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第9話:空席のディナー
第9話:空席のディナー
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湊の部屋のドアが、やけに軽く開いた。
机の上には、ケチャップ、バター、玉ねぎ、鶏肉、卵。米は朝から炊いて、炊飯器の中でまだ湯気を抱えている。買ってきたばかりのフライパンは、黒く光って、まだ少しだけ工場っぽい匂いがした。
壁には、百均で買ったガーランドが斜めに張られている。「おめでとう」の文字が、どこか間の抜けたフォントで揺れていた。
湊はスマホを確認して、指で画面を二回叩いた。
「……よし。まだ時間ある」
テーブルの上には、紙ナプキンと、白い皿が二枚。フォークとスプーンも二組。スプーンは、紬が前に「オムライスはスプーンのほうが勝ち」と断言していたから、わざわざ揃えた。
椅子も二脚。ひとつはいつも湊が使うやつで、もうひとつは押し入れから引っ張り出してきた折り畳み椅子だ。座面の布が少し色あせていて、湊はそこにクッションを置いた。
「……よし。完璧」
鏡の前で、自分のネクタイを外して投げ、制服の上着だけハンガーにかけた。卒業式の写真は、もう何枚も上げた。ストーリーにも流した。既読といいねの波は、今も画面の奥で続いている。
湊はスマホを置いて、深呼吸する。
「今日は、映えじゃない。味……は、俺わかんないけど。雰囲気は勝つ」
キッチンの小さなスペースに立ち、玉ねぎをまな板に置いた。包丁を握る手が、妙に気合い入っている。
「玉ねぎ……泣くって言うけど、俺は泣かねえ」
刃を入れた瞬間、目がじわっと来た。
「……泣くじゃん」
湊は笑って、目をこすりかけてやめた。手に玉ねぎの匂いがつくのが嫌だった。代わりに袖で目尻をこすって、鼻で息を吐く。
スマホが震えた。
湊はすぐ取った。画面には「蓮」。
「お、蓮。お前も卒業おめでとー。今どこ?」
『……湊、紬から連絡来てるか』
「え? いや、まだ。てか、あと二十分で来るって――」
『……そうか』
電話の向こうで、息を呑む音がした。小さく、布を擦るみたいな音もする。駅のホームか何かだろうか。
湊は玉ねぎを炒めながら、肩でスマホを挟んだ。
「何その間。お前さ、今日ぐらい普通に祝えよ。卒業だぞ? 俺ら」
『……祝ってる』
「声が祝ってねえ」
『……湊。紬、最近――』
「最近? 最近も元気だろ。部室でめちゃ笑ってたし。『最後の晩餐部は不滅です』とか言ってたし」
『……』
「なに、また『偽物』とか言う気? 今日俺、ガチだから。オムライス材料も揃えたし。椅子も二脚。スプーンも二つ。ケチャップでハート描ける練習も――」
『練習したのか』
「した。三回失敗した」
『……』
蓮の沈黙が、炒める音に負けていく。バターが溶けて、玉ねぎが透けて、部屋の中に甘い匂いが広がった。
湊はフライパンを揺すって、明るく言う。
「で? 何。紬から連絡来ないってだけ? あいつさ、たまにスマホどっか置いて『あれ~?』ってやるじゃん。あのノリだろ」
『……湊、ドアは開けるなよ』
「は?」
湊の手が止まった。バターがじゅっと鳴いて、焦げる直前の匂いが混じる。
「何その怖い言い方。サプライズ? お前、紬と組んで何かやってんの?」
『違う。……とにかく、開けるな。紬が来るまで、誰が来ても』
「誰が来てもって、うちに来るの紬だけだろ。……いや、母さんは帰ってこないし」
『……』
湊は笑って誤魔化すように、フライパンの中をかき混ぜた。
「わかったわかった。開けない。俺、今日のオムライスに集中する。で、お前は? 来ないの?」
『俺は――』
言いかけて、蓮は飲み込んだ。
『……行けたら行く』
「行けたらって何だよ。卒業式後だぞ? 予定あるなら言えよ」
『……』
「ま、いいや。紬が来たら、二人で食べさせてもらう。お前、あとで泣くなよ」
湊は勝ち誇った声を作った。蓮は、笑わなかった。
『……湊。』
「ん?」
『……ケチャップ、買いすぎるなよ』
「え、何その忠告。俺、チューブ二本買ったけど?」
『……そうか』
電話が切れた。
湊はスマホを見つめて、首を傾げた。
「……意味わかんねえ。ケチャップは正義だろ」
玉ねぎがいい色になってきた。鶏肉を入れ、塩胡椒を振る。ごはんを投入して、ケチャップを躊躇なく絞った。
「よし。これが、紬の『物語の材料』ってやつだ」
湊は、紬が笑いながら言っていた言葉を思い出す。
『湊くんの話、ちゃんと味がするんだよ。塩とか砂糖とかじゃなくて、気持ちの味』
そのとき紬は、少しだけ咳き込んで、喉元を押さえた。湊は「笑いすぎ」と言って水を渡した。紬は「うん、笑いすぎ」と笑って、また話をせがんだ。
湊は卵を割る。殻が一片、指に刺さって痛い。
「っ、くそ。……今日、完璧って言ったのに」
指先を拭きながら、湊は時計を見る。
約束の時間まで、あと十分。
テーブルの皿をもう一度拭いて、ナプキンの角を揃える。ガーランドの位置が気になって直そうとして、結局もっと斜めになった。
「……まあ、手作り感ってことで」
スマホがまた震えた。
湊はすぐ取る。通知は、紬からじゃない。クラスのグループチャットだった。
『二次会どこ行く?』
『カラオケ!』
『湊、写真送って!』
湊は画面を閉じて、裏返しに置いた。
「今日は、そっちじゃない」
部屋の空気が、料理の匂いで満ちていく。いつもはコンビニの袋の匂いしかしない部屋が、急に誰かの家みたいになった。
湊は、折り畳み椅子のクッションをぽんぽん叩いた。
「……紬、座り心地いいだろこれ。俺、わざわざ選んだんだぞ」
返事はない。もちろん、まだ来ていない。
湊は笑って、炊飯器の蓋を開けた。湯気がふわっと立ち上る。
「湯気、映えるな……いや、映えじゃない。湯気は、あったかいってことだ」
卵を焼く準備をして、フライパンを温める。バターを落とすと、じゅわっと音がした。
その音に混じって、遠くで救急車のサイレンが通り過ぎた。窓の外のどこかを、赤い光がかすめていく。
湊は、ほんの一瞬だけ窓に目をやって、すぐ戻した。
「この辺、救急車多いな。卒業シーズンって、何かあるのか?」
自分で言って、意味がわからず笑う。
時計の針が、約束の時間を指した。
湊は手を拭いて、スマホを取る。メッセージ画面を開き、紬の名前を押しかけて、やめた。
「……あと五分ぐらい、余裕だろ」
湊は卵を流し入れた。黄色が広がって、ふわっと固まり始める。
「紬、今日さ。卒業おめでとうって、ちゃんと言うから」
卵の端を箸で寄せる。うまくいきそうで、いかない。形が少し崩れて、湊は舌打ちしそうになって飲み込んだ。
代わりに、声を上げる。
「……よし、これも手作り感!」
