魔女の剣

アーチ

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第二十話 季秋の訪れ、秋の死期1

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「驚いたわ。小鴉の朧が消えたのは、もしかしてあなたのせいなの?」

 信じられない物を見るように、伏倉の瞼が大きく開いた。
 伏倉はどうやら小鴉の魔技が消えたことから彼の死を知り、夜魔を復活させる儀式を邪魔されないよう、侵入者を斬りにきたらしかった。

「あなた、一人で来たのかしら?」
「……見ての通りだ」

 伏倉は怪訝な表情をして、しばし沈黙した。

「……本当ね、あなた以外の気配は感じない……信じられないわ。あなたが小鴉を倒したって言うの?」
「……」

 答えるまでもないと、楓は黙っていた。楓がここに居ることこそが真実である。それを信じられずに楓を侮るなら、それは楓にとって絶好の機会であった。
 魔女殺し伏倉響。彼女がいかにして正調や武辺の魔女を殺しているのかは楓には分からない。しかし、凄まじい剣碗を持っているのは明らかである。己より剣技に優れている者を相手取るなら、せめて心が有利でなければ相手にならない。

「信じられないけれど、さすがは夕月の弟子といったところかしら? 彼女が弟子を取ったと知った時は、気でも狂ったかと思ったのよ」
「……もとより、お前たちは狂っているだろう」
「手厳しい言葉ね」

 伏倉はくすくすと笑った。自然体で立つ伏倉は、いまだに刀を顕現させず隙だらけだったのだが、楓は斬りかかれずにいた。

「あなたも、この異様なマナを感じているでしょう? もうすぐ夜魔が復活するわ……これ以上は戦うだけ無駄よ。そう思わない? 魔女とはいえ、あなたのような小さい子を斬るのは、さすがの私でも忍びないのよ」

 伏倉の声はどこまでも優しげだった。しかしその裏に滲む凄惨な色は、彼女が何人も魔女を斬っている証であった。そのおぞましさに、楓は吐き気を覚えた。

「伏倉響……私を斬りたくないというのなら、そこをどいて欲しい。あなたはこれ以上戦うのは無駄だといったな。だが私はそうは思わない。まだ夜魔が復活していないのならば、戦う意味はある」

 硬い響きを声音に秘めて、楓は言った。それは伏倉に対する宣戦布告だった。そこをどかなければ斬る。魔女殺しと呼ばれ忌み嫌われる伏倉響に、楓はそう伝えたのだ。
 伏倉はただ優しく微笑んでいた。楓はその微笑に伏倉の本性を見た。戦意を高める楓を見て彼女は喜色に染まったのだ。彼女が包み隠していた殺人狂という真体が、露わになりかけていた。

「そう、分かったわ。ここまで来てあなた程度に儀式を邪魔される訳にはいかないものね。あなた、ここで死んでくれる?」

 殺意も戦意も現さずに、伏倉はごく自然に刀を顕現させた。楓は伏倉に合わせるように、すでに手にさげていた刀を右肩に担ぐように構えた。伏倉の体が、揺らめいた。
 ゆるり、ゆるり。風に吹かれる蝋燭の炎の揺らめきを想起させる体捌きで、伏倉が距離を詰めてくる。刀をだらりと両手にさげた無構えのまま、前へ、右へ、左へ。時に後ろに下がる伏倉の巧妙な動きで、楓の間合い掌握が徐々に乱されていく。

 ――化け物め!

 楓は恐怖で叫びだしそうになる口を必死で抑え、心中で毒を吐いた。伏倉の動きは緩やかに見えて素早く、まるで楓の意と意の間隙を縫うかのように距離を詰めてくる。もはやそれは人の姿に思えず、剣を握った亡霊のようだった。強い死の幻想が、楓の脳内を満たしはじめた。

 楓は固く剣を構えたまま一歩も動けずにいた。一歩でもうかつに動けば、その瞬間に伏倉に斬られる気がしたのだ。
 小鴉と伏倉は全く性質の違う剣客であった。素早い動きを見せずに相手を監視し、後の先や先の先を狙ったり、あるいは魔技を用いた術策を使う小鴉と違って、伏倉は術技や構えにとらわれない。

 無構えで飄然と間合いを詰め、間合いの際に差し掛かったら相手よりも先に斬る。相手が先に動いたらその出端を斬る。あるいは相手の剣撃を抜きつつ斬る。伏倉はそのような剣客であった。
 剣と剣の勝負とは詰まるところ、彼よりも先に我が斬るということに帰結する。その単純であり至極の結果を求めるため、心理を含めた様々な剣技、兵法が生じていた。単純な結果を得るために、複雑極まる過程を辿るのが剣の勝負。しかし、伏倉はもはやその域にあらず。

 伏倉の剣は、過程にとらわれず結果を現す剣である。つまりは、敵より先に斬る、ただそれだけを極めた剣だった。
 このような相手に策を弄するのは、自ら死地に飛び込むようなものだった。今楓が心に秘めなければいけないのは、伏倉よりも効率的な運剣のみである。

 伏倉の剣撃の軌道が描く円よりも小さい円を描いて、先に斬る。最適の間で最適の瞬間に最適の運剣を遂げるのは果たして誰か。伏倉との戦いは、そういう勝負であった。
 ゆらめく体捌きで近づく伏倉から、剣気が膨れ上がった。来る。楓がそう思った瞬間、耳をつんざく悲鳴が森の中に響き渡った。
 いや、これは悲鳴ではない。楓は咄嗟にそう思った。その声は、今渦巻くマナの奔流と似た忌まわしさを持った、狂気の咆哮だった。

