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第3話『うわさにはならないけれど、ちょっと褒められました』
しおりを挟む土曜日の朝。
夫・涼(りょう)は久しぶりにゆっくり寝坊中。娘の陽菜(ひな)はリビングでテレビの前に正座して、アニメのエンディング曲を小さく口ずさんでいる。
「……今のうちかな」
結月はそっと寝室の奥から、例の白い本を取り出した。
昨日、農場で収穫した野菜は大成功だった。だから今日は――果物を使ったジャムを試してみたい。
リビングの隅、誰にも見られない位置で本を開く。
「果樹園」と書かれたページをそっとなぞると、昨日と同じようにふわりと視界が白く包まれた。
気づけばそこは、静かな果樹園だった。
薄曇りの空の下、やわらかい光が満ちていて、空気はほんのり甘い香りを含んでいる。
背の高い木、低木の茂み、さまざまな果物の気配に囲まれていた。
「……今日は、桃と、ブルーベリー、それから――すももがいいかな」
結月が頭の中でそう思い描くと、不思議なことに目の前の木々の一角がふわっと光り、指定した果物が実っていく。
ひときわ目を引いたのは、赤紫のすもも。
その艶やかさは、市場で見るものよりもずっと色濃く、ふっくらとしていた。
「きれい……ほんとに、魔法みたい」
そっと手を伸ばすと、するりと簡単にもぎ取ることができた。
果物たちはそれぞれ、結月の知っている香り、知っている手触り。だけど、どこかそれ以上に美しく、力強さを感じさせた。
(ほんの少しだけ……いただきます)
心の中で感謝を告げながら、数種類を収穫し、ページを閉じると、また現実の部屋に戻ってきていた。
⸻
午後――
近所の公園では、娘と娘の友達たちが元気に走り回っていた。
ベンチの木陰では、ママ友たちが水筒を片手に、ぽつりぽつりと話している。
「ねえねえ、陽菜ちゃん、最近また背伸びたんじゃない? この間のお弁当もかわいかったし、すごく元気そうだったよ~」
「そうそう。うちの子、陽菜ちゃんと交換したトマトがすごく甘かったって言ってて。どこで買ったのかって聞いたけど、“ママのひみつ”って」
「えっ、あ……それね、家庭菜園でちょっとだけ。趣味みたいなもので……」
結月は少しだけ照れくさそうに笑う。
でも、誰かが大きく騒ぐわけではなく、それ以上の話題にはならなかった。
「あ、なるほどね~。でも結月さんって、昔からセンスあるよね。盛りつけとか、色合いとか」
「たまたまだよ。自分が食べたくなるように、って思ってるだけで」
穏やかに会話が続き、別に特別扱いされることもなく、日常のひとコマとして流れていく。
(……このくらいが、やっぱりちょうどいい)
結月はほっと息をつきながら、公園の遊具で遊ぶ陽菜の姿を見つめた。
⸻
夕方――
キッチンで小鍋に果物を入れ、丁寧に煮詰める。
白桃のような香り、ブルーベリーの深い甘み、そしてすももの爽やかな酸味が、部屋いっぱいに広がっていく。
「うわー、いいにおい~っ!」
アニメを見終えた陽菜が、鼻をぴくぴくさせながら駆けてくる。
「今日のはね、特別ジャム。明日の朝、パンに塗ってみようね」
「うんっ!ひな、パンたくさん食べる!」
嬉しそうな娘の笑顔を見ながら、結月は思った。
(こうして、少しずつ、使っていこう。派手じゃなくても、誰かが笑顔になれるなら、それで十分)
“本の中の世界”は確かに不思議で、特別なものだけど。
それを使う手は、いつだって――
ごく普通の、やさしい暮らしの中にある。
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