テーブルの二枚の皿が、静かに待っている。片方は湊の席、片方は空席。
湊はその空席を、当然のように「もうすぐ埋まるもの」として見ていた。
湊は部室のドアを肘で押し開け、紙袋を机の上にどさっと置いた。
「よし。今日の“晩餐”、仕入れてきた」
袋の口から、コンビニの新作スイーツと、派手なパッケージのカップ麺がのぞく。湊はスマホを構え、反射で机の木目まで映える角度を探した。
「映えは正義……っと。あとで紬先輩に見せたらウケるやつ」
椅子を引いて座り、時計を見る。針は集合時間の五分前を指していた。
「余裕、余裕」
既読も付かないグループチャットを開き、親指で軽く画面を叩く。
「『着いた。部室いる』っと」
送信。
湊は机の上に並べたパッケージを一つずつ回して、写真を撮っては消し、撮っては消した。窓の外で部活帰りの声が遠ざかっていく。
時計を見る。集合時間ちょうど。
「……あれ?」
湊は立ち上がって廊下側の小窓を覗いた。誰も来ない。下駄箱の方から足音が――と思ったら、通り過ぎる別の生徒だった。
「ま、女子は準備に時間かかるしな。紬先輩は……点滴とか? いや、そんなの部室でやらんか」
自分で言って、自分で笑ってしまう。
「やべ、俺、想像力が暴走してる」
チャットをもう一度開く。紬のアイコンの横は静かなまま。蓮も、既読が付かない。
「電波? この部室、圏外みたいな時あるし」
湊はスマホを上に掲げたり、窓際に寄ったりしてみる。アンテナは普通に立っている。
「立ってるじゃん。じゃあ……寝坊?」
湊は椅子に戻り、机の端を指でトントン叩いた。空気が、じわっと冷えてくる。さっきまでの勢いが、部室の壁に吸われていくみたいだった。
「……蓮は、遅刻とかしなさそうだけどな。紬先輩が『今日は遅れるねー』ってノリで言うなら、絶対スタンプ付けるし」
湊はスタンプ欄を開いて、勝手に想像した。
「『ごめーん!』みたいな。これ。これ使いそう」
送られてこない画面を見つめながら、湊は笑いをこぼす。笑い声が部室の天井に当たって、すぐ落ちた。
時計を見る。五分過ぎ。
「……ま、五分は誤差。人間だもの」
十回くらい聞いたことのある自分の言い訳を、今日も口にした。
湊は紙袋からスイーツを取り出して、机の中央に置き直した。誰かが入ってきた瞬間、すぐ“始められる”ように。
「よし。並べとく。紬先輩、絶対『わー!』って言う」
言いながら、湊は一瞬、紬の声を思い出そうとして、うまく再生できなかった。いつも聞いているはずなのに、音が遠い。
「……なんだよ、俺。昨日寝不足だったし」
時計を見る。十分過ぎ。
湊は立ち上がってドアを開け、廊下に顔を出した。
「おーい。誰かー。最後の晩餐部、開店してまーす」
返事はない。遠くで誰かの笑い声。別の教室のドアが閉まる音。
湊は肩をすくめて戻り、ドアを閉めた。閉めた瞬間、部室の静けさがきゅっと締まった。
「……静かすぎ。俺の独壇場じゃん」
独壇場なのに、スマホのシャッター音も、今日はやけにうるさく感じる。
湊はチャットにもう一度打つ。
「『みんな、今日どうした?』」
送信。
送ってから、すぐ取り消したくなる。焦ってるみたいでダサい。湊は自分に向かって小さく舌打ちした。
「いや、普通。普通の確認」
時計を見る。十五分過ぎ。
湊はまた廊下側の小窓を覗いた。視界の端で、自分の顔がガラスに映る。妙に真面目な顔をしていた。
「……俺、待つの下手かよ」
誰もいない椅子を見回す。紬がいつも座る席。蓮がいつも背もたれに腕を乗せる席。今日は、全部ただの木と金属だ。
湊はわざと明るく言った。
「よし。じゃあ、俺だけで予行演習するか。今日のメニュー紹介」
机に向かって、湊は指で一つずつ示す。
「まず、この新作プリン。パッケージの金の箔がさ、もう高級感。で、次にこのカップ麺。名前がもう強い。『背徳』って書いてある。背徳だよ? 食ったら罪になるやつ」
部室は笑わない。
湊は喉を鳴らして、咳払いみたいに息を整えた。
「……あれ? 喉乾いたな」
自販機に行こうとして、足が止まる。今出たら、入れ違いになる気がした。
「いや、来るでしょ。絶対。だって、今日……」
“今日”の続きを言いかけて、湊は言葉を飲み込んだ。何が今日だったのか、自分でもうまく掴めない。
時計を見る。二十分過ぎ。
湊はスマホを握りしめて、蓮の個チャを開いた。指が止まる。蓮に直接送るのは、なんか負けた気がする。
「……いや、負けとかじゃない。連絡だし。普通の」
打ち始める。
「『蓮、今どこ? 部室いるけど』」
送信。
既読が付かない。
湊は笑って、机の端に額を軽く当てた。
「おいおい。みんなして俺を置いてドッキリとか、そういうの? やめて? 心臓に悪い」
机に当てた額が冷たい。部室の空気も、さっきより一段冷たい。
湊は顔を上げ、窓の外を見る。夕方の光が斜めに差して、机の上のスイーツのプラスチックが鈍く光る。誰かの手が伸びる予定だった場所に、光だけが落ちている。
「……遅いな」
言った声が、自分でも驚くほど小さかった。
湊はもう一度、グループチャットを開いた。紬のアイコンを見て、指で軽くなぞる。
「先輩、充電切れとか? そういうオチでしょ」
誰に向けるでもなく言いながら、湊は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。
ドアノブに手をかけて、止まる。
「……迎えに行くか。いや、でも、来るかもしれないし」
迷って、結局ドアを開けた。廊下の冷たい空気が流れ込んでくる。
湊は廊下を見渡し、声を張った。
「紬先輩ー! 蓮ー! いるー!?」
返事はない。
湊は笑いながら、でも笑いきれないまま、もう一度だけ言った。
「……今日、やる日だよな?」
湊はスマホを顔の前にかざし、指先で画面を拭いた。光が反射して自分の目だけが映る。フィルターを変える。色温度を少し下げる。
机の上には、買ってきたコンビニのパックサラダと、蓋の閉まったままのプリンが並んでいた。紬に聞かせるつもりで、パッケージの写真を何度も撮っている。
「……これ、映えるのか?」
独り言が部屋の壁に当たって戻る。返事はない。
湊はメッセージ画面を開いた。最後の送信はさっき。
『今日、部室寄る? 新作ストーリー用意した』
既読がつかない。電波は立ってる。なのに、画面は静かだ。
「蓮のやつ、また見張ってんのかな。既読つけるなとか言ってさ」
湊は笑ってみせて、プリンの蓋を指で叩いた。カタカタと軽い音。
「いや、でも紬、既読つけるタイプだろ。……寝てんのか。そうだよな、点滴の日とか眠いって言ってたし」
言い訳みたいに言葉が並ぶ。湊はサラダの袋を開けようとして、やめた。匂いが立つと、せっかくの「語り」が薄まる気がした。