「ひっ……」

 楓は思わず小さく悲鳴をあげた。耳の中から脳まで伝搬する声という信号が、楓の中をかき乱し、恐怖を抱かせた。その瞬間、楓の体は凍り付いたように固まり、どうしようもない隙を見せた。
 斬られる。楓はそう思ったが、その体は無事であった。
 楓と同じく、伏倉もまた今の突然の絶叫に気を奪われていた。彼女は声がした方向である背後に視線を投げていた。

 楓はすぐさま後ろへ下がり、伏倉から大きく間合いをとった。背後を見る隙だらけの伏倉に斬りかかるか迷ったものの、突然のことで呼吸も心も崩れた今の状態で斬撃しては手痛い反撃をくらうと判断したのだ。

「今の、聞いたでしょう? あれが夜魔の声よ」

 伏倉は楓に振り返り、柔和に微笑みながら続けた。

「声が聞こえたと言うことは、もうすぐで夜魔の封印が解けるの。ふふ……楽しみね。小鴉にも見せてあげたかったわ」
「あれが……あの声の主が、夜魔か……!」

 先ほどのは、思い出すだけで身が凍る絶叫だった。聞くものに恐怖と狂気をもたらす声の持ち主こそが、かつて三魔女が封じたという夜魔であった。

 ――声だけで分かる。あれはこの世に存在してはいけない。

 夜魔が復活すれば、きっと恐怖と狂気がこの世に溢れる。楓の脳内にやすやすと地獄絵図が浮かび上がった。それは目の前で両親が食われる光景よりも、ひどく恐ろしいものだと楓は思った。

「なぜあんなものを復活させようと思う! 今の声であなたも分かっただろう。あれは……あれは、狂気の産物だ!」

 楓は思わず伏倉に向かって叫んでいた。夜魔の封印を解くという行為がいかに理不尽なものか、楓は肌で感じていた。
 夜魔がもうすぐ復活するというのなら、もはや一刻の猶予もない。楓は今すぐ伏倉を斬り殺し、天坂の元へ急がなければならなかった。しかし、楓はどうしても気になってしまった。なぜこのような理不尽な行為を、小鴉は、伏倉は、天坂は、行うのだろう。

「狂気、ね。ええ、その通り、あなたは正しい。あれは狂気の産物に違いないわ。でもね、本来はあれを解き放つことこそが、魔女の本懐なのよ」
「……なに?」
「夜魔の正体を、あなたは知っているかしら?」
「集まったマナが意思を持ったものが夜魔の始まりだとは聞いている。そして今私たちが始祖の魔女と呼ぶメリルをたぶらかして、彼女にマナでできた夜魔の肉体を作らせたということも、聞かされた」

 伏倉に優しい声音で問われ、思わず楓は答えていた。

「そう、詳しいわね。あなたの言う通り、夜魔はメリルをそそのかしてマナの肉体を作らせた。でも実はね、メリルは夜魔の肉体を作る前にまず、自分の肉体に似せた試作品を三つ作ったの。ふふ、面白いことに、マナで作った三つの肉体には自然と意思が宿り、自ら動くようになったのよ。まるで、マナの集合体が意思を持って夜魔となったようにね」

 淡々と語る伏倉の言葉を聞いて、楓は自然と冷や汗を流していた。伏倉の言うことが正しければ、伝承に残る三魔女とは要するに。

「そう、三魔女の正体は夜魔と同じく、マナが意思を持ったもの。夜魔と違って、初めから肉体があったのが違いだけどね。今の魔女である私たちが、三魔女の血を含んだラピスを用いないとマナを操作できない理由が、分かったかしら?」
「……三魔女と夜魔の関係は分かった。だがそれがどうして、夜魔を解放することが魔女の本懐となる? 肉体を得た夜魔を封じたのが、三魔女だろうに」
「あら、分からないのかしら? 魔女の発端は夜魔にこそあるの。三魔女など、始祖の魔女を裏切った薄汚い出来損ないにすぎないわ。魔女とは始祖の魔女メリルのことを指し、彼女の本懐こそが魔女の本懐。即ち、夜魔に肉体を与え解放することよ。ゆえに、夜魔の封印を解こうとする私や天坂こそが正統の魔女。三魔女の意志を継ぐあなた達は、ただの偽物よ」

 伏倉の話を聞いて、楓は因縁というものを感じた。始祖の魔女と三魔女の話は、もう百年以上も前の話だというのに、年月がいくら過ぎ去っても因縁というものは全く錆びつかず、現代に至るまで健在だった。

 ――誰も彼も、影に縛られているのだろうか。

 楓は己の人生に影を感じていた。見えない影が己を縛り、楓の行く手を阻んでいる。きっと、伏倉もそうなのだ。天坂も、小鴉も……美景も紅音も、その他の者も全員が、縛られている。それに気づくか気づかないか、それを斬ろうとするか、そのままにするかは、別として。

「ふふ、小鴉は魔女ではないけど、夜魔の狂気に魅せられたの。その辺の魔女よりは、よっぽど見る目がある良い男だったわ」

 くすくすと笑う伏倉を、楓は見つめた。伏倉や小鴉、そして天坂は、自ら望んで影に縛られていった。そのことが、ひどく虚しく感じられた。

 ――私は、私を縛る影を、斬る。

「……先ほど、小鴉を倒したのかと聞いたな、魔女殺し」
「ええ、聞いたけど……?」
「その通りだ、私が奴を殺した」
「……そう」
「どうやって奴を倒したのか……今教えてやる。あなたはここで死ね」

 楓は大きく距離をとって、深く腰を沈めて右脇に構えた。

「……? えらく慎重ね」

 伏倉は、遠間からまるで小鴉のように構える楓を不審げに見ていた。その顔を見て、楓は仕掛けが上手くいったことを感じた。
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