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第8話 『ありがとうを、かたちにして』
しおりを挟む発表会から数日が経ったころ。
リビングの窓から、やわらかな午後の日差しが差し込む。
娘・陽菜は元気に学校へ、夫・涼は会社へ。
いつもの日常が、また静かに戻ってきていた。
だけど、結月の胸の中には、あの日の余韻がまだほんのりと残っている。
(……ありがとうを、ちゃんと伝えたいな)
娘の成長を見守ってくれたピアノの先生。
送り迎えをさりげなく手伝ってくれた義母。
「発表会、よかったね」と気さくに声をかけてくれたママ友たち――。
誰もが大げさに称賛してくれたわけじゃない。
けれど、あたたかく見守ってくれたその気持ちに、何かで応えたいと思った。
(お菓子、焼こう。手のひらサイズの、やさしい味の)
結月はそっと、白い本を取り出し、ページをめくる。
やわらかく微笑むようなイラストの見開きに触れる。
――《料理制作場》
⸻
空間が切り替わると、そこはまるで洋館のキッチンのような、温かみのある部屋だった。
大きな天板のテーブル、並ぶ道具や材料棚。
でも、どれも古びた感じはなく、どこか“馴染んだ清潔さ”がある。
(クッキー。果実の風味をほんのり入れて、甘すぎないやつ)
そう思っただけで、手元の作業台には材料が整う。
農場で育てたばかりの卵と小麦粉、
バター、きび砂糖、そして――
果樹園で収穫したすももとブルーベリーを乾燥させたチップ。
「……ひとくち食べたら、ちょっと元気になるような味がいいな」
バターをやわらかく練り、生地をまとめ、果実を混ぜる。
焼き型は丸いものと、音符型の小さなものを使った。
(陽菜の演奏にちなんで、ちょっとだけ)
オーブンの中でふわりと膨らむ香りに、胸がふっと軽くなる。
やがて焼き上がったクッキーは、香ばしく、ほのかに果実の甘酸っぱさが香っていた。
「よし。つぎは、入れ物を作ろう」
⸻
結月は本を閉じ、ふたたびページをめくる。
今度は、まだ開いたことのない新しい扉。
――《雑貨製作場》
指先で触れると、空間はまたやわらかく変わっていった。
⸻
そこは、アンティークショップのような小さな工房。
木の棚には缶や紙箱、布小物が整然と並び、壁際にはリボンやタグ、包装紙が美しく色分けされていた。
「こういうの、大好き……」
結月は、先ほど焼いたクッキーをイメージしながら、缶のサイズを選ぶ。
角の丸い小さな白缶と、淡いグレージュの紙箱。
音符のモチーフに合わせて、タグは優しい生成り色のものを選ぶ。
中に敷くワックスペーパーは、音符柄と花柄のミックスにして、
外にはくすみピンクのリボンをそっと巻いた。
(“ありがとう”って、言葉だけじゃ届かないときもあるから……)
ひとつひとつに手書きのカードも添える。
『発表会のときは、見守ってくださってありがとうございました。
陽菜も、私も、とても励まされました。
小さなお菓子ですが、どうぞ召し上がってください』
⸻
現実に戻った結月は、包みをそっと持って、まずピアノの先生宅を訪ねた。
玄関先で先生が小さな缶を見て微笑んだ。
「まあ、可愛らしい缶」
「はい、クッキーなんですけど、気持ちです」
「きっと陽菜ちゃんの演奏と同じくらい、心がこもってるのね」
そんな言葉に、ほっと胸があたたかくなった。
義母には、夕方のお茶の時間に。
ママ友には、園の送り迎えのときにさりげなく。
誰も「どこで買ったの?」なんて聞いてこない。
「すごい!」と騒がれることもない。
ただ、「ありがとうね」と、あたたかい笑顔をもらえるだけ。
(……これが、いちばん嬉しい)
⸻
夕方、陽菜が帰宅してランドセルを置いたあと、台所へやってきた。
「ママ、今日ね、ゆりちゃんママが“やさしい味だった”って言ってたよ。
“ああいうの、自分でも作れたらなあ”って」
「そう? うれしいなあ……」
「ひなも、つくってみたい。こんど一緒に、やっていい?」
「もちろん。ひなと作ると、もっとやさしい味になるかもね」
娘がにっこり笑ったその横顔は、ほんの少しだけ、
舞台に立った日のあの晴れやかな表情に似ていた。
(じゃあ今度は――一緒に。ね)
やさしさを、やさしく伝える方法。
それが、この不思議な本と共に歩む、結月の新しい日常になっていこうとしていた。
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