【完結】妹に存在を奪われた令嬢は知らない 〜彼女が刺繍に託した「たすけて」に、彼が気付いてくれていたことを〜

桜野なつみ

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白の記憶

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「……とんでもなく疲れた……」

 馬車に戻るなり、レオニスは深く座席にもたれかかった。
 欲にまみれた者たちには慣れている。けれど、あの母娘はなかなかの強者だった。
 とはいえ──あれほど分かりやすければ、操作しやすい。

「もう少し、待っていてください」

 窓の外に目をやり、ソーントン邸を祈るように見やる。
 ほんのわずかに頭を垂れると、御者に出発を告げた。

 馬車がゆるやかに動き出す中、レオニスは膝に一枚の布をそっと広げた。
 アリシアが「自分の作品」だと差し出してきた、刺繍入りのハンカチ。

 ──白地に、淡く繊細な桜の蕾が縫い込まれていた。

「……美しい。だが……これは、あの方ひとりの手によるものではない……
 どこか……懐かしい……」

 指先で軽くなぞりながら、その刺繍に込められた“思い”を辿る。
 そこには、自己主張ではなく、誰かを想うような縫い目があった。

 ──ふいに、記憶がよみがえる。



 今から十五年前。レオニスがまだ十二歳のころ──

 テンタス皇国を揺るがす政争の渦中、彼は“色”を失っていた。

 最も信頼していた兄のような存在──ダグラスが、目の前で拷問の末に殺された。
 それを見せられ続けた彼の世界からは、感情も、味覚も、色彩すら消えていた。
 目に映るのは、白と黒だけの世界。

 そんな彼に、ある日、皇帝である父が言った。

「……来い。お前に必要なものがある」

 連れて行かれたのは、隣国ヨシナ国からの特使を迎える謁見の場だった。

「父上、なぜ私が……?」

 静養を命じられていた自分が、外交の席に出る理由がわからない。
 だが父は、ただ一言だけ返した。

「──お前に、必要だからだ」

 その意味がわからぬまま、レオニスは玉座の脇に控えていた。
 そして、ヨシナ国の一団が姿を現した。

 黒髪と黒い瞳。柔らかな雰囲気をまとう使節たち。
 その衣の端に、さりげなく施された刺繍──

 その一瞬で、彼の世界が色づいた。

「……あ」

 思わず、声が漏れた。
 世界が、白と黒から解放されていく感覚。

 皇帝がちらりと彼を見て、小さく頷いた。

「……あの国の刺繍には、癒しの力があると聞いた。
 心に深い傷を負った者が、無意識にその“縫い目”に触れると──
 心が、呼応するらしい」

 レオニスの視線は、ある女性の衣に縫い込まれた桜の刺繍に吸い寄せられていた。
 淡い桃色の糸が、一針ずつ、静かに春を咲かせるようだった。

 ──それが、彼にとって“色”を取り戻す第一歩だった。



 いま、膝の上にある桜の刺繍。
 それは──あの時に見た桜と、どこか重なっていた。

 ……ただ、ひとつ違っていた。

 陰縫いで「助けて」と記されたあの刺繍とは、少し縫い方が異なる。
 けれど、同じ“息吹”が、このハンカチからも感じ取れる。

 きっと──あのとき、私の世界に色を取り戻してくれたあの人。
 その縁の先にある誰かが、今──助けを求めている。

 金や地位ではない。
 もっと根源的な、“誰かに届いてほしい”という叫びが、確かに縫い込まれていた。

 レオニスは思う。
 もしかしたら、自分はその叫びに初めて気づいた者なのかもしれない。

 名も、姿も知らない誰か。
 けれど、この“縫い目”に込められた想いが、確かに彼の胸を打っていた。

「……あなたは、誰ですか」

 レオニスの問いは、静かな馬車の中に溶けていく。

 そして彼は、もう一度、心の中でつぶやいた。

「……もう少し、待っていてください」

 まだ、声すら知らぬ誰かへ。
 ただ、心でそう願いながら──

 馬車は、まるで春の予感を乗せて運ぶように、静かに走り続けていた。
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