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白に咲いた灯り
しおりを挟む翌日──
ソーントン伯爵家の門前に、一台の馬車が停まった。
ヴァルト商会、レオニスの訪問である。
丁重に迎えられた彼は、ひとつの箱を手にしていた。
それは皇国の金細工が施されたワイングラス。精緻な模様が刻まれ、光の粒が踊るように反射している。
「こちらは、私の依頼人がどうしてもアリシア様にと、託した品でございます。
先日の夜会にて拝見しましたご令嬢の刺繍を、たいそう気に入りまして。
少しでも早く手にしたいと、熱心に願っております」
「まあ!」
アリシアとソーントン夫人の目が、ぱっと輝いた。
「できれば、ほんの小さなモチーフ刺繍でも構いません。
もしお届けいただけるようでしたら、同じシリーズのティーカップも献上したいと申しております」
「……少し、お待ちいただけますか?」
アリシアは立ち上がり、廊下に出ると母と顔を寄せ合った。
「ほら、あるでしょ? あの子が途中まで縫ってたやつ」
「あるかどうか分からないけど……行ってみましょう!」
二人は急ぎ足で、東棟へと向かった。
*
勢いよく扉が開いた。
「ちょっと! なんか出せるもんないの?」
刺繍枠を手にしていたビオラは、驚きながらも静かに顔を上げた。
「……ああ、それは注文されてたやつだったわね。じゃあ、それは使えないわ。
他には?」
アリシアは部屋に踏み込み、視線を泳がせる。
そして、ビオラが一瞬だけ目を向けた引き出しに気づいた。
「……今、こっち見たわよね?」
すぐさま歩み寄ると、勢いよく引き出しを引き抜いた。
中の刺繍布が床にばらばらとこぼれ落ちる。
「あら、たくさんあるじゃない! どこよ、使えそうなのは……」
無造作にかき分ける指先が、一枚の布を引き寄せる。
──白地に、淡い桜色の糸で縫われた、蕾の刺繍。
それは、ビオラが母との思い出として大切にしまっていた、桜のハンカチだった。
「これでいいわ。地味だけど、上品さはあるし。ね?」
ビオラの瞳が大きく見開かれる。
思わず立ち上がり、アリシアの手首をぎゅっと掴んだ。
声にはならなくても、その目は語っていた。
“やめて”と、懸命に、必死に。
「なに? これくらいで」
アリシアは眉をひそめ、ふんと鼻を鳴らす。
「どうせあんたに渡す相手なんていないんだから、これくらい貸してもらってもいいでしょ?」
嘲るように笑いながら、その手を乱暴に振り払う。
白く淡い桜の記憶は、ビオラの手をすり抜けて──奪われていった。
*
「ありがとうございます、こんな素晴らしい品まで……。
では、こちらが追加の材料です」
アリシアが刺繍を持ち帰ると、レオニスは穏やかに微笑み、もう一つの籠を差し出した。
中には、各国から集めた上質な刺繍糸や布が、整然と収められている。
「明日もお伺いしてよろしいでしょうか?
依頼人が、一日でも早く続きを見たいと申しております。
明日はティーカップをお持ちする予定です」
「もちろん! ぜひいらして」
母娘は満面の笑みを浮かべた。
その目には、欲と虚栄の色が、はっきりと宿っていた。
*
レオニスが去った後。
「これ、あいつに持ってって」
アリシアは籠をメイドに押しつけるように手渡し、命じた。
「明日までに、何か作っておきなさいってよ!」
メイドはドスンと音を立てて籠を投げ込む。
アリシアが散らかした刺繍布の上に。
ビオラは静かに立ち上がり、ひとつずつ、丁寧に布を拾い集めていった。
震える指先に、涙がぽたぽたと落ちては、布に染みこんでいく。
──母との日々を縫い込んだ、あの桜のハンカチ。
それが、何も知らぬ他人の手に渡ってしまった。
それでも。
今あるものを、守りたいと思った。
ビオラは最後の一枚まで折り直し、静かに引き出しに戻した。
そして、籠の蓋を開ける。
美しい糸や布に、ほんの少しだけ心が慰められる。
一つひとつ確かめていたそのとき──
──小さな、温もり。
白い小包が一つ、籠の底にあった。
包みを解くと──
新しい指貫。手のひらに馴染むハンドクリーム。
そして、やさしく添えられたひと包みのクッキー。
さらに、包んでいた白布には──
影縫いの文字が、淡く、けれど確かに浮かんでいた。
『もうすこし まっていて』
──それだけだった。
けれど、それがどれほどの力を持つか、誰よりもビオラが知っていた。
クッキーをそっと口に含む。
甘い。やさしい。なつかしい。
母と過ごした、あの頃の味に、よく似ていた。
──この甘さに泣いたのか。
それとも、この布に綴られた言葉に泣いたのか。
ビオラの頬を、温かな涙がぽろぽろと伝っていく。
声がなくとも、彼女の心は、確かに言葉を受け取っていた。
今日も、白の中に──そっと、希望の花が咲いた。
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