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中編

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 ミーナは娼館内の一室で、少しサイズの合わないナイトドレスを羽織って落ち着かない気持ちでそわそわと身体を揺らしていた。もうすぐこの部屋に、ミーナが一目惚れしたあの男がやってくる。仮面デーではお互いの素性を知らずに触れ合いが開始されるのが基本だそうだし、自分でも良く言えば素直、悪く言えば愚直だという自覚のあるミーナは事前に名前を聞かされたらきっとどこかでポロっと名前を呼んでしまうだろう。それならば、触れ合いの中で知り得る情報だけでやりとりした方がよっぽど良い。
 本来であればお互いのことは全く知らされずにランダム(とはいえ、ある程度店主――マルタが合う合わないは配慮するらしい)でマッチングされる日なのだそうが、今回ミーナは特別にあの男に着かせてもらうという密約を取っていた。その代わり、娼婦として支払われる金額が他の娼婦よりも少ない。けれども、ミーナの第一目的はあの男に抱かれることであったので、賃金だなんて些細なことで確実に目的が叶うのであればどうでも良かった。

 ミーナの着ているナイトドレスは、他娼婦のお下がりだ。というのも、今回一回きりという特殊な働き方であるために、専用の衣装等を用意する必要性が薄かったので。薄い生地のそれはこのような仕事に縁のなかったミーナにとって大変心許ないし、サイズが合わない故に通常よりも胸元が開いてしまい余計に恥ずかしいのだが、唯一の救いは本日のメインテーマともいえる仮面であった。目の周辺は当然穴が開いているので瞳の色やある程度の形は分かるだろうが、仮面に着けられた羽根の加工品のおかげで頬の半分は隠されている。呼吸の為か鼻や口元は空いているので、たとえば口付け等は問題なく行えそうだ――と考えて、ミーナはにまにまと口元を緩める。これから、あの凛々しく逞しい男に触れてもらえるのだと思うと笑みが止まらない。
 ミーナがなんとかにやける顔を抑えていると、コンコン、と強めのノックの後にがちゃりと扉が開かれた。


「ええっと、ここで良いか?」

 戸惑いがちな声と共に入室したのは、仮面ではっきりと顔は分からないものの確かにミーナが一目惚れした男そのひとだった。ツンツンした赤茶の髪、仮面でしっかりと見えず残念ではあるがこちらを見つめる金色の瞳。声は思ったよりも低くまるでミーナの脳に直接入り込むような、ぞくぞくする程良い声だ。そして鍛え上げられている身体は、先日よりもラフな服装でいるからかより分かりやすく魅力を伝えてくる。

「こんばんは!ミーナといいます。よろしくお願いします!」

 勢いのあまり殊の外大きな声でそう言ってしまったミーナは、ぽ、と頬を赤く染めた。張り切りすぎて声量を間違えてしまったことを恥じたミーナだったが、目の前の男はそのようなことはあまり気にならなかったらしい。ぽかん、として(表情は分からないが)ミーナの挙動を見ていたかと思えば、はは、と楽し気に歯を見せて笑った。

「こんばんは。俺はハリス。よろしくな」

 ハリス。ハリス様。ミーナは漸く知ることのできた個人情報に、にまにまと笑みを浮かべた。もしかしたら偽名かもしれないと考えないでもなかったが、その可能性はこの際置いておくこととした。これからこの男――ハリスとすることに比べれば、些事だ。
 一応形ばかりのお辞儀をしたミーナは、ハリスに近づくとその逞しく筋肉のついた左腕にぎゅっと絡みついた。少しばかり膨らみのある(まあ貧相には違いないが)胸を押し付けることも忘れない。ミーナは処女であるが、不思議な記憶から最低限の知識だけは備えている。きっとこういうことは男に受けるはずだと自信満々に抱き着いたミーナは、すりすりと腕の筋肉に頬を摺り寄せてここぞとばかりに勇ましい身体を堪能した。

「っ、あー…、ミーナ?」
「はい、なんでしょうハリス様!」

 初めて自分の名前を呼ばれたミーナは、有頂天でハリスへと言葉を返した。狼狽えた様子のハリスは、半分だけ見える頬もしっかりと見える耳も真っ赤に染めている。こんなに凛々しくてかっこいい人なのに可愛いなんて反則だ、とミーナが心の中で理不尽に責め立てていることも(当然ながら)露知らず、ハリスはまるで触れるのを躊躇うかのように右手を空中で彷徨わせた。
 じ、とまるで真意を探るかのような、でもどこか怯えているような金色がミーナを覗き込む。その瞳ににこりと笑顔で応えてから、ミーナは尚もむぎゅむぎゅと(という効果音がミーナの肉付きの薄い身体に合っているかは不明であるが)自分の身体をハリスの腕に押し付けた。

「その、なんつーか。嫌じゃないのか?」
「なにがですか?」

 本当に思い当たることが何一つなかったミーナは、ハリスの唐突な質問に首を傾げる。嫌とは何を指すのか、確かに乱暴にされて痛みでもあれば嫌だとは思うが今のところミーナはハリスにそのようなことはされていない(というか何もしてもらっていない)。

