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ハリス視点 中編

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 ハリスはどことなく落ち着かない気持ちで、件の娼館に足を踏み入れた。マルタから説明を受けた通り身体を清めてから来たが、既にここまでの道中で汗をかいてしまったのではないかと思う。嫌な匂いなどしないだろうか、と自分の腕を鼻に近付けて息を吸い込んでみたが、分からなかった。マルタには何も言われなかったので、特に酷い匂いがするということはないのだろう。
 受付でマルタの提示した金額と共に、ハリスを相手にしてくれるという娼婦へのチップを上乗せする。結構な金額になったが、今後も同様の機会があるかも分からないし今回くらいは奮発しても良いだろう。元より、特に散財するタイプではないハリスは自分で稼いだ金を使うことなく持て余しており、結果的にひたすら貯めるだけとなっている。それが娼館で働きハリスの相手をしなければならない女の手に渡るというのであれば、それはハリスにとっても良い金の使い道と思えた。
 お金を受け取ったマルタは金額を数えると、「随分と奮発して頂いて」と少し呆れたような声を出し、今度は近くの棚から何かを取り出してハリスへと渡した。何かと思い手渡されたものを確認すると、そこにあるのは羽根の装飾品がついた仮面であった。

「凝ったものをつけるんだな」
「あんまり簡素なものだと、肝心の顔が隠せないもんでね」
「なるほど、それで華美なものになっているのか」

 確かに、これ程大げさに羽根やら装飾品やらがついていれば、呼吸の確保のための鼻や口元は難しいとはいえ頬の半分近くは隠れるだろう。目元も、目の形が若干理解できる程度まで隠れており、これであれば最低限顔の醜さが分かりにくくなるに違いない。まあ、それでも滲み出るものはあるのだろうが。
 あとハリスの心配な点と言えば、己の無駄に――職業柄無駄ではないが、世間一般の女からすると無駄と判断されてしまう――筋肉のついた身体である。仮面で顔の醜さを隠したところで、身体の醜さは隠しようがない。ましてや行うのは互いの裸体を晒し触れ合う行為である。身体を見た娼婦が怖気づいてしまうことがあれば、いくらそういう行為を望んで来店したハリスとて無理やり押し進める気にはなれない。
 一抹の不安を覚えながら、ハリスはマルタに教えられた部屋へと足を進めた。



 期待と不安を抑えながら部屋をノックしたが、自身で考えていた以上に緊張していたらしく思ったよりも強く扉を叩いてしまった。ひとまず扉を開けて、声を掛けてから中へと入る。
 部屋の中にいたのは、小柄な、女性というより少女と形容した方が良いだろう女だった。
 神聖な森の奥の木々のような深緑の色をした髪が、女の肩の辺りでさらりと揺れる。指に引っ掛かりそうもない艶やかなそれは、まるで触ってくれと誘惑するように女の些細な動きに合わせてゆらゆらと動いている。仮面越しに見える瞳は恐らくハリスのぎょろりと大きい瞳とは違い、涼やかで美しい形をしているであろうことが分かる。髪と同じ色の吸い込まれそうな深緑の瞳が、爛々とハリスを覗いた。

「こんばんは!ミーナといいます。よろしくお願いします!」

 元気な声でそう挨拶した女――ミーナに、ハリスは一瞬思考を停止させた。娼館に来たことなどなかったが、なんとなく娼婦というのは物静かなイメージを抱いていたからである。ミーナ自身も自分で考えているよりも大きな声を出してしまったと思っているのか、下半分だけ見える真っ白な頬を薄紅色に染めた。

「…っはは、こんばんは。俺はハリス。よろしくな」

 あまりに可愛らしい動作に思わず笑ってしまってから、ハリスもミーナに挨拶を返した。マルタには女の好みなどは伝えず相手をしてもらえるなら誰でもと伝えていたが、元々の好みで言えばハリスは明るい性格の女の方が好きだ。静々と相手されるよりも、目の前のミーナのように――気分が悪くなる程の見た目の男に対してそれが出来るのであれば――溌溂とした対応をしてくれる方が、余程ありがたい。
 ミーナはハリスの挨拶に少し安心した様子を見せた後、軽く頭を下げてからハリスの元へと近付いた。そうして何をするのかと思えば、ぎゅう、とハリスの左腕へと腕を絡める。

(は、…?なんだこれ、柔らか……っ)

 抱き着かれた左腕にふにょりとナイトドレス越しの柔らかい双丘が当たる。布越しとはいえ初めて触れた女の象徴の感触に、心臓がばくばくと暴れ出すのが分かった。貴族令嬢ならば(とは言いつつハリスは貴族令嬢と直接関わること等鎧で完全装備する仕事中くらいしかないが)泣いて逃げ出すような身体であるというのに、あろうことかミーナはすりすりと柔らかい頬を摺り寄せてくる。仮面に着いた羽根も腕を掠るので、少し擽ったい。

「あー…、ミーナ?」
「はい、なんでしょうハリス様!」
「っ、……」

 明るく元気に返答するミーナからは、ハリスの醜い身体つきを嫌悪するような態度が微塵も感じられない。自分から触れても良いのだろうか、と右手を差し出しかけて、これまでのことを思い返して動きを止めた。
 ――ミーナは、仕事とはいえ自分に触れることが嫌ではないのだろうか。
 感情を探ろうとして、深緑の瞳を見つめる。まっすぐに見つめ返すミーナの瞳は、やはり見ているだけで吸い込まれそうな、思考を停止させるような妖しさがある。どうすれば良いか分からないまま見つめていれば、口端を上げたミーナが更に強い力で左腕に抱き着いた。先程よりも柔らかな感触が鮮明になり、ぐるぐると思考が巡る。

「その、なんつーか。嫌じゃないのか?」

 思わず飛び出た質問に、ミーナは不思議そうに「なにがですか?」と聞き返した。心当たりがないかのように返され、ハリスの方が拍子抜けしてしまう。
 ハリスの身体つきのことについて言及すれば、ミーナは当然のことのようにハリスの努力を褒め称える。筋肉を揶揄されたことは数え切れない程あったが、鍛えた過程を褒められるのはハリスにとって初めての体験であった。娼婦特有の――とは言いつつお世辞でもそんな風に褒められる娼婦は恐らくほとんどいないだろう――営業トークだと分かっていても、どこかむず痒いような嬉しい気持ちが胸に広がる。

「ミーナは変な奴だな」
「そうかもしれませんけど、別にそれで困ったこともないので。…へへ」

 ミーナはそう返すと、にかりと笑った。ハリスもそれにつられて思わず笑ってしまう。ハリス自身自分が皆に疎まれる醜男である割には明るい性質だと自覚しているが、ミーナと関わっているとどうにも自身がそういった嫌われる見目であることを忘れてしまいそうになる。
 あまりにも自然と仮面越しでも伝わるであろう貌や身体の醜悪さを無視し、普通の人――勘違いでなければ好意的な人――に対応しているような素振りをするから。だから、触っても許されるのではないかという気持ちにさせるのだ。

「ミーナ」
「はい」
「……触れても良いか?」

 そう聞くと、ミーナは当然の如く(見えないが恐らくは)満面の笑みで勢いよく頷いた。当たり前のように触れることを許された事実に安心して、そっと右手でミーナの左肩に手を置く。こうして見ると、やはりミーナは身体の線が細い。力のある自分等が少しでも加減を間違えればすぐさま折ってしまいそうだと考えて、ハリスは少し息を詰めた。
 ミーナはハリスの動きを見て、絡みついていたハリスの左腕からそっと身体を離した。解放された左手でミーナの頬に触れると、ふに、と柔らかい感触が指先から伝わる。どこもかしこも柔らかくて、どう触れたら良いのか分からない。
 顔を上げたミーナの、ぷっくりとした紅色の唇が艶やかさがハリスの視線を奪う。何か――化粧品は詳しくないが、恐らくリップか――が塗られているのだろう。まるで虫を呼ぶ花の蜜のようにハリスを誘うそれにゆっくりと近付けば、唇同士がそっと触れ合った。

 ――やわらかい。

 初めて触れたそれは、ハリスの理性をゆっくりと溶かすには十分過ぎる程だった。一度触れれば、もう一度触れずにはいられない。何度も感触を確かめるように唇同士を触れ合わせ、拒否されないことを良いことに今度は捕食するかのように柔らかな唇を上唇と下唇で挟む。そうすればより一層その柔らかさに魅せられて、堪らなかった。
 時折はあ、と漏れるミーナの吐息が口端を掠めて、神経が昂っていくのを感じる。もしかしたら、熱に浮かされて何か言葉を漏らしたかもしれなかったが、人生初めての口付けに溺れるハリスには分からなかった。そうして夢中になっている内に、どうやらより顔を近付けようと手を動かしてしまっていたらしい。

