16 / 20
~ウィーンの古書⑥~
しおりを挟む
《Kaiserliche Verfassung – 25. April 1848》
「フレート氏の仕事量、多すぎやしないか?」
地下書庫で黙々と解読を続ける私は、ルディカ王女に振り回されてばかりの人間くさい官僚の彼の文字に囁きかける。
読めば読むほど事実に思えて来るのはこの際置いておき、彼の生きている世界では仕事があまり細分化されていないのだろうか。
それとも溜め込みすぎるタイプなのか。
「それにしても君は信じられないやつだよ。王族と友人で、気まで遣われて。従者でもないのにそんな話は聞いたこともないぞ」
もっとも、こんなに物騒で自由な王族は少なくとも私の知識にはいない。彼女がいるのはシェーンブルン宮殿のようだが、少し違う。位置関係は史書のウィーンと似ているが重なりきらない。
ルディカ王女が夜更けにフレート氏の下宿先へ行けるとすると、両宮殿の距離は思いのほか近いことになる。
「ホーフブルクとシェーンブルンが近かったら両宮殿の役割の意味をなさなくなりそうだが…まあ、伝達に関してなら楽ではあるな。さて、この大神殿とやらはシュテファン大聖堂か……と思いたいところだが、やや違うかな」
亡くなった友人の存在を王女にひた隠しにする彼の気持ちは、いかばかりであろう。私は去って行った友に思いを馳せ、一度目を閉じた。
「君と机を並べてみたいものだよ」
言ってみて苦笑する。現実逃避にもほどがある、と。
彼の手記は生々しい人間臭さを感じる。自らの職務を無機質呼ばわりしている彼より、私の方がずっと人間的ではないのかもしれない。
私は、リントナーが消えて以来、この宮廷が本当に秩序ある正しい場所なのか分からなくなっていた。
と、誰かが忙しなく降りてくる足音が聞こえた。階段に目を向けると、ランタンの灯りが壁を照らし、足音の主の影を大きく揺らし映し出している。
「フォーゲル、すぐに局へ戻れ!」
先輩官僚に急き立てられ、私はフレート氏の手記をそのままに自分の職場である第2課文書記録局へ向かった。
そしてひとつの封筒を渡される。
封蝋を開けたそこに赤で書かれている文字。
──1848年4月25日の皇帝憲法
リントナー、ああそうか。だから君は…。
明日の朝にはこれが世に出る。出してすぐに何が起こるか、日の目を見るより明らかな物を…。
第1課政治局のリントナーが、ピレルスドルフ内務大臣の憲法草案に関わっていてもおかしくなかった。
彼は、皇帝陛下を敬い、帝国の秩序の元、気楽に生きるような性格だった。少なくとも私はそう思っていた。
私が書物の編纂に思うところがあっても、「長い物に巻かれるのことも大事だ」などと言っていたほどだ。
いつ、どこの時点でリントナーは変わったのだろう。今となっては分からないまま、彼は重大な情報漏洩の嫌疑で追われる身となった。
あの彼が?消えたと聞いた時も信じられなかった。
翌朝、4月25日11時。欽定憲法は正式に公布された。
宮廷内が緊張に包まれる中、「Es lebe die Konstitution!(憲法万歳)」と叫ぶ歓喜の声が聞こえる。これは憲法の内容を知ることができない街の群衆の声だろう。
なぜなら、蜂起に関わった学生や切っ掛けを作った知識層、上級市民は直ぐに理解しただろうから。
この憲法は言葉として“自由”を掲げているが、フランスやイングランドのように国家権力抑止も、公正な選挙権もなかったのだから。
秩序は皇帝陛下の元にあり、宮廷がこれを動かし民を健やかにする。私はそう信じそれで良いと考えていた。
だが、そう考えない者たちにとって、死者を出してまで成したことの結果この一方的な憲法なら、全て無駄っただと必ず思うはずだ。
暗い思いを抱え、私はゆっくりと編纂に向かう。
歓喜の声が罵声に変わることを予感しながら。
《1848年5月15日》
──ウィーン再蜂起
多数の死傷者を出した翌々日、皇帝一家はインスブルックへ退避。
「フレート氏の仕事量、多すぎやしないか?」
地下書庫で黙々と解読を続ける私は、ルディカ王女に振り回されてばかりの人間くさい官僚の彼の文字に囁きかける。
読めば読むほど事実に思えて来るのはこの際置いておき、彼の生きている世界では仕事があまり細分化されていないのだろうか。
それとも溜め込みすぎるタイプなのか。
「それにしても君は信じられないやつだよ。王族と友人で、気まで遣われて。従者でもないのにそんな話は聞いたこともないぞ」
もっとも、こんなに物騒で自由な王族は少なくとも私の知識にはいない。彼女がいるのはシェーンブルン宮殿のようだが、少し違う。位置関係は史書のウィーンと似ているが重なりきらない。
ルディカ王女が夜更けにフレート氏の下宿先へ行けるとすると、両宮殿の距離は思いのほか近いことになる。
「ホーフブルクとシェーンブルンが近かったら両宮殿の役割の意味をなさなくなりそうだが…まあ、伝達に関してなら楽ではあるな。さて、この大神殿とやらはシュテファン大聖堂か……と思いたいところだが、やや違うかな」
亡くなった友人の存在を王女にひた隠しにする彼の気持ちは、いかばかりであろう。私は去って行った友