどき、手を引っ込めた。引っ込める途中で、指先が一瞬だけ机の上に触れ、そこに残り香みたいな冷たさだけが残った。

 紬は背もたれに体を預ける。肩が少し落ちる。ほんの数秒だけ、目を閉じた。

「疲れた?」

 湊が聞くと、紬はすぐに目を開けた。

「ううん。お腹いっぱい」

「まだ何も食ってないのに?」

「今、約束食べた」

「なにそれ。カロリーゼロ理論?」

「約束は高カロリーだよ。守るの大変だから」

「じゃあ俺、文化祭終わったら脂質控えるわ」

「控えなくていい。オムライスは脂質」

「むしろ脂質の塊」

「それがいい」

 紬が言った。短く、きっぱりと。

 窓の外の光がさらに傾いて、部室の隅が少し暗くなる。机の上に置かれた紬のペンケースが、影の中に半分沈んだ。

 廊下の方から、誰かの足音と笑い声が遠くに聞こえる。部室だけが、夕暮れに取り残されたみたいだった。

 湊は立ち上がって、伸びをした。

「よし。帰るか。明日も準備あるし」

「うん」

 紬も立とうとして、椅子の肘掛けに手を置いたまま、ほんの一拍遅れた。

 湊はその遅れを見て、「座り心地よすぎたか」と勝手に思い、手を差し出す。

「ほら」

「……ありがと」

 紬は湊の手を取った。指先がまた冷たくて、湊は「夕暮れってすげえな」と心の中で結論づける。

 立ち上がった紬は、いつも通りに笑った。

「文化祭、楽しみだね」

「当然。俺が映えさせる」

「映えの神」

「拝め」

「拝む」

 紬がふざけて手を合わせる。その動きが少しだけゆっくりで、湊は「丁寧キャラもいけるじゃん」と思った。

 部室の電気を消す前、湊は窓の外を見た。沈みかけの太陽が、校舎の角に引っかかっている。

「オムライス、楽しみにしとけよ」

「うん」

 紬は小さく頷いた。頷いてから、一瞬だけ湊の小指を見る。

 それから何も言わず、笑ったまま、視線を上げる。

「約束、だよ」

「約束。指切りしたし」

 湊が軽く言うと、紬は「うん」とだけ答えた。

 その「うん」が、夕暮れの奥にすっと沈んでいくみたいに聞こえたのに、湊はドアを開けながら、明日の投稿のネタを考えていた。


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大学生の松岡翔太が小学生の女の子の松岡翔子になって二度目の人生を始める話

失恋中なのに隣の幼馴染が僕をかまってきてウザいんですけど?

さいとう みさき
青春
雄太(ゆうた)は勇気を振り絞ってその思いを彼女に告げる。 しかしあっさりと玉砕。 クールビューティーで知られる彼女は皆が憧れる存在だった。 しかしそんな雄太が落ち込んでいる所を、幼馴染たちが寄ってたかってからかってくる。 そんな幼馴染の三大女神と呼ばれる彼女たちに今日も翻弄される雄太だったのだが…… 病み上がりなんで、こんなのです。 プロット無し、山なし、谷なし、落ちもなしです。

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