机の隅の部活ノートを開く。紬が書いたメニューの落書きが残っている。丸っこい字で「次は“冬の屋台”」と書かれて、その横に小さな星。
「冬の屋台、な。……よし」
湊は喉を鳴らし、声を作った。
「まずは、焼きとうもろこし。醤油が……」
そこでスマホが震えた。
机の上を滑るように振動し、プリンの容器に当たって止まる。画面に表示された名前を見て、湊は眉を上げた。
「蓮?」
この時間に電話。珍しい。いつもなら短文で済ませるやつだ。
湊は通話ボタンを押した。
「お、どうした? 今ちょうどさ——」
返事が来ない。息の音だけが、耳にかかる。距離の向こうで何かが擦れる音。布か、シーツか。
「……蓮? 電波悪い?」
「……」
「もしもし? おい、聞こえる?」
ようやく、低い声が落ちてきた。
「湊」
「うん。なんだよ、急に改まって」
湊は椅子にもたれた。肩の力を抜く。蓮がこういうテンションの時って、大体、説教か、紬の体調の小言か、どっちかだ。
「今日は部室、行けないって? 紬、また点滴長引いた?」
「……」
「え、なに。無言で圧かけるの新しいな。怖いって」
湊は笑いながら、プリンの蓋をまた叩いた。カタカタ。向こうの息は重い。
「湊」
「はいはい」
「……紬が、逝った」
湊は瞬きを一回した。
「……え?」
声が自分のものに聞こえない。湊はスマホを耳から少し離して画面を見た。通話はつながっている。圏外じゃない。名前も合ってる。
「ちょ、待て待て。……言い方。縁起でもないやつ。冗談やめろって」
「冗談じゃねぇ」
蓮の声が掠れていた。怒鳴っているようで、どこか引っかかる。言葉の端が欠けている。
湊は喉の奥を指で押したみたいに、うまく息が入らなかった。だから、軽く返した。軽く返せば、軽い話に戻ると思った。
「いや、だからさ。『逝った』って何。どこ行ったの? 病院? 家? ……逃げた? 俺のストーリーが微妙だったとか」
「湊」
「だって、紬、そういうの言うじゃん。『今日の味、ちょっと薄い』とかさ」
「死んだって言ってんだよ」
言葉が、電話の向こうから真っ直ぐ刺さる。湊は笑いの形を作りかけて、口の端が引っかかったまま止まった。
机の上のサラダの透明な蓋が、部屋の灯りを返して眩しい。プリンのカラメルが黒く沈んでいる。
「……え、えっと。え? いや……」
湊は椅子の背から体を起こした。床に足をつけ直す。何かしなきゃいけないのに、何をすればいいか分からない。
「蓮、今どこ?」
「病院だ」
「病院、って……いつから?」
「さっき。……急だった」
急。紬がよく笑っていたのが、急。昨日も、急。湊の頭の中で、言葉が噛み合わない。
「急って……。いや、でも、紬、昨日も普通だったろ。『次は屋台』って——」
湊はノートのページを指で押さえた。星の落書きが滲んだように見える。
「……普通だった」
蓮が言う。普通という単語が、ひどく固い。
「普通に見せてただけだ」
「見せてたって……」
湊は笑いに逃げた。
「いやいや、紬、役者かよ。俺、騙されるタイプじゃないって。……だって、咳とかさ、いつものやつだったし。薬も、ほら、いつも——」
「いつもじゃねぇよ」
蓮の声が震えた。怒りじゃない。別のものが混ざる音だった。
「いつもって言って、見ないふりしてただけだろ」
湊は言い返そうとして、言葉が出なかった。喉の奥に、さっき作ろうとした「焼きとうもろこし」の醤油の匂いの想像だけが残って、変に甘ったるい。
「……俺、今から行く」
「来るな」
即答だった。
「は? なんでだよ」
「来ても、もう……」
蓮はそこで言葉を切った。電話の向こうで誰かが名前を呼ぶ声がした。看護師か、家族か。遠いのに、はっきり聞こえた。
湊は立ち上がった。椅子が床を擦る音が大きい。自分の部屋なのに、他人の家みたいに響く。
「来るなって意味わかんねぇ。部活だろ。最後の晩餐部だろ? 部長が——」
言いかけて、湊は舌を噛みそうになった。「部長が」から先が続かない。
蓮が小さく息を吸う。
「……湊」
「なに」
「紬、最後に……お前の話、聞きたいって言ってた」
湊はスマホを握り直した。手のひらが妙に冷たい。机の上のプリンが、まだ開けられないままこちらを見ている。
「じゃあ、ほら。今、俺——」
「間に合わなかった」
蓮の声が、そこで一段低くなった。
湊は口を開けたまま、目だけが動いた。ノートの星。サラダの透明。プリンの蓋。全部が、同じ場所にあるのに、遠い。
「……間に合わないって、何に?」
自分の声が、乾いていた。
「紬に」
蓮は短く言った。
「……今、手続きとかしてる。……だから」
「だから、俺は来るなって?」
「来たら……お前、紬の顔、見んだろ」
「見るよ。……当たり前だろ」
言った瞬間、湊は自分の声が強すぎて驚いた。強く言えば、強い現実になる気がした。
電話の向こうで、蓮が何かを堪える音がした。歯を食いしばるみたいな。
「……来るなら、来い。止めねぇ」
「行く」
湊は即答した。靴下のまま玄関へ向かいかけて、部屋のドアの前で止まった。振り返る。
机の上のプリン。サラダ。ノート。
「……なあ蓮」
「なんだ」
「紬さ。最後に、なんか……言ってた? 俺に」
沈黙が長い。長すぎると、湊は冗談で埋めたくなる。けど、今回は埋められない。
「……『湊の話、あったかい』って」
蓮の声が、少しだけ柔らかくなった。すぐにまた硬くなる。
「それだけだ」
湊は喉が鳴るのを止められなかった。
「……そっか。じゃあ、俺、あったかいの、持ってく」
「何を」
湊は笑おうとして、失敗した。
「言葉。……いや、なんでもない。行くから」
通話を切ろうとして、親指が止まる。
「蓮」
「……」
「紬、さ。……寝てるだけとか、そういうの、ないの?」
湊の声は、頼りないほど軽かった。自分でも分かる。軽くすれば、落ちないと思っている。
蓮は、息を吐いた。
「……ない」
その一言で、部屋の空気が一段冷えた気がした。
湊は通話を切った。画面が暗くなる。自分の顔が、黒いガラスに薄く映る。
湊は机に戻り、プリンの蓋に指をかけた。開けるつもりだったのに、爪が引っかからない。手が震えているのが、ようやく分かった。
「……紬、プリン、好きだったよな」
誰も答えない。
湊はプリンをそのまま置き、ノートを閉じた。星の落書きが、最後にちらっと見えた。扉を開けると、廊下の暗さが流れ込んできた。
湊の手のひらの上で、白い皿が妙に軽かった。
「……え?」
オムライス。湊が今朝から張り切って作った、あの黄色い山。ケチャップで紬の名前だって書いた。写真も撮って、投稿文も半分まで打って、あとは「いただきます」の一枚を添えるだけ——だったのに。
部室の机の上には、いつもの席がない。
椅子が引かれている。というより、椅子そのものが壁際に寄せられている。
「紬?」
返事がない。
「おーい、部長ー。今日のメニュー、映えるやつだぞー」
