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白の記憶
しおりを挟む「……とんでもなく疲れた……」
馬車に戻るなり、レオニスは深く座席にもたれかかった。
欲にまみれた者たちには慣れている。けれど、あの母娘はなかなかの強者だった。
とはいえ──あれほど分かりやすければ、操作しやすい。
「もう少し、待っていてください」
窓の外に目をやり、ソーントン邸を祈るように見やる。
ほんのわずかに頭を垂れると、御者に出発を告げた。
馬車がゆるやかに動き出す中、レオニスは膝に一枚の布をそっと広げた。
アリシアが「自分の作品」だと差し出してきた、刺繍入りのハンカチ。
──白地に、淡く繊細な桜の蕾が縫い込まれていた。
「……美しい。だが……これは、あの方ひとりの手によるものではない……
どこか……懐かしい……」
指先で軽くなぞりながら、その刺繍に込められた“思い”を辿る。
そこには、自己主張ではなく、誰かを想うような縫い目があった。
──ふいに、記憶がよみがえる。
*
今から十五年前。レオニスがまだ十二歳のころ──
テンタス皇国を揺るがす政争の渦中、彼は“色”を失っていた。
最も信頼していた兄のような存在──ダグラスが、目の前で拷問の末に殺された。
それを見せられ続けた彼の世界からは、感情も、味覚も、色彩すら消えていた。
目に映るのは、白と黒だけの世界。
そんな彼に、ある日、皇帝である父が言った。
「……来い。お前に必要なものがある」
連れて行かれたのは、隣国ヨシナ国からの特使を迎える謁見の場だった。
「父上、なぜ私が……?」
静養を命じられていた自分が、外交の席に出る理由がわからない。
だが父は、ただ一言だけ返した。
「──お前に、必要だからだ」
その意味がわからぬまま、レオニスは玉座の脇に控えていた。
そして、ヨシナ国の一団が姿を現した。
黒髪と黒い瞳。柔らかな雰囲気をまとう使節たち。
その衣の端に、さりげなく施された刺繍──
その一瞬で、彼の世界が色づいた。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
世界が、白と黒から解放されていく感覚。
皇帝がちらりと彼を見て、小さく頷いた。
「……あの国の刺繍には、癒しの力があると聞いた。
心に深い傷を負った者が、無意識にその“縫い目”に触れると──
心が、呼応するらしい」
レオニスの視線は、ある女性の衣に縫い込まれた桜の刺繍に吸い寄せられていた。
淡い桃色の糸が、一針ずつ、静かに春を咲かせるようだった。
──それが、彼にとって“色”を取り戻す第一歩だった。
*
いま、膝の上にある桜の刺繍。
それは──あの時に見た桜と、どこか重なっていた。
……ただ、ひとつ違っていた。
陰縫いで「助けて」と記されたあの刺繍とは、少し縫い方が異なる。
けれど、同じ“息吹”が、このハンカチからも感じ取れる。
きっと──あのとき、私の世界に色を取り戻してくれたあの人。
その縁の先にある誰かが、今──助けを求めている。
金や地位ではない。
もっと根源的な、“誰かに届いてほしい”という叫びが、確かに縫い込まれていた。
レオニスは思う。
もしかしたら、自分はその叫びに初めて気づいた者なのかもしれない。
名も、姿も知らない誰か。
けれど、この“縫い目”に込められた想いが、確かに彼の胸を打っていた。
「……あなたは、誰ですか」
レオニスの問いは、静かな馬車の中に溶けていく。
そして彼は、もう一度、心の中でつぶやいた。
「……もう少し、待っていてください」
まだ、声すら知らぬ誰かへ。
ただ、心でそう願いながら──
馬車は、まるで春の予感を乗せて運ぶように、静かに走り続けていた。
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