3 / 3
第三帖 芦屋川、疑われる
しおりを挟む
御影が邸に着いた頃には、すでに夜もだいぶ更けていた。
灯火の下、案内された奥の間の襖を開けた瞬間、御影の視線がわずかに細まる。
几帳は倒れ、夜具は乱れ、枕が床に転がり、灯火までがどこか傾いている。穏やかな部屋の姿とは、とても言い難い有様であった。
御影は静かに言った。
「また余計なものを拾ったと聞いて来たが……すでに怪異が起こっているのか」
朝光は腕を組み、すぐに首を振る。
「いや、違う。これは」
一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「暴れられたのだ。この娘に」
「娘?」
御影の眉がわずかに動く。
朝光が顎で示す。
「そこだ」
御影の視線が寝床へ落ちる。
そこに横たわっているのは、一人の少女だった。
濡れた衣はすでに替えられ、髪も乾いている。だが灯火の下でもはっきりと分かるほど、その髪は異様な色をしていた。
金色。
都ではまず見ぬ色である。
少女は眠るように横たわっている。呼吸は静かで、胸は規則正しく上下している。どう見ても、現世の肉体を持つ者の姿であった。
御影は低く呟く。
「……これは」
朝光が肩をすくめる。
「妖ではないと思うぞ。何せ朝に拾ったのだ。鴨川で」
御影はわずかに目を細める。
「鴨川」
それから、部屋の惨状をもう一度見渡す。
倒れた几帳。乱れた夜具。転がる枕。
静かに朝光を見る。
「……と、言うことは」
一拍置き、淡々と続けた。
「この部屋の有様は、妖の仕業ではないのだな」
「違うと言っている」
御影はさらに言葉を重ねる。
「お前、また夜の訪れをしようとしたのではないか。それで嫌がられて暴れられたか」
朝光が思わず声を荒げる。
「いや違う! 断じて違うぞ! 今回は――」
だが御影はすでにその言葉を聞いていなかった。
静かに寝床へ近づき、少女の傍らに跪く。
そして顔の前へ、そっと手をかざす。
触れはしない。ただ気を探るように、静かに掌を置く。
しばしの沈黙。
やがて御影が短く言う。
「息づいている」
それから、低く続ける。
「……現世のものなのか?」
朝光はすぐ答えた。
「そうなんだ。生きているものでな。今朝方、鴨川に浮いているのを見つけて引き上げたんだ。気を失っておったので屋敷に連れ帰ったが」
御影は淡々と返す。
「襲って暴れられたと」
「だから違うと――」
朝光がまた言い募ろうとするのを、御影はまるで聞いていないかのように遮り、室内を見渡した。
几帳の向こう。廊の際。部屋の隅。
そこに控えている使用人たちを順に見る。
そして穏やかな声で言う。
「君たちは下がっておいてください。私と朝光の二人に」
使用人の一人が戸惑う。
「しかし……危険では」
御影は静かに答える。
「大丈夫です。とにかく二人に」
朝光が軽く手を振る。
「御影の言うとおりにせよ」
それで決まった。
使用人たちは顔を見合わせ、やがて一人、また一人と襖の外へ退いていく。足音が遠ざかり、やがて廊の気配も消えた。
室内に残るのは、灯火と、倒れた几帳と、眠る少女と、そして二人だけ。
御影はしばらくその静寂を確かめるように立ち尽くしていた。
やがて人払いが済んだことを確認すると、静かに指を組み、印を結ぶ。
低く、短い呪を呟く。
空気が、わずかに揺れる。
灯火がふっと細くなる。
その揺らぎの中から、ふわりと一人の女性の姿が現れた。
金に近い淡い髪。白い衣。だがその姿は都の女房とはどこか異なり、異国の気配を帯びている。
朝光が目を細める。
「式神か」
御影は答える。
「ああ」
そして眠る少女を見下ろしながら続けた。
「この娘と同じ姿の者がおったものでな」
◇
女は静かに頭を下げた。
「お呼びにございますか」
「月依。この者、どう見る」
月依は少女を見つめ、わずかに目を細める。
「……同じ、西の香りが致しますね」
そのときだった。
暁のまつ毛がかすかに動く。
やがて、ゆっくりとその瞳が開かれた。
ぼんやりと視線を巡らせる。
見知らぬ部屋。見知らぬ男。そして——
自分と同じ顔立ちの女。
暁の目が一瞬で見開かれる。
「Oh my god…!」
勢いよく体を起こす。
「You! Finally!」
そして一直線に月依へ駆け寄った。
「You speak English, right?!」
飛びつく。
しかし——
体はそのまま、すり抜けた。
「What—?!」
暁は前のめりになり、慌てて畳へ手をつく。
御影と朝光が同時に固まる。
朝光がぽつりと言う。
「……御影」
御影の視線が暁へ向く。
「……ああ」
朝光が続ける。
「これは」
御影は静かに答えた。
「見えているな」
暁は混乱したまま振り向く。