「ひあっ…」

 思わず、といった様子で漏れた嬌声にも似た悲鳴に、漸くハリスは現実世界へと意識を戻した。じんわりと左手から熱が伝わってくる。左手が触れていたのは気付けばミーナの右耳であったらしい。真っ赤なそれがあまりに可愛らしかったので、ハリスが笑ってしまったのは仕方のないことであった。

「ミーナ、耳、まっかだな」
「ハリスさ、」

 つい揶揄うように耳の赤さに言及し、まるで食べて欲しいとでも言うかのように誘うそれをぺろりと舐めれば、「あぅ!」と更に可愛らしい声がミーナの唇から零れ落ちた。小柄なミーナにぴったりな小さい耳が、可愛らしく紅に染まりハリスの唾液で妖しく艶めく様は、あまりに煽情的でハリスには刺激が強い。そのまま欲を抑えきれずに舐め続けると、ミーナがそれに合わせるようにぴくぴくと身体を揺らすものだから、余計に。
 そんなことを繰り返していたハリスは、鎖骨付近をさわさわと撫でる何かにようやっと動きを止めた。どうしたかと思えば、ミーナの華奢で細い両腕がハリスの太い首後ろへと回る。今度こそ動くことが叶わなくなったハリスが静止していると、ミーナはハリスの耳へと唇を寄せた。

「ハリス様」

 耳元で呼ばれる己の名は、まるで自分のそれではないかのようだった。これまでの人生でこれ程までに愛おし気に名前を口にされたのは、母が亡くなって以来のことである。砂漠の中で彷徨い漸く水が与えられたかのように求めていた渇望が満たされるのを感じて、ハリスは息を飲んだ。

「ベッドで、もっと触れてもらいたいです。……良いですか?」

 そう言ってハリスを見上げるミーナの可愛さは、いっそ暴力的だった。顔の半分は無粋な仮面で隠されているというのに、瞳はまっすぐハリスを誘ってくる。娼婦というのはこれ程か、とは思わずにはいられなかった。

「はあ、………あんま、煽んなよ。慣れてねえんだから」

 思わず言葉が乱雑に――しかしながらこれがハリスの素でもある――なってしまったのはご愛嬌だ。こちらは経験の一つもないのに、そんなに色めいて誘われては堪らない。
 ハリスはミーナの身体を抱え上げると、そのまま寝台へと足を進めた。抱えた筈のミーナはあまりに軽くて、実際にはこの場にいないのではないかと思える程だった。羽根のように軽い、という表現を聞いたことがあるが、まさにそれだった。腕の中のミーナは温かくて柔らかくて確かに存在しているのに、現実味がない。ぎゅ、と首に回された腕に力が入って、漸く現実だと理解したハリスは、出来得る限り優しく寝台へとミーナの身体を下した。













 すりすりと頬を撫でられた気がして、ハリスは夢現のまま重たい瞼をほんの少し持ち上げた。ぼんやりと霞掛かった視界の中で、深緑がこちらを見つめている。思わずミーナ、と口に出せば、深緑が嬉しそうに微笑む。あまりに幸せな心地にやはり夢かと思い至って、ハリスはそのまま夢の続きを見ようと再び意識を手放した。

 ――そうして見た夢は、ミーナと触れ合った正しく夢のような時間の追体験だった。
 触れれば可愛らしく身悶え、ハリスの名を呼ぶミーナ。耳や頬だけでなく真っ白な身体まで薄桃色に染め、ハリスのすることを何一つ拒むことなく受け入れてくれた。だから調子に乗って、多分(経験がないので分からないが)かなりがっついてしまったと思う。それでも、ミーナから拒否の言葉はなかった。
 けれどもいざというところで身体を緊張に固めるので、信じられない気持ちで初めてかと問えば、恥ずかしそうに頷いて見せる。初めてのミーナに無体を働いてしまったという罪悪感と、ミーナがこれまで許さなかった処をハリスが拓けるという高揚感に、狂ってしまいそうだった。
 夢中になって怖い思いをさせただろうことを謝罪してからは、それまで以上に千切れそうになる理性を必死で何度も結び直しながら、ミーナの「もう良いから」という甘い誘惑を振り切ってゆっくりと煮詰めるように身体を解していった。叶うことなら、少しでも嫌な思いを持たれないように。
 最中は、何度もミーナの名を呼んだ。ミーナは、熱に浮かされたように「ハリスさま、すきです」と可愛らしく啼いた。閨の中での睦言と分かっていても、嬉しくて仕方がなかった。




 夢から現実へと戻ってきたハリスの元には、ミーナが存在したことだけを教えるかのように一つの仮面だけが残っていた。









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