ふざけた声が、教室の空気に吸い込まれていく。
窓際のカーテンが揺れて、白い光が机の角をなぞった。湊はその光を頼りに、いつも紬が座っていた場所を見た。そこには、何もない。ノートも、ペンも、あの小さな水筒も。
「……おかしいな。先に来て、どっかでサボってんのか?」
背中に視線を感じて振り向くと、蓮が立っていた。顔色が、いつもより薄い。目が笑っていない。
「湊」
「お、蓮。聞いてくれよ、今日さ——」
「来るなって、言っただろ」
「え?」
蓮の声が低くて、湊は一瞬、聞き間違いだと思った。
「昨日も、今朝も。来るなって」
「いや、メッセだろ? あれ、なんか……寝ぼけてんのかなって。だって、今日『最後の晩餐』——」
言いかけた瞬間、蓮の眉がほんの少し動いた。
「……その言い方、やめろ」
「え、なんで? 部活の名前だろ。ノリじゃん。ほら、オム——」
湊が皿を持ち上げたとき、指先が汗で滑った。
カツン、と皿の縁が机に当たって跳ねる。
「わっ」
咄嗟に掴もうとして、空振りした。
白い皿が、ゆっくり落ちるみたいに見えた。実際は一瞬だったのに。机の脚、床の硬さ、音。
ガシャッ、と乾いた破裂音。
黄色いオムライスが、床に崩れた。ケチャップの赤が、床のグレーに滲んで、紬の名前が読めなくなっていく。
湊は口を開けたまま固まった。
「……え、うそ。うわ、最悪……」
蓮が動いた。足音が早い。湊の手首を掴む。
「行くぞ」
「え、どこに——待って、これ、片付け——」
「そんなのいい!」
蓮の声が部室に響いて、湊の肩が跳ねた。
「……な、なに。怒りすぎだろ。オムライス、また作れば——」
「作れないんだよ」
蓮の指が、湊の手首に食い込んだ。爪の硬さが伝わる。湊は冗談で返そうとして、喉の奥で言葉が詰まった。
「……なにそれ。どういう——」
蓮は答えず、廊下に引っ張り出した。
校舎の外の空気が冷たい。風が頬を叩く。湊の頭は追いつかないまま、足だけが前へ出る。
「病院」
蓮が短く言った。
「病院って……え、紬、また検査? あいつ、たまに点滴の——」
「“たまに”じゃない」
蓮が吐き捨てるように言った。
湊は笑って誤魔化そうとした。
「いやでも、元気じゃん。笑うし、めっちゃツッコむし。昨日だって——」
「昨日?」
蓮が足を止めた。振り返る。目が、刺すみたいに真っ直ぐだ。
「昨日、何を見た」
「え……オレ? 昨日は、ほら、いつも通り……。咳、してたけど。あいつ、よくやるじゃん。『スパイス効きすぎた』とか言ってさ」
蓮の喉が動いた。何かを飲み込むみたいに。
「……あれ、冗談に見えたか」
「え?」
湊は首を傾げた。冗談じゃないなら、何なんだ。そう聞こうとして、蓮がまた歩き出した。
「走れ」
「え、ちょ、ちょっと!」
湊も走った。制服のポケットの中でスマホが暴れる。通知が鳴った気がしたけど、見る余裕がない。
道路の信号がやけに長い。車の音がうるさい。蓮の背中が遠くなる。
「蓮、待てって!」
「遅い!」
「いや、オレ、運動部じゃねえし!」
息が切れる。心臓が胸の内側を叩く。なのに、頭の中は妙に空っぽだった。
病院の建物が見えた。白くて、ガラスが多くて、反射した空が眩しい。
受付の前を通り過ぎようとした湊の腕を、蓮が引き戻した。
「エレベーター」
「え、何階?」
蓮は答えない。数字のボタンを押す指が震えている。湊はそれを見て、ようやく胸の中に薄い冷たさが落ちた。
「……なあ、紬、入院してんの?」
「してた」
蓮の返事は、過去形だった。
エレベーターの扉が開く。二人は無言で乗り込む。鏡に映った湊の顔は、走ってきたせいで赤い。なのに目だけがぼんやりしている。
階が上がる。到着の音。扉が開く。
廊下は静かだった。白い壁、消毒の匂い。看護師の靴音が遠ざかっていく。
蓮が曲がる。湊も追う。
「紬ー!」
湊は思わず声を張った。すぐに通りすがりの看護師が振り向く。
「静かにしてくださいね」
「あ、すみません……! えっと、紬、えーと……紬って子、どこ——」
「部屋、ここだ」
蓮が立ち止まった。扉の前。部屋番号が見える。
湊は息を整えながら、ドアノブに手を伸ばしかけた。
「オレ、先に謝るわ。オムライス落とし——」
「……入るな」
「え? なんで」
蓮がノブを掴んで、先に開けた。
湊はその隙間から中を覗いて——言葉が止まった。
ベッドがない。
いや、正確には、ベッドはある。でも、シーツが剥がされていて、マットレスがむき出しで、柵が上げられている。枕もない。点滴スタンドもない。床に置いてあったはずの小さなスリッパもない。
カーテンは開け放たれて、窓の外の空が広い。
「……え」
湊は一歩、部屋に入った。足音がやけに響いた。
「……片付け、早くない?」
誰もいない病室に向かって言ってしまって、自分で変な感じがした。
蓮は部屋の隅を見た。まるで、そこに何かが残っているはずだとでも言うみたいに。
「何も、ない……」
湊は笑ってみせた。喉が乾いて、声が擦れた。
「え、退院? すげーじゃん。あいつ、勝ったじゃん。……な? だから言ったろ、元気だって」
蓮が振り向いた。目が赤いとか、そういう分かりやすい感じじゃない。ただ、顔の筋肉が動いていない。息だけが、浅い。
「湊」
「ん?」
「紬は、移った」
「移った? 部屋替え? じゃ、どこ——」
湊が言いながらスマホを取り出す。紬に電話しようと画面を開く。指が番号を押す前に、蓮の声が落ちた。
「——もう、ここにはいない」
湊は指を止めた。
「え。いや、だから、どの病棟に——」
廊下の向こうから、カートを押す音が近づいてきた。看護師が二人、白いシーツの束を積んで通り過ぎる。湊の視界の端で、シーツがゆらりと揺れた。
蓮が、そのシーツを見ないように顔を背けた。
湊は、病室の空っぽさをもう一度見回した。窓際に、日光が四角く落ちている。そこに座って、紬がいつもみたいに「いただきます」って言う姿を、勝手に重ねようとして——重ならなかった。
「……なあ、蓮。紬、どこ行ったんだよ」
蓮の拳が、ぎゅっと握られる。白い壁に爪が当たって、カリ、と小さな音がした。
「……遅いんだよ」
「え?」
「お前、いつも——」
蓮の声が途切れた。言い切らないまま、息を吐く。空っぽの病室に、吐息だけが落ちた。
湊は立ち尽くしたまま、スマホを耳に当てた。呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
「出ろよ……」
呼び出し音が途切れて、機械的な音声が流れた。
湊はスマホを下ろし、画面を見つめた。指先に、さっきの皿の感触がまだ残っている気がした。
「……電波悪いのかな」
蓮は答えない。
湊は、空席の病室の真ん中で、落としたオムライスの赤い滲みを思い出していた。名前が、消えていくみたいに。そんなわけない、と頭のどこかで笑って、でも喉の奥が、うまく動かなかった。
