魔女の剣

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第八話 追憶、陽炎2

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 楓が目を覚ましたのは、それから数十時間も経った後だった。

「あっ……ぐ、ぁ……」

 目が覚めた楓は、とてつもない激痛を感じて低くうめいた。
 四肢は弛緩したように力が入らず、少し体に力を込めると、全身をかき回すような激痛が襲ってくる。
 いったい自分の身に何が起きたのか、楓は脳を働かそうとするが、痛覚がどうしても邪魔をしてくる。

 激しい痛みのせいで強烈な吐き気を覚えるが、その吐き気すらも痛みのせいで発散できずにいた。
 しばらく苦痛にもがいていると、段々と痛覚への慣れが出てきた。そこでようやく、楓は痛みの正体を知った。

 腰である。左脇腹の下、左腰から激痛が湧き上がっているのだ。どうやら、左腰の骨盤が砕けているらしい。魔女服の左腰部分は裂け、その下に履いていた衣類も裂けている。わずかに露出した皮膚には薄らと切り傷の痕があり、それを見た楓は記憶を覚醒させた。
 黒衣の男が振るった、野太刀の強烈な一刀。あれをくらってしまったが故に、今この状況なのだ。

 ――運が良かった。

 全てを思い出した楓は、今命があることを幸運だと思った。男の剛剣は、本来なら容易く楓の命を断っていただろう。
 野太刀で斬られる瞬間、楓は咄嗟に後ろへ飛び下がろうとして地を蹴って体をわずかに浮かせていた。それが功をそうし、骨の厚い左腰で受けることができたのだろう。もし脇腹を斬られていたら、魔女服の防刃作用があってもおそらく即死だったはずだ。

 加えて、わずかに体を浮かせたせいで男の剛力に逆らうことなく体が吹き飛んだのも運が良かった。もし地に足をつけたままなら、骨が厚い部位とはいえそのまま斬られた可能性が高かった。
 それでも、左骨盤が砕ける程の衝撃である。刀傷は深く、常人なら痛みと失血でショック死は免れなかっただろうが、魔女である楓はラピスの保護で一命を止めていた。

 維持に至った魔女は、ラピスにより自己治癒能力を高めることができ、魔女服を纏っている間はこれが自動的に発動している。そのおかげで外傷は比較的早く塞がり、気を失っている間に失血死を免れたのだ。しかし、砕けた骨を再生させるには、いくら自己治癒の強化が働いていると言えど数日はかかるため、楓のこの地獄の苦しみからはまだまだ続くのだ。

 ――あれは、魔技だ。

 楓は激痛の中で、あの黒衣の男との立ち合いを思い出していた。楓の一刀を受け止めた陽炎のような高密度のマナ。あれは武辺の魔女の一つの到達点、魔技によるものだと、楓は直感していた。
 魔技は、知覚、維持、精密の三段階の修練を十分に積んだ者が、マナへの理解を更に深めたとき開眼するという。

 武辺の魔女は、正調の魔女のような高度な魔術を使えないものが目指す魔女であり、正調の魔女からは才能至らぬ者と認識されている。しかし、その中で唯一、正調の魔女にも一目置かれるのがこの魔技と呼ばれる存在である。

 正調の魔女が扱う魔術と、武辺の魔女が扱う魔技の違いは、その理合にある。魔術はある現象を起こすためのマナの微細な制御さえ出きれば、個人を問わず誰でも同じ現象を起こせると言われている。それに対して魔技は、その者個人個人にしか使えない我流技となっている。
 つまり、あの黒衣の男が使ったような魔技は、楓はおろかその他誰にも為し得ない、あの男だけの技なのだ。

 魔技は個人個人にしか扱えない恐ろしい術技であるが、実用性という面ではやはり魔術に劣るとされている。まず魔技は基本的に顕現した武器を媒介にしなければいけない。一見武器を使っていない様に見えても、どこかで武器に依存しているのだ。そして、魔技の多くは魔術が劣化したものととらえられている。例えば、件の黒衣の男の魔技は、正調の魔女が使う結界術と比べると大幅に使い勝手が悪いだろう。

 それでも、魔技が強力無比なものであることには違いない。正調の魔女ですら、魔技を使う武辺の魔女と戦って後れを取ることは珍しいことではないのだ。

 ――今の私が勝てる相手では無かったか。

 楓は悔しさで歯噛みする。今自分が生きているということは、黒衣の男は気を失った楓に止めを刺さずに見過ごしたということだ。
 楓の生死になど何の興味もない。ただ蚊が飛び回っていたから叩き落とした。あの男にとって、楓との戦いはその程度の意味合いなのだろう。