「いや。……俺はどんだけ食べても身体に肉がつかなくてな。貧相だろ?仕方ないことだが」
「でも、立派な筋肉がついてるじゃないですか!それって、すごく頑張って鍛えたってことでしょう?素晴らしいことです」

 ハリス程分厚い筋肉を育て上げるのには、並大抵の苦労では到底足りないだろう。職業柄なのか趣味なのか(基本的に趣味で筋肉を育てようという人はいないので恐らく前者だろう)、どちらにしたってすごいことだ。それに、ミーナの美醜観の中ではやたらと贅肉まみれの男というのは好ましくない、否嫌いだ。太っているからといってあからさまに差別はしないつもりであるが、こと恋愛的な視点で見た場合に好きになるかどうかと言えば絶対に好きにならない。事実、ミーナが好きになったのは目の前の筋肉が綺麗についた男――ハリスであるわけで。

「ミーナは変な奴だな」
「そうかもしれませんけど、別にそれで困ったこともないので」

 そう言ってミーナがにかりと八重歯を見せて笑うと、つられるようにしてハリスも笑った。仮面がなければこの笑顔を全力で堪能できたのにと悔しい思いを抱きつつ、いやこれから抱いてもらえるのだから贅沢は言うまいとミーナは改めて気合いを入れ直す。
 ――経験がないとはいえ、ミーナは娼婦だ。本来であれば、ミーナがある程度リードしなくてはならないのだろう。流石に両親からそういった教育は受けていないものの、幸いミーナには不思議な記憶から最低限の性交渉の知識がある。実戦に関してはあまり自信はないが、見様見真似――といっても実際に見たことがあるわけではない――で出来うる限りハリスを満足させたいと考えていた。
 マルタからは、普段娼館では最初にお風呂に誘導して客の身体を洗った後、ベッドへ行き(盛り上がって浴室でということもあるらしい)行為をするという話を聞いている。ただ、仮面デーに関しては(浴室で仮面をつけたまま入浴することが難しいので)少し異なり、客も既に入浴を済ませた状態で来店するのだという。確かに、ミーナが抱き着いた腕からは爽やかな石鹸の香りが漂っていた。

「ミーナ」
「はい」
「……触れても良いか?」

 ハリスがどこか遠慮がちにそう聞くのに対し、ミーナは笑顔で頷いた。そもそも既にミーナの方から許可もなくハリスの腕に抱き着いているというのに、こうやって律儀に聞いてくれるのだからどこか可笑しい。
 ミーナが頷いたことに安心したのか、ハリスは腕に抱き着くミーナの肩にもう一方の手を置く。その手に促されるように一度腕から離れたミーナの右頬に、ハリスの左手が添えられる。ミーナが顔を上げると、腰を折ったハリスの顔が近付いてきてそっと唇に温かいものが触れた。

(…ハリス様と、キス、してる……)

 それだけで夢見心地となったミーナは、恍惚とした気持ちで何度も落ちてくる口付けを受け入れた。ちゅ、ちゅ、と最初は触れるだけだったキスが、回数を重ねる度にまるで唇を食むようなキスへと変わっていく。まるで感触を確かめられているかのようなキスに、どこか捕食されるような感覚を覚えて、ミーナは自分の身体が昂っていくのを感じた。

「ん、…は、……やわらけ……」

 思わず、といった様子で吐息交じりにそう言葉を漏らしたハリスの声にぞくぞくして、ミーナはふるりと身体を震わせる。ミーナの右頬に添えられていた筈のハリスの左手がミーナの右耳を捉えて、ミーナは「ひぁ、」と嬌声に近い声を上げた。恥ずかしさに顔が熱くなっていくのを感じる。そんなミーナを見たハリスは、ふ、と楽し気に口角を上げた。

「ミーナ、耳、まっかだな」
「ハリスさ、…あぅ!」
「耳ちっちゃくてかわいー……ん、」

 くちゅ、と右耳に粘着質な水音が響く。ミーナよりも肉厚な温かい舌に耳を舐めしゃぶられ、まるで身体の内側の柔らかい部分を蹂躙されているような感覚。初めてのそれにびくびくと反応することしか出来ず、ぎゅう、とミーナは固く目を瞑った。
 ――リード、しなくちゃいけないんだった!
 そう思い返したミーナは、力の入らない手でハリスの鎖骨付近をゆっくりと撫でた。隆起した骨すらも男らしくて格好良いので惚れ惚れしてしまう。動きを止めたハリスから少しばかり離れると、ハリスの首に両手を回し、今度はミーナの方からハリスの耳元へと口を寄せて「ハリス様」と男の名前を呼ぶ。自分とは全く違う首筋からじわりと熱が波線のように伝わった。