机の上には、ケチャップ、バター、玉ねぎ、鶏肉、卵。米は朝から炊いて、炊飯器の中でまだ湯気を抱えている。買ってきたばかりのフライパンは、黒く光って、まだ少しだけ工場っぽい匂いがした。
壁には、百均で買ったガーランドが斜めに張られている。「おめでとう」の文字が、どこか間の抜けたフォントで揺れていた。
湊はスマホを確認して、指で画面を二回叩いた。
「……よし。まだ時間ある」
テーブルの上には、紙ナプキンと、白い皿が二枚。フォークとスプーンも二組。スプーンは、紬が前に「オムライスはスプーンのほうが勝ち」と断言していたから、わざわざ揃えた。
椅子も二脚。ひとつはいつも湊が使うやつで、もうひとつは押し入れから引っ張り出してきた折り畳み椅子だ。座面の布が少し色あせていて、湊はそこにクッションを置いた。
「……よし。完璧」
鏡の前で、自分のネクタイを外して投げ、制服の上着だけハンガーにかけた。卒業式の写真は、もう何枚も上げた。ストーリーにも流した。既読といいねの波は、今も画面の奥で続いている。
湊はスマホを置いて、深呼吸する。
「今日は、映えじゃない。味……は、俺わかんないけど。雰囲気は勝つ」
キッチンの小さなスペースに立ち、玉ねぎをまな板に置いた。包丁を握る手が、妙に気合い入っている。
「玉ねぎ……泣くって言うけど、俺は泣かねえ」
刃を入れた瞬間、目がじわっと来た。
「……泣くじゃん」
湊は笑って、目をこすりかけてやめた。手に玉ねぎの匂いがつくのが嫌だった。代わりに袖で目尻をこすって、鼻で息を吐く。
スマホが震えた。
湊はすぐ取った。画面には「蓮」。
「お、蓮。お前も卒業おめでとー。今どこ?」
『……湊、紬から連絡来てるか』
「え? いや、まだ。てか、あと二十分で来るって――」
『……そうか』
電話の向こうで、息を呑む音がした。小さく、布を擦るみたいな音もする。駅のホームか何かだろうか。
湊は玉ねぎを炒めながら、肩でスマホを挟んだ。
「何その間。お前さ、今日ぐらい普通に祝えよ。卒業だぞ? 俺ら」
『……祝ってる』
「声が祝ってねえ」
『……湊。紬、最近――』
「最近? 最近も元気だろ。部室でめちゃ笑ってたし。『最後の晩餐部は不滅です』とか言ってたし」
『……』
「なに、また『偽物』とか言う気? 今日俺、ガチだから。オムライス材料も揃えたし。椅子も二脚。スプーンも二つ。ケチャップでハート描ける練習も――」
『練習したのか』
「した。三回失敗した」
『……』
蓮の沈黙が、炒める音に負けていく。バターが溶けて、玉ねぎが透けて、部屋の中に甘い匂いが広がった。
湊はフライパンを揺すって、明るく言う。
「で? 何。紬から連絡来ないってだけ? あいつさ、たまにスマホどっか置いて『あれ~?』ってやるじゃん。あのノリだろ」
『……湊、ドアは開けるなよ』
「は?」
湊の手が止まった。バターがじゅっと鳴いて、焦げる直前の匂いが混じる。
「何その怖い言い方。サプライズ? お前、紬と組んで何かやってんの?」
『違う。……とにかく、開けるな。紬が来るまで、誰が来ても』
「誰が来てもって、うちに来るの紬だけだろ。……いや、母さんは帰ってこないし」
『……』
湊は笑って誤魔化すように、フライパンの中をかき混ぜた。
「わかったわかった。開けない。俺、今日のオムライスに集中する。で、お前は? 来ないの?」
『俺は――』
言いかけて、蓮は飲み込んだ。
『……行けたら行く』
「行けたらって何だよ。卒業式後だぞ? 予定あるなら言えよ」
『……』
「ま、いいや。紬が来たら、二人で食べさせてもらう。お前、あとで泣くなよ」
湊は勝ち誇った声を作った。蓮は、笑わなかった。
『……湊。』
「ん?」
『……ケチャップ、買いすぎるなよ』
「え、何その忠告。俺、チューブ二本買ったけど?」
『……そうか』
電話が切れた。
湊はスマホを見つめて、首を傾げた。
「……意味わかんねえ。ケチャップは正義だろ」
玉ねぎがいい色になってきた。鶏肉を入れ、塩胡椒を振る。ごはんを投入して、ケチャップを躊躇なく絞った。
「よし。これが、紬の『物語の材料』ってやつだ」
湊は、紬が笑いながら言っていた言葉を思い出す。
『湊くんの話、ちゃんと味がするんだよ。塩とか砂糖とかじゃなくて、気持ちの味』
そのとき紬は、少しだけ咳き込んで、喉元を押さえた。湊は「笑いすぎ」と言って水を渡した。紬は「うん、笑いすぎ」と笑って、また話をせがんだ。
湊は卵を割る。殻が一片、指に刺さって痛い。
「っ、くそ。……今日、完璧って言ったのに」
指先を拭きながら、湊は時計を見る。
約束の時間まで、あと十分。
テーブルの皿をもう一度拭いて、ナプキンの角を揃える。ガーランドの位置が気になって直そうとして、結局もっと斜めになった。
「……まあ、手作り感ってことで」
スマホがまた震えた。
湊はすぐ取る。通知は、紬からじゃない。クラスのグループチャットだった。
『二次会どこ行く?』
『カラオケ!』
『湊、写真送って!』
湊は画面を閉じて、裏返しに置いた。
「今日は、そっちじゃない」
部屋の空気が、料理の匂いで満ちていく。いつもはコンビニの袋の匂いしかしない部屋が、急に誰かの家みたいになった。
湊は、折り畳み椅子のクッションをぽんぽん叩いた。
「……紬、座り心地いいだろこれ。俺、わざわざ選んだんだぞ」
返事はない。もちろん、まだ来ていない。
湊は笑って、炊飯器の蓋を開けた。湯気がふわっと立ち上る。
「湯気、映えるな……いや、映えじゃない。湯気は、あったかいってことだ」
卵を焼く準備をして、フライパンを温める。バターを落とすと、じゅわっと音がした。
その音に混じって、遠くで救急車のサイレンが通り過ぎた。窓の外のどこかを、赤い光がかすめていく。
湊は、ほんの一瞬だけ窓に目をやって、すぐ戻した。
「この辺、救急車多いな。卒業シーズンって、何かあるのか?」
自分で言って、意味がわからず笑う。
時計の針が、約束の時間を指した。
湊は手を拭いて、スマホを取る。メッセージ画面を開き、紬の名前を押しかけて、やめた。
「……あと五分ぐらい、余裕だろ」
湊は卵を流し入れた。黄色が広がって、ふわっと固まり始める。
「紬、今日さ。卒業おめでとうって、ちゃんと言うから」
卵の端を箸で寄せる。うまくいきそうで、いかない。形が少し崩れて、湊は舌打ちしそうになって飲み込んだ。
代わりに、声を上げる。
「……よし、これも手作り感!」
テーブルの二枚の皿が、静かに待っている。片方は湊の席、片方は空席。
湊はその空席を、当然のように「もうすぐ埋まるもの」として見ていた。
湊は部室のドアを肘で押し開け、紙袋を机の上にどさっと置いた。
「よし。今日の“晩餐”、仕入れてきた」