 気を失ってどれだけの時間が経ったかは分からないが、黒衣の男はもう立ち去った後のようだ。
 楓はとにかく屋敷に入ろうと思い立ち上がろうとするが、左足に全く力が入らず歩くのを断念した。しかたなく腕の力だけを使って這いずり、何とか縁側までたどり着く。
 しかし、弛緩した体では縁側に上がることが出来ず、激痛に耐えかねて気を失った。

 次に目覚めたのは、日が中天に上る頃だった。楓は猛烈な喉の渇きを覚え、このままでは死ぬと感じていた。最初に目が覚めた時よりは大分良くなったとはいえ、まだ左腰の痛みはひどい。痛覚に歯を噛みしめて耐えながら、楓は縁側を這い上がって台所まで這いずった。右足には何とか力が入る様で、右足を膝立ちにして上体を上げ、蛇口をひねって水を飲み、喉の渇きを潤した後また倒れるように気を失った。

 また目を覚ました頃には、左腰は大分良くなっていた。まだ痛むものの、吐き気すらこみ上げる激痛と比べれば十分に耐えられるものだった。左足にも少しは力が入り、実に数日ぶりに立ち上がった。空腹を満たすべく、楓は軽く腹ごしらえをしてやっと気を落ち着けた。

 楓が苦痛に悶えていた数日間でも、天坂が帰ってきた気配はなかった。楓は天坂の部屋に行き、ラピスが保管されている場所を改めるも、ラピスは一つ残らず無くなっていた。
 あの黒衣の男が奪っていったのだ。楓の頭に、一つ嫌な想像が浮かび上がった。

 ――まさか師は、あの男に……っ。

 黒衣の男が天坂を殺め、彼女が保管するラピスを奪いに来た。楓がそう想像するのは、無理もないことだった。あの男の戦術を考えるに、初見での一撃必殺性はかなり高い。天坂といえど、不覚をとる可能性は十分にある。
 それから数日、数週間、楓が傷を癒していた期間にも天坂は帰ってこなかった。そしてその間に、楓の住む街やその周辺では奇怪な連続殺人が複数発生していた。

 ラピスはマナの知覚に目覚めた者にしか分からない微かな気配を持ち、ラピス一つ一つに微妙な気配の違いがあった。天坂が保管していたラピスの気配を楓は覚えていた。
 ラピスの気配を察知する範囲はそこまで広く無いものの、小さな街一つ分の範囲ならラピスの気配を把握できる。そして楓は、この奇怪な連続殺人が奪われたラピスを用いたものだと薄々察しつつあった。

 ラピスの気配は修練を積んだ魔女なら消すことができる。しかしどうやら、ここ最近ラピスを用いて連続殺人を行っている者たちは、ラピスの気配を消すことができないようだ。
 つまり、魔女ではない一般人がラピスを手にして凶行に及んでいるのである。

 ラピスは、常人が手にすればマナの力に溺れ狂気に落ちると言われている。魔女は十分に修練を積み、マナの持つ狂気に飲まれない様にしているが、マナの存在も知らない無防備な心を持つ者が手にすれば、たちまち狂人となり力に溺れて殺戮を好むだろう。それゆえ、ラピスは魔女が厳重に管理しているのだ。
 黒衣の男の目的は分からないが、あの男は奪ったラピスをばら撒いて、常人達を狂気の渦に巻き込んでいるらしい。

 ――私のせいだ。私が奴に負けなければ、こんなことには。

 師である天坂の生死が不明である今、彼女の弟子である楓がラピスを管理しなければいけなかった。
 痛恨で胸を満たされた楓は、一つの決心をした。奪われてばら撒かれたラピスを、一つ残らず取り戻す。ラピスを持っている者が外道に落ちているのならば、その者の命すら奪う。

 一度力に溺れ外道に落ちた者は、例えラピスを失っても殺戮を繰り返すことだろう。その者達の命を断つことは、一介の魔女としての自分の責任。楓はそう思っていた。
 まだ小柄な少女の悲壮な決意が、夏の熱気の中に溶けていく。朝比奈楓の孤独な戦いはこうして始まった。

 夏から秋へ季節が移ろうまでに、楓はその手を数人の血で汚してきた。狂気に落ちた外道武田善之、素肌剣術の達人と称して問題ない吹石、その他名前も知らない者達。
 幾人の血を浴びてもまだ、楓の戦いは終わらない。
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