「ベッドで、もっと触れてもらいたいです。……良いですか?」

 ミーナのそれがどれ程効果的かは分からないが、一般的に男性受けの良い所謂上目遣いでそう問いかける。ハリスは一瞬身体をがちりと固めた後、はあ、と熱い息を吐いて困ったように笑った。仮面で見えないというのに、その表情はあまりに艶めかしく色っぽい。これ程ミーナを夢中にさせて、ハリスという男はどうするつもりなのか(実際にはミーナが勝手に夢中になっているだけだが)。

「あんま、煽んなよ。慣れてねえんだから」

 少しだけ粗雑な言葉遣いと、熱の籠った瞳がミーナを捉える。首に巻き付いたミーナの膝裏と背中に手を添えられたかと思えば、そのまま横抱きで抱え上げられた。ミーナが多少瘦せていてそれ程体重が重くないとはいえ、軽々とそれこそ羽根のように持ち上げられたのでミーナは内心バクバクであった。男と触れ合った経験などないし、勿論こうして女のように――ミーナは間違いなく女だが――扱われるのはキャパオーバーだ。
 本能的にぎゅう、と逞しい身体に抱き着けば、ミーナを抱き上げる腕にも力が入る。ハリスを一目見て以来求めてやまなかった存在とこうして密着しているという事実に、くらくらと酩酊しそうになってしまう。気付けばベッドに優しく下ろされたミーナは、その後も恋焦がれた男に翻弄されっぱなしとなったのだった。















「……ふふ、やっぱりかっこいい……」

 情事を終え、ぐっすりと眠る男――ハリスを見つめながら、ミーナはにんまりと笑みを浮かべた。昨晩会ってから情事中もしっかりと着けられていた仮面は、今に限って(ミーナの手によって)外されている。娼館前で見かけたときは凛々しくて勇ましく快活そうに見えた顔も、こうして寝顔として見ると幾分か幼く可愛らしい。かっこいいのに可愛いなんてずるい、とまたもや理不尽に責めながら、ミーナは昨晩の情事を思い返した。

 ――とても、情熱的だった。
 残念ながら――と言うべきかは不明だが、比較対象のないミーナでもそう感じる程に、激しく求められた。それでも、決して乱暴ということはなかった。優しく、丁寧に、時間を掛けてほぐされて、多少の痛みはあったものの初めてにしてはかなり快感を拾えていたのではないかと思う。というのも、ハリスが途中で「……もしかして、初めて、か?」と恐る恐るといった様子で聞いてきたからである。特に隠すつもりも自分から宣言するつもりもなかったミーナがこくりと頷くと、ハリスは真っ青やら真っ赤やらと忙しなく顔色を変えた後にミーナを優しく抱擁し、その後はしつこいくらいにじっくりとミーナの身体を開いていった。

「悪ぃ、怖い思いさせて。優しくするから……、ミーナ」

 そんな風に切なげに言葉を掛けられ、一度たりとも怖い思いなどしていないミーナは内心首を傾げた。それにミーナとしてはズルをしてでもハリスに抱かれたいと望んでいたので多少乱暴にされても悔いはなかったのだが、こうして慈しむように触れられてしまっては更なる恋慕を抱かずにはいられない。もう会う機会はないかもしれないというのに困ったな、とミーナは眉尻を下げながら目の前で眠る愛おしい男の頬を撫ぜる。

「ん……、?」

 頬への感触で薄っすらと瞼を上げたハリスは、焦点の合わないぼんやりとした瞳でミーナを見つめる。みーな、と舌ったらずに名を呼ばれ、ミーナは柔らかく微笑んだ。昨晩とは打って変わって子供のように嬉しそうに笑ったハリスは、再び目を瞑るとすうすうと寝息を立てる。

(あ、そういえば、今は勝手に仮面外しちゃってるんだった。ハリス様、起きなくて良かった…)

 うっかり暗黙のルールを破ってしまったミーナは、慎重に仮面をハリスの顔へと戻した。本当はもっと仮面なしの顔を見ていたかったが、流石にそろそろハリスも覚醒してしまうだろう。
 昨晩ミーナが処女だと聞いて一瞬真っ青になったハリスの表情を思い返し、ミーナは小さく溜め息を飲み込む。ハリスは優しい男だ。普通の娼婦だと思っているとはいえ、処女を相手にして幾許か責任感を覚えたに違いない。それは、ミーナの本意ではなかった。
 こういったのは自己責任でお互い様――というより裏工作したミーナの方が責任が重い気がする――だというのに、必要以上に責を負わせて好きな男を悩ませるなんて。ただ、相手をした数ある娼婦の内の一人として、ミーナという女がいたと覚えていてもらうだけで良い。あんな理想的な男と結ばれるだなんて烏滸がましいことは考えていないし、一回でも思い出がもらえるだけで十分だ。いっそ、ハリスの中の思い出にすら残らなくたって。

「とっても幸せな夜でした。……ハリス様」

 未だ眠るハリスの耳元でそう囁いて、ちゅ、と頬へ口付けを落とす。身支度を整えたミーナは、仮面を部屋のベッドの枕元に置いて部屋を後にしたのだった。








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