袋の口から、コンビニの新作スイーツと、派手なパッケージのカップ麺がのぞく。湊はスマホを構え、反射で机の木目まで映える角度を探した。
「映えは正義……っと。あとで紬先輩に見せたらウケるやつ」
椅子を引いて座り、時計を見る。針は集合時間の五分前を指していた。
「余裕、余裕」
既読も付かないグループチャットを開き、親指で軽く画面を叩く。
「『着いた。部室いる』っと」
送信。
湊は机の上に並べたパッケージを一つずつ回して、写真を撮っては消し、撮っては消した。窓の外で部活帰りの声が遠ざかっていく。
時計を見る。集合時間ちょうど。
「……あれ?」
湊は立ち上がって廊下側の小窓を覗いた。誰も来ない。下駄箱の方から足音が――と思ったら、通り過ぎる別の生徒だった。
「ま、女子は準備に時間かかるしな。紬先輩は……点滴とか? いや、そんなの部室でやらんか」
自分で言って、自分で笑ってしまう。
「やべ、俺、想像力が暴走してる」
チャットをもう一度開く。紬のアイコンの横は静かなまま。蓮も、既読が付かない。
「電波? この部室、圏外みたいな時あるし」
湊はスマホを上に掲げたり、窓際に寄ったりしてみる。アンテナは普通に立っている。
「立ってるじゃん。じゃあ……寝坊?」
湊は椅子に戻り、机の端を指でトントン叩いた。空気が、じわっと冷えてくる。さっきまでの勢いが、部室の壁に吸われていくみたいだった。
「……蓮は、遅刻とかしなさそうだけどな。紬先輩が『今日は遅れるねー』ってノリで言うなら、絶対スタンプ付けるし」
湊はスタンプ欄を開いて、勝手に想像した。
「『ごめーん!』みたいな。これ。これ使いそう」
送られてこない画面を見つめながら、湊は笑いをこぼす。笑い声が部室の天井に当たって、すぐ落ちた。
時計を見る。五分過ぎ。
「……ま、五分は誤差。人間だもの」
十回くらい聞いたことのある自分の言い訳を、今日も口にした。
湊は紙袋からスイーツを取り出して、机の中央に置き直した。誰かが入ってきた瞬間、すぐ“始められる”ように。
「よし。並べとく。紬先輩、絶対『わー!』って言う」
言いながら、湊は一瞬、紬の声を思い出そうとして、うまく再生できなかった。いつも聞いているはずなのに、音が遠い。
「……なんだよ、俺。昨日寝不足だったし」
時計を見る。十分過ぎ。
湊は立ち上がってドアを開け、廊下に顔を出した。
「おーい。誰かー。最後の晩餐部、開店してまーす」
返事はない。遠くで誰かの笑い声。別の教室のドアが閉まる音。
湊は肩をすくめて戻り、ドアを閉めた。閉めた瞬間、部室の静けさがきゅっと締まった。
「……静かすぎ。俺の独壇場じゃん」
独壇場なのに、スマホのシャッター音も、今日はやけにうるさく感じる。
湊はチャットにもう一度打つ。
「『みんな、今日どうした?』」
送信。
送ってから、すぐ取り消したくなる。焦ってるみたいでダサい。湊は自分に向かって小さく舌打ちした。
「いや、普通。普通の確認」
時計を見る。十五分過ぎ。
湊はまた廊下側の小窓を覗いた。視界の端で、自分の顔がガラスに映る。妙に真面目な顔をしていた。
「……俺、待つの下手かよ」
誰もいない椅子を見回す。紬がいつも座る席。蓮がいつも背もたれに腕を乗せる席。今日は、全部ただの木と金属だ。
湊はわざと明るく言った。
「よし。じゃあ、俺だけで予行演習するか。今日のメニュー紹介」
机に向かって、湊は指で一つずつ示す。
「まず、この新作プリン。パッケージの金の箔がさ、もう高級感。で、次にこのカップ麺。名前がもう強い。『背徳』って書いてある。背徳だよ? 食ったら罪になるやつ」
部室は笑わない。
湊は喉を鳴らして、咳払いみたいに息を整えた。
「……あれ? 喉乾いたな」
自販機に行こうとして、足が止まる。今出たら、入れ違いになる気がした。
「いや、来るでしょ。絶対。だって、今日……」
“今日”の続きを言いかけて、湊は言葉を飲み込んだ。何が今日だったのか、自分でもうまく掴めない。
時計を見る。二十分過ぎ。
湊はスマホを握りしめて、蓮の個チャを開いた。指が止まる。蓮に直接送るのは、なんか負けた気がする。
「……いや、負けとかじゃない。連絡だし。普通の」
打ち始める。
「『蓮、今どこ? 部室いるけど』」
送信。
既読が付かない。
湊は笑って、机の端に額を軽く当てた。
「おいおい。みんなして俺を置いてドッキリとか、そういうの? やめて? 心臓に悪い」
机に当てた額が冷たい。部室の空気も、さっきより一段冷たい。
湊は顔を上げ、窓の外を見る。夕方の光が斜めに差して、机の上のスイーツのプラスチックが鈍く光る。誰かの手が伸びる予定だった場所に、光だけが落ちている。
「……遅いな」
言った声が、自分でも驚くほど小さかった。
湊はもう一度、グループチャットを開いた。紬のアイコンを見て、指で軽くなぞる。
「先輩、充電切れとか? そういうオチでしょ」
誰に向けるでもなく言いながら、湊は立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きい。
ドアノブに手をかけて、止まる。
「……迎えに行くか。いや、でも、来るかもしれないし」
迷って、結局ドアを開けた。廊下の冷たい空気が流れ込んでくる。
湊は廊下を見渡し、声を張った。
「紬先輩ー! 蓮ー! いるー!?」
返事はない。
湊は笑いながら、でも笑いきれないまま、もう一度だけ言った。
「……今日、やる日だよな?」
湊はスマホを顔の前にかざし、指先で画面を拭いた。光が反射して自分の目だけが映る。フィルターを変える。色温度を少し下げる。
机の上には、買ってきたコンビニのパックサラダと、蓋の閉まったままのプリンが並んでいた。紬に聞かせるつもりで、パッケージの写真を何度も撮っている。
「……これ、映えるのか?」
独り言が部屋の壁に当たって戻る。返事はない。
湊はメッセージ画面を開いた。最後の送信はさっき。
『今日、部室寄る? 新作ストーリー用意した』
既読がつかない。電波は立ってる。なのに、画面は静かだ。
「蓮のやつ、また見張ってんのかな。既読つけるなとか言ってさ」
湊は笑ってみせて、プリンの蓋を指で叩いた。カタカタと軽い音。
「いや、でも紬、既読つけるタイプだろ。……寝てんのか。そうだよな、点滴の日とか眠いって言ってたし」
言い訳みたいに言葉が並ぶ。湊はサラダの袋を開けようとして、やめた。匂いが立つと、せっかくの「語り」が薄まる気がした。
机の隅の部活ノートを開く。紬が書いたメニューの落書きが残っている。丸っこい字で「次は“冬の屋台”」と書かれて、その横に小さな星。
「冬の屋台、な。……よし」
湊は喉を鳴らし、声を作った。
「まずは、焼きとうもろこし。醤油が……」
そこでスマホが震えた。
机の上を滑るように振動し、プリンの容器に当たって止まる。画面に表示された名前を見て、湊は眉を上げた。
「蓮?」
この時間に電話。珍しい。いつもなら短文で済ませるやつだ。
湊は通話ボタンを押した。
「お、どうした? 今ちょうどさ——」
返事が来ない。息の音だけが、耳にかかる。距離の向こうで何かが擦れる音。布か、シーツか。
「……蓮? 電波悪い?」
「……」
「もしもし? おい、聞こえる?」
ようやく、低い声が落ちてきた。
「湊」
「うん。なんだよ、急に改まって」
湊は椅子にもたれた。肩の力を抜く。蓮がこういうテンションの時って、大体、説教か、紬の体調の小言か、どっちかだ。
「今日は部室、行けないって? 紬、また点滴長引いた?」
「……」
「え、なに。無言で圧かけるの新しいな。怖いって」
湊は笑いながら、プリンの蓋をまた叩いた。カタカタ。向こうの息は重い。
「湊」
「はいはい」
「……紬が、逝った」
湊は瞬きを一回した。
「……え?」
声が自分のものに聞こえない。湊はスマホを耳から少し離して画面を見た。通話はつながっている。圏外じゃない。名前も合ってる。
「ちょ、待て待て。……言い方。縁起でもないやつ。冗談やめろって」
「冗談じゃねぇ」
蓮の声が掠れていた。怒鳴っているようで、どこか引っかかる。言葉の端が欠けている。
湊は喉の奥を指で押したみたいに、うまく息が入らなかった。だから、軽く返した。軽く返せば、軽い話に戻ると思った。
「いや、だからさ。『逝った』って何。どこ行ったの? 病院? 家? ……逃げた? 俺のストーリーが微妙だったとか」
「湊」
「だって、紬、そういうの言うじゃん。『今日の味、ちょっと薄い』とかさ」
「死んだって言ってんだよ」
言葉が、電話の向こうから真っ直ぐ刺さる。湊は笑いの形を作りかけて、口の端が引っかかったまま止まった。
机の上のサラダの透明な蓋が、部屋の灯りを返して眩しい。プリンのカラメルが黒く沈んでいる。
「……え、えっと。え? いや……」
湊は椅子の背から体を起こした。床に足をつけ直す。何かしなきゃいけないのに、何をすればいいか分からない。
「蓮、今どこ?」
「病院だ」
「病院、って……いつから?」
「さっき。……急だった」
急。紬がよく笑っていたのが、急。昨日も、急。湊の頭の中で、言葉が噛み合わない。
「急って……。いや、でも、紬、昨日も普通だったろ。『次は屋台』って——」
湊はノートのページを指で押さえた。星の落書きが滲んだように見える。
「……普通だった」
蓮が言う。普通という単語が、ひどく固い。
「普通に見せてただけだ」
「見せてたって……」
湊は笑いに逃げた。
「いやいや、紬、役者かよ。俺、騙されるタイプじゃないって。……だって、咳とかさ、いつものやつだったし。薬も、ほら、いつも——」
「いつもじゃねぇよ」
蓮の声が震えた。怒りじゃない。別のものが混ざる音だった。
「いつもって言って、見ないふりしてただけだろ」
湊は言い返そうとして、言葉が出なかった。喉の奥に、さっき作ろうとした「焼きとうもろこし」の醤油の匂いの想像だけが残って、変に甘ったるい。
「……俺、今から行く」
「来るな」
即答だった。
「は? なんでだよ」
「来ても、もう……」
蓮はそこで言葉を切った。電話の向こうで誰かが名前を呼ぶ声がした。看護師か、家族か。遠いのに、はっきり聞こえた。
湊は立ち上がった。椅子が床を擦る音が大きい。自分の部屋なのに、他人の家みたいに響く。
「来るなって意味わかんねぇ。部活だろ。最後の晩餐部だろ? 部長が——」
言いかけて、湊は舌を噛みそうになった。「部長が」から先が続かない。
蓮が小さく息を吸う。
「……湊」
「なに」
「紬、最後に……お前の話、聞きたいって言ってた」
湊はスマホを握り直した。手のひらが妙に冷たい。机の上のプリンが、まだ開けられないままこちらを見ている。
「じゃあ、ほら。今、俺——」
「間に合わなかった」
蓮の声が、そこで一段低くなった。
湊は口を開けたまま、目だけが動いた。ノートの星。サラダの透明。プリンの蓋。全部が、同じ場所にあるのに、遠い。
「……間に合わないって、何に?」
自分の声が、乾いていた。
「紬に」
蓮は短く言った。
「……今、手続きとかしてる。……だから」
「だから、俺は来るなって?」
「来たら……お前、紬の顔、見んだろ」
「見るよ。……当たり前だろ」
言った瞬間、湊は自分の声が強すぎて驚いた。強く言えば、強い現実になる気がした。
電話の向こうで、蓮が何かを堪える音がした。歯を食いしばるみたいな。
「……来るなら、来い。止めねぇ」
「行く」
湊は即答した。靴下のまま玄関へ向かいかけて、部屋のドアの前で止まった。振り返る。
机の上のプリン。サラダ。ノート。
「……なあ蓮」
「なんだ」
「紬さ。最後に、なんか……言ってた? 俺に」
沈黙が長い。長すぎると、湊は冗談で埋めたくなる。けど、今回は埋められない。
「……『湊の話、あったかい』って」
蓮の声が、少しだけ柔らかくなった。すぐにまた硬くなる。
「それだけだ」
湊は喉が鳴るのを止められなかった。
「……そっか。じゃあ、俺、あったかいの、持ってく」
「何を」
湊は笑おうとして、失敗した。
「言葉。……いや、なんでもない。行くから」
通話を切ろうとして、親指が止まる。
「蓮」
「……」
「紬、さ。……寝てるだけとか、そういうの、ないの?」
湊の声は、頼りないほど軽かった。自分でも分かる。軽くすれば、落ちないと思っている。
蓮は、息を吐いた。
「……ない」
その一言で、部屋の空気が一段冷えた気がした。
湊は通話を切った。画面が暗くなる。自分の顔が、黒いガラスに薄く映る。
湊は机に戻り、プリンの蓋に指をかけた。開けるつもりだったのに、爪が引っかからない。手が震えているのが、ようやく分かった。
「……紬、プリン、好きだったよな」
誰も答えない。
湊はプリンをそのまま置き、ノートを閉じた。星の落書きが、最後にちらっと見えた。扉を開けると、廊下の暗さが流れ込んできた。
湊の手のひらの上で、白い皿が妙に軽かった。
「……え?」
オムライス。湊が今朝から張り切って作った、あの黄色い山。ケチャップで紬の名前だって書いた。写真も撮って、投稿文も半分まで打って、あとは「いただきます」の一枚を添えるだけ——だったのに。
部室の机の上には、いつもの席がない。
椅子が引かれている。というより、椅子そのものが壁際に寄せられている。
「紬?」
返事がない。
「おーい、部長ー。今日のメニュー、映えるやつだぞー」
ふざけた声が、教室の空気に吸い込まれていく。
窓際のカーテンが揺れて、白い光が机の角をなぞった。湊はその光を頼りに、いつも紬が座っていた場所を見た。そこには、何もない。ノートも、ペンも、あの小さな水筒も。
「……おかしいな。先に来て、どっかでサボってんのか?」
背中に視線を感じて振り向くと、蓮が立っていた。顔色が、いつもより薄い。目が笑っていない。
「湊」
「お、蓮。聞いてくれよ、今日さ——」
「来るなって、言っただろ」
「え?」
蓮の声が低くて、湊は一瞬、聞き間違いだと思った。
「昨日も、今朝も。来るなって」
「いや、メッセだろ? あれ、なんか……寝ぼけてんのかなって。だって、今日『最後の晩餐』——」
言いかけた瞬間、蓮の眉がほんの少し動いた。
「……その言い方、やめろ」
「え、なんで? 部活の名前だろ。ノリじゃん。ほら、オム——」
湊が皿を持ち上げたとき、指先が汗で滑った。
カツン、と皿の縁が机に当たって跳ねる。
「わっ」
咄嗟に掴もうとして、空振りした。
白い皿が、ゆっくり落ちるみたいに見えた。実際は一瞬だったのに。机の脚、床の硬さ、音。
ガシャッ、と乾いた破裂音。
黄色いオムライスが、床に崩れた。ケチャップの赤が、床のグレーに滲んで、紬の名前が読めなくなっていく。
湊は口を開けたまま固まった。
「……え、うそ。うわ、最悪……」
蓮が動いた。足音が早い。湊の手首を掴む。
「行くぞ」
「え、どこに——待って、これ、片付け——」
「そんなのいい!」
蓮の声が部室に響いて、湊の肩が跳ねた。
「……な、なに。怒りすぎだろ。オムライス、また作れば——」
「作れないんだよ」
蓮の指が、湊の手首に食い込んだ。爪の硬さが伝わる。湊は冗談で返そうとして、喉の奥で言葉が詰まった。
「……なにそれ。どういう——」
蓮は答えず、廊下に引っ張り出した。
校舎の外の空気が冷たい。風が頬を叩く。湊の頭は追いつかないまま、足だけが前へ出る。
「病院」
蓮が短く言った。
「病院って……え、紬、また検査? あいつ、たまに点滴の——」
「“たまに”じゃない」
蓮が吐き捨てるように言った。
湊は笑って誤魔化そうとした。
「いやでも、元気じゃん。笑うし、めっちゃツッコむし。昨日だって——」
「昨日?」
蓮が足を止めた。振り返る。目が、刺すみたいに真っ直ぐだ。
「昨日、何を見た」
「え……オレ? 昨日は、ほら、いつも通り……。咳、してたけど。あいつ、よくやるじゃん。『スパイス効きすぎた』とか言ってさ」
蓮の喉が動いた。何かを飲み込むみたいに。
「……あれ、冗談に見えたか」
「え?」
湊は首を傾げた。冗談じゃないなら、何なんだ。そう聞こうとして、蓮がまた歩き出した。
「走れ」
「え、ちょ、ちょっと!」
湊も走った。制服のポケットの中でスマホが暴れる。通知が鳴った気がしたけど、見る余裕がない。
道路の信号がやけに長い。車の音がうるさい。蓮の背中が遠くなる。
「蓮、待てって!」
「遅い!」
「いや、オレ、運動部じゃねえし!」
息が切れる。心臓が胸の内側を叩く。なのに、頭の中は妙に空っぽだった。
病院の建物が見えた。白くて、ガラスが多くて、反射した空が眩しい。
受付の前を通り過ぎようとした湊の腕を、蓮が引き戻した。
「エレベーター」
「え、何階?」
蓮は答えない。数字のボタンを押す指が震えている。湊はそれを見て、ようやく胸の中に薄い冷たさが落ちた。
「……なあ、紬、入院してんの?」
「してた」
蓮の返事は、過去形だった。
エレベーターの扉が開く。二人は無言で乗り込む。鏡に映った湊の顔は、走ってきたせいで赤い。なのに目だけがぼんやりしている。
階が上がる。到着の音。扉が開く。
廊下は静かだった。白い壁、消毒の匂い。看護師の靴音が遠ざかっていく。
蓮が曲がる。湊も追う。
「紬ー!」
湊は思わず声を張った。すぐに通りすがりの看護師が振り向く。
「静かにしてくださいね」
「あ、すみません……! えっと、紬、えーと……紬って子、どこ——」
「部屋、ここだ」
蓮が立ち止まった。扉の前。部屋番号が見える。
湊は息を整えながら、ドアノブに手を伸ばしかけた。
「オレ、先に謝るわ。オムライス落とし——」
「……入るな」
「え? なんで」
蓮がノブを掴んで、先に開けた。
湊はその隙間から中を覗いて——言葉が止まった。
ベッドがない。
いや、正確には、ベッドはある。でも、シーツが剥がされていて、マットレスがむき出しで、柵が上げられている。枕もない。点滴スタンドもない。床に置いてあったはずの小さなスリッパもない。
カーテンは開け放たれて、窓の外の空が広い。
「……え」
湊は一歩、部屋に入った。足音がやけに響いた。
「……片付け、早くない?」
誰もいない病室に向かって言ってしまって、自分で変な感じがした。
蓮は部屋の隅を見た。まるで、そこに何かが残っているはずだとでも言うみたいに。
「何も、ない……」
湊は笑ってみせた。喉が乾いて、声が擦れた。
「え、退院? すげーじゃん。あいつ、勝ったじゃん。……な? だから言ったろ、元気だって」
蓮が振り向いた。目が赤いとか、そういう分かりやすい感じじゃない。ただ、顔の筋肉が動いていない。息だけが、浅い。
「湊」
「ん?」
「紬は、移った」
「移った? 部屋替え? じゃ、どこ——」
湊が言いながらスマホを取り出す。紬に電話しようと画面を開く。指が番号を押す前に、蓮の声が落ちた。
「——もう、ここにはいない」
湊は指を止めた。
「え。いや、だから、どの病棟に——」
廊下の向こうから、カートを押す音が近づいてきた。看護師が二人、白いシーツの束を積んで通り過ぎる。湊の視界の端で、シーツがゆらりと揺れた。
蓮が、そのシーツを見ないように顔を背けた。
湊は、病室の空っぽさをもう一度見回した。窓際に、日光が四角く落ちている。そこに座って、紬がいつもみたいに「いただきます」って言う姿を、勝手に重ねようとして——重ならなかった。
「……なあ、蓮。紬、どこ行ったんだよ」
蓮の拳が、ぎゅっと握られる。白い壁に爪が当たって、カリ、と小さな音がした。
「……遅いんだよ」
「え?」
「お前、いつも——」
蓮の声が途切れた。言い切らないまま、息を吐く。空っぽの病室に、吐息だけが落ちた。
湊は立ち尽くしたまま、スマホを耳に当てた。呼び出し音が鳴る。
一回。
二回。
三回。
「出ろよ……」
呼び出し音が途切れて、機械的な音声が流れた。
湊はスマホを下ろし、画面を見つめた。指先に、さっきの皿の感触がまだ残っている気がした。
「……電波悪いのかな」
蓮は答えない。
湊は、空席の病室の真ん中で、落としたオムライスの赤い滲みを思い出していた。名前が、消えていくみたいに。そんなわけない、と頭のどこかで笑って、でも喉の奥が、うまく動かなかった。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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