陰陽師と金の迷い子 ―平安怪異譚―

桜野なつみ

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第二帖 御影、呼ばれる

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夕日さえ姿を隠し、空がすでに群青へと沈みきった頃、芦屋川 朝光はようやく邸へと戻った。昼の出仕に追われるうち、今朝、川辺にて拾い上げた金の髪の少女のことを半ば忘れかけていたのは否めぬが、それでも邸の門をくぐった瞬間、胸の奥にかすかな引っかかりのようなものがよみがえる。

「あの、若様。朝方にお連れになられた女子のことですが」

供の者が声を落とす。その声音には、明らかに不安と困惑が滲んでいる。

「……ああ。あれから、どうしている」

朝光は草履を脱ぎながら、何気なく問うた。

「奇妙な衣をまとい、濡れておりましたゆえ、女房どもに替えの衣を用意させようといたしましたが……」

「ふむ」

「近づくと、大声にて呪言を唱えますゆえ、誰一人、近寄れずにおります」

朝光はわずかに眉を上げる。

「本当に呪言か。お前はこうして無事ではないか」

「しかし、あのような姿にて、聞いたこともない言葉を話す輩は、かならずや物怪にございます」

「……我が邸に、何ぞ異変が起こったようには見えぬがな」

朝光は庭先を、渡殿を、灯された行灯の明かりをゆるりと見渡す。夜気は穏やかで、木々も騒がぬ。何も乱れてはおらぬように見える。

「して、あやつには何ぞ飲むもの、食すものを与えたのか」

「若様! ゆえに申し上げましたでしょう、物怪に名をお与えなさるなと……」

「ああ、わかった、わかった。ではその物怪とやらは、いまどこにおる。奥の間か」

「若様……!」

朝光は小さく笑い、そのまま奥へと歩を進める。最奥の襖の前で立ち止まり、ひと息だけ気配を探る。

「入るぞ」

返事はない。

ゆるりと襖を開ける。

暁は、俯き、膝を抱えて座していた。

乾いた金の髪が灯火を受けて淡く揺らめき、青い瞳が、ゆっくりとこちらへ向く。その色は、夜の室内にはあまりに異質で、まるで異国の空がそのまま閉じ込められているかのようであった。

“Who are you?!”

次の瞬間、跳ねるように立ち上がる。

“Why am I here?!”

供の者が悲鳴を上げる。

「若様、いま“我を射よ”と!」

「……違うであろう」

“Don’t come near me!”

暁が側に置かれていた枕を掴み、朝光へと投げつける。

「“斬るな身を”と申しました!」

「お前の耳は、まことに冴えておるな」

朝光は難なく身をかわす。

「元気ではないか」

暁はさらに敷かれた寝具を掴み、振り回す。

“Stay away!”

「“捨てよ家”と!」

「我にはそのようには聞こえぬがな」

投げられるものを避けながらも、朝光はゆるやかに一歩、また一歩と近づいていく。近づくごとに、暁の顔は強張り、混乱と恐れが入り混じっていくのがはっきりと見て取れた。

暗い室。
知らぬ男。
知らぬ言葉。
そして傍らに敷かれた寝具。

その取り合わせに、朝光はようやく合点がいく。

「……ああ、なるほど。夜の訪れと思うたか」

そう言い、静かにその場へ腰を下ろす。

「おい、お前も座れ」

供の者へも視線だけで示す。

「しかし……」

「おそらく暁は、我らが夜の訪れに来たのだと思うておる」

「はあ……」

供もおずおずと膝を折る。

それを見て、暁はわずかに動きを止める。荒れていた呼吸を整えながら、それでもなお訴えるように言葉を続ける。

“Please— just tell me! Why am I here?!”

「“我は火”と!」

供の言葉に、朝光はわずかに苦笑した。

「……やはり呼ぶか」

声を張る。

「誰か! 誰かある!」

廊がざわめき、足音が幾重にも重なって近づく。その気配に、暁の青い瞳がさらに見開かれ、恐怖が濃く差す。

“Don’t—”

声が、途切れる。

ふわりと、金色が崩れ落ちた。

衣が静かに沈み、残されたのは几帳の揺れと、急に重くなった静寂だけであった。

「……若様」

朝光は歩み寄り、しゃがみ込む。そっと額に手を当てる。

「息はある」

灯の下に、金の髪が広がる。

朝光はゆっくりと立ち上がる。

今度は迷いなく、低く告げた。

「……やはり、あいつを呼べ」

灯火がわずかに揺れ、夜はさらに深みを増す。



御影は、細き灯の下でひとり筆を動かしていた。墨の香が静かに満ち、筆先が紙をなぞる音のみが、夜の静寂を破らぬように淡く続いている。

ふと、筆が止まり、御影はわずかに横を向く。

「……ほう」

独り言のようでありながら、まるで誰かの問いに応じるかのような声音。

「朝光は、また拾ったか」

しばし、何かを聞くように黙る。

「お前と同じような?」

わずかに目を細める。

「この世に、そのような者が本当にいるとは。面妖な」

灯が揺れる。そのとき、廊を駆ける足音が近づく。障子の向こうから、走ってきたのであろう息を整えぬままの声が響く。

「主様、いま……」

御影は顔を上げぬ。

「芦屋川だろう」

「左様でございます。迎えの馬が」

御影は筆を置く。動きに迷いはない。

「変わらぬな。拾ってきたものの後始末は私だ」

淡々と立ち上がる。

衣が音もなく揺れる。

「参る」

それだけ言い、夜の廊へと歩き出した。
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