あのね、ハチ

さくら

文字の大きさ
上 下
5 / 5

しおりを挟む
 
 そこにいたのは、赤毛の柴犬だった。クラスで一番小さな二瑚にはとても大きな犬に見えたけれど、実際は四十センチもなかったのかもしれない。
 犬は足から血を流していた。よく見ると硝子のようなものが刺さっていて、それに気付いた二瑚はあまりに痛々しい光景に耐えきれず泣いてしまった。
 泣きながら、二瑚は家まで走った。それから夕食の準備中だった母を引っ張ってきて、怪我をした犬を動物病院へと連れて行った。怪我の原因は、近所のゴミ捨て場に散らばった硝子だったとすぐにわかった。
 治療を終えた犬を二瑚は連れて帰った。きちんと面倒をみるという約束で、飼うことを許されたのだ。その犬の名前は、二瑚が名付けた。


「……ハチ?」
 とうにお別れをしたはずの家族の名前を呼ぶと、波知は笑顔で頷いた。
「わんっ」
 犬の鳴き真似をした彼の赤茶色の髪が、頭の動きに合わせて揺れる。それはハチの毛と同じ色だった。
「うそ。そんな話……っ」
「二瑚は僕を助けてくれたでしょ。だから、いつか絶対に恩返しをしようと思ってたの」
「だから今日、現れたっていうの?」
「うん。二瑚、最近元気なかったでしょ。僕、ずっと心配で。またニコニコしてくれたらいいのになって、僕が二瑚を笑顔にさせてあげられたらいいのにって。ずっと思ってた」
 黙って波知の話を聞いていると、自然と涙が溢れ出た。
 亡くなった犬が人の姿をして現れるなんて、そんなバカな話があるものか。そう思うのに、波知の髪は見れば見るほどふさふさだったハチの毛と同じ色をしている。
「二瑚? 泣いてるの? どうして?」
 慌てて顔を覗きこんできた波知の声は不安げで、二瑚を見つめる瞳は涙でも滲んでいるかのように潤んでいる。それが、記憶にあるハチの瞳と重なった。
「……ハチ。本当に、ハチなの?」
「そうだよ。二瑚に会いに来たんだよ」
 波知の指が二瑚の頬を伝う涙を拭った。生前のハチも、二瑚が涙を流す度に温かく湿った舌で涙を拭ってくれていた。
「ねえ、笑って、二瑚。二瑚が笑ってると僕も笑顔になれるんだよ。二瑚に助けてもらって嬉しかったし、二瑚と暮らしている間は凄く楽しかった。最期のときも、二瑚が見守ってくれたから怖くなかったんだよ」
 出会ったときには既に大きかったハチは、二瑚が小学校を卒業したばかりの頃に亡くなった。寿命だったと医者は言っていた。
「二瑚のおかげで僕、幸せだった。だからね、二瑚。なにがあっても《奴》に惑わされないで。なんとなく死にたいなんて、そんな寂しいこと言わないで。……僕、二瑚には生きててほしいんだ。だから、辛かったら泣いていいし、弱音を吐いたっていい。立ち止って、あの橋から川を眺める時間が必要なら、そうすればいい。その後で二瑚がちゃんと笑顔になれるように。《奴》が暴れないように。弱さを見せること、愚痴を零すことは悪い事じゃないよ。それで誰かを傷つけたりしない限りはね」
 二瑚の頬を撫でながら、ハチはまるで幼子を諭すように、優しい声音でそう言った。
「二瑚。僕はずっと二瑚を見守ってるよ。話しかけてくれれば、いつでも耳を傾ける」
「ハチ……」
「また《奴》が暴れそうになったら、いつでも僕に言って。僕はいつだって二瑚の側にいるから。二瑚の心の中に。ね、二瑚。約束」
――もう、なんとなく死のうなんてしないで。
 二瑚が頷くと、ハチは満足気に笑った。
 それからハチは散歩コースを折り返し、二瑚を家まで送り届けてくれた。手を繋いだ二人が家の前まで帰ると、陽はすっかり沈んでいて、帰りが遅い二瑚を心配した母が玄関の前に立っていた。
 母の姿を確認して、相手がハチといえど、異性と手を繋いでいる姿を親に見られたくなくて、二瑚は慌てて手を離した。
「二瑚! あんた今まで何処にいたの。携帯に電話したのに出ないし。寄り道するなら連絡くらい入れなさい」
「え、ごめんなさい」
 咄嗟に謝ってブレザーの内ポケットに入れていた携帯電話を開くと、確かに母からの着信履歴が何件も残っていた。
「もう。無事に帰って来たからいいけど、今度からちゃんと連絡くらいしなさいよ」
 玄関のドアを開いて中へ入っていく母を追いかけようとして、二瑚は背後を振り返った。ハチはこれからどうするのか、何処へ行くのか、訊ねようとしたのだが無理だった。
 振り返った先にハチはいなかったのだ。
 後ろにいた少年がいつ帰ったのかと母に尋ねると、二瑚の側にそんな人間はいなかったと言われた。母が二瑚の姿を確信したときには、二瑚はもう一人だったと言うのだ。
 そんなはずがないと思ったが、そうだったかもしれないとも思った。亡くなった筈のハチが人間の姿になって現れたなど、そんな馬鹿な話があるわけない。
 ハチが波知という少年になって二瑚に会いに来てくれたのか否か。あれは夏の蜃気楼だったのか、夢だったのか。事実は気になるようで、大して気にならなかった。真実はなんにせよ、二瑚は確かに波知に出会い、慰められ、《奴》の飼い慣らし方を知ることができたのだ。
 それから二瑚は、毎日のように語りかけた。
「あのね、ハチ」
 あの橋の上で。思い出の中のハチに。
 
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

みんなの感想(2件)

いずみたかし

もう一歩以上に進めた作品もあるのですね!。
すごいです!。
もし公開されるのでしたら、読むのが楽しみです。
ありがとうございます!。

解除
いずみたかし

最近、コバルト短編小説新人賞(第212回)に応募した者です。
コバルト短編小説新人賞「もう一歩」の作品というのを拝見し、読ませていただきました。
とても面白かったです。

さくら
2021.02.18 さくら

ありがとうございます!
コバ短の応募者に読んでいただけるなら、もう一歩以上に進めた他作品も公開してみようかなと思えてきました。
良い結果であることを祈っていますね。

解除

処理中です...
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。

このユーザをミュートしますか?

※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。