「Why can’t I touch you?!」
月依は静かに答える。
「You cannot touch me.」
暁の顔がぱっと明るくなる。
「You speak English!!」
朝光が御影を見る。
御影も朝光を見る。
朝光が言う。
「おい」
御影が答える。
「分かっている」
朝光が苦笑する。
「これは」
御影が小さく息を吐いた。
「面倒な拾い物をしたな」
灯火が、静かに揺れた。
灯火の下、案内された奥の間の襖を開けた瞬間、御影の視線がわずかに細まる。
几帳は倒れ、夜具は乱れ、枕が床に転がり、灯火までがどこか傾いている。穏やかな部屋の姿とは、とても言い難い有様であった。
御影は静かに言った。
「また余計なものを拾ったと聞いて来たが……すでに怪異が起こっているのか」
朝光は腕を組み、すぐに首を振る。
「いや、違う。これは」
一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「暴れられたのだ。この娘に」
「娘?」
御影の眉がわずかに動く。
朝光が顎で示す。
「そこだ」
御影の視線が寝床へ落ちる。
そこに横たわっているのは、一人の少女だった。
濡れた衣はすでに替えられ、髪も乾いている。だが灯火の下でもはっきりと分かるほど、その髪は異様な色をしていた。
金色。
都ではまず見ぬ色である。
少女は眠るように横たわっている。呼吸は静かで、胸は規則正しく上下している。どう見ても、現世の肉体を持つ者の姿であった。
御影は低く呟く。
「……これは」
朝光が肩をすくめる。
「妖ではないと思うぞ。何せ朝に拾ったのだ。鴨川で」
御影はわずかに目を細める。
「鴨川」
それから、部屋の惨状をもう一度見渡す。
倒れた几帳。乱れた夜具。転がる枕。
静かに朝光を見る。
「……と、言うことは」
一拍置き、淡々と続けた。
「この部屋の有様は、妖の仕業ではないのだな」
「違うと言っている」
御影はさらに言葉を重ねる。
「お前、また夜の訪れをしようとしたのではないか。それで嫌がられて暴れられたか」
朝光が思わず声を荒げる。
「いや違う! 断じて違うぞ! 今回は――」
だが御影はすでにその言葉を聞いていなかった。
静かに寝床へ近づき、少女の傍らに跪く。
そして顔の前へ、そっと手をかざす。
触れはしない。ただ気を探るように、静かに掌を置く。
しばしの沈黙。
やがて御影が短く言う。
「息づいている」
それから、低く続ける。
「……現世のものなのか?」
朝光はすぐ答えた。
「そうなんだ。生きているものでな。今朝方、鴨川に浮いているのを見つけて引き上げたんだ。気を失っておったので屋敷に連れ帰ったが」
御影は淡々と返す。
「襲って暴れられたと」
「だから違うと――」
朝光がまた言い募ろうとするのを、御影はまるで聞いていないかのように遮り、室内を見渡した。
几帳の向こう。廊の際。部屋の隅。
そこに控えている使用人たちを順に見る。
そして穏やかな声で言う。
「君たちは下がっておいてください。私と朝光の二人に」
使用人の一人が戸惑う。
「しかし……危険では」
御影は静かに答える。
「大丈夫です。とにかく二人に」
朝光が軽く手を振る。
「御影の言うとおりにせよ」
それで決まった。
使用人たちは顔を見合わせ、やがて一人、また一人と襖の外へ退いていく。足音が遠ざかり、やがて廊の気配も消えた。
室内に残るのは、灯火と、倒れた几帳と、眠る少女と、そして二人だけ。
御影はしばらくその静寂を確かめるように立ち尽くしていた。
やがて人払いが済んだことを確認すると、静かに指を組み、印を結ぶ。
低く、短い呪を呟く。
空気が、わずかに揺れる。
灯火がふっと細くなる。
その揺らぎの中から、ふわりと一人の女性の姿が現れた。
金に近い淡い髪。白い衣。だがその姿は都の女房とはどこか異なり、異国の気配を帯びている。
朝光が目を細める。
「式神か」
御影は答える。
「ああ」
そして眠る少女を見下ろしながら続けた。
「この娘と同じ姿の者がおったものでな」
◇
女は静かに頭を下げた。
「お呼びにございますか」
「月依。この者、どう見る」
月依は少女を見つめ、わずかに目を細める。
「……同じ、西の香りが致しますね」
そのときだった。
暁のまつ毛がかすかに動く。
やがて、ゆっくりとその瞳が開かれた。
ぼんやりと視線を巡らせる。
見知らぬ部屋。見知らぬ男。そして——
自分と同じ顔立ちの女。
暁の目が一瞬で見開かれる。
「Oh my god…!」
勢いよく体を起こす。
「You! Finally!」
そして一直線に月依へ駆け寄った。
「You speak English, right?!」
飛びつく。
しかし——
体はそのまま、すり抜けた。
「What—?!」
暁は前のめりになり、慌てて畳へ手をつく。
御影と朝光が同時に固まる。
朝光がぽつりと言う。
「……御影」
御影の視線が暁へ向く。
「……ああ」
朝光が続ける。
「これは」
御影は静かに答えた。
「見えているな」
暁は混乱したまま振り向く。
「Why can’t I touch you?!」
月依は静かに答える。
「You cannot touch me.」
暁の顔がぱっと明るくなる。
「You speak English!!」
朝光が御影を見る。
御影も朝光を見る。
朝光が言う。
「おい」
御影が答える。
「分かっている」
朝光が苦笑する。
「これは」
御影が小さく息を吐いた。
「面倒な拾い物をしたな」
灯火が、静かに揺れた。
4
この作品の感想を投稿する
あなたにおすすめの小説
あっ、追放されちゃった…。
satomi
恋愛
ガイダール侯爵家の長女であるパールは精霊の話を聞くことができる。がそのことは誰にも話してはいない。亡き母との約束。
母が亡くなって喪も明けないうちに義母を父は連れてきた。義妹付きで。義妹はパールのものをなんでも欲しがった。事前に精霊の話を聞いていたパールは対処なりをできていたけれど、これは…。
ついにウラルはパールの婚約者である王太子を横取りした。
そのことについては王太子は特に魅力のある人ではないし、なんにも感じなかったのですが、王宮内でも噂になり、家の恥だと、家まで追い出されてしまったのです。
精霊さんのアドバイスによりブルハング帝国へと行ったパールですが…。
馬小屋の令嬢
satomi
恋愛
産まれた時に髪の色が黒いということで、馬小屋での生活を強いられてきたハナコ。その10年後にも男の子が髪の色が黒かったので、馬小屋へ。その一年後にもまた男の子が一人馬小屋へ。やっとその一年後に待望の金髪の子が生まれる。女の子だけど、それでも公爵閣下は嬉しかった。彼女の名前はステラリンク。馬小屋の子は名前を適当につけた。長女はハナコ。長男はタロウ、次男はジロウ。
髪の色に翻弄される彼女たちとそれとは全く関係ない世間との違い。
ある日、パーティーに招待されます。そこで歯車が狂っていきます。
【完結】花冠をあなたに ―信じ尽くした彼女の、最期の言葉―
桜野なつみ
恋愛
病弱な婚約者を支え続けた令嬢ミリアーナ。
幼いころから彼を想い、薬草を学び、研究し、元気になったら花畑で花冠を編ごう」と約束していた。
けれど、叔母と従妹の影がその誓いをゆがめ、やがて誤解と病に蝕まれていく。
最期に彼女が残したのは――ただ一つの言葉。
全十話 完結予定です。
(最初は全四話と言っていました。どんどん長くなってしまい、申し訳ありません。)
聖女は神の力を借りて病を治しますので、神の教えに背いた病でいまさら泣きついてきても、私は知りませんから!
甘い秋空
恋愛
神の教えに背いた病が広まり始めている中、私は聖女から外され、婚約も破棄されました。
唯一の理解者である王妃の指示によって、幽閉生活に入りましたが、そこには……
【改稿版】光を忘れたあなたに、永遠の後悔を
桜野なつみ
恋愛
幼き日より、王と王妃は固く結ばれていた。
政略ではなく、互いに慈しみ育んだ、真実の愛。
二人の間に生まれた双子は王国の希望であり、光だった。
だが国に流行病が蔓延したある日、ひとりの“聖女”が現れる。
聖女が癒やしの奇跡を見せたとされ、国中がその姿に熱狂する。
その熱狂の中、王は次第に聖女に惹かれていく。
やがて王は心を奪われ、王妃を遠ざけてゆく……
ーーーーーーーー
初作品です。
自分の読みたい要素をギュッと詰め込みました。
余命僅かな大富豪を看取って、円満に未亡人になるはずでした
ぜんだ 夕里
恋愛
傾きかけた家を救うため、私が結んだのはあまりにも不謹慎な契約――余命いくばくもない大富豪の辺境伯様と結婚し、彼の最期を穏やかに看取ることで莫大な遺産を相続する、というものだった。
しかし、人の死を利用して富を得るなど不正義!
そう考えた私が立てたのは、前代未聞の計画。
「そうだ、遺産が残らないくらい贅沢の限りを尽くしてもらえば、すべて丸く収まるじゃない!」
だって悪女ですもの。
とうこ
恋愛
初恋を諦め、十六歳の若さで侯爵の後妻となったルイーズ。
幼馴染にはきつい言葉を投げつけられ、かれを好きな少女たちからは悪女と噂される。
だが四年後、ルイーズの里帰りと共に訪れる大きな転機。
彼女の選択は。
小説家になろう様にも掲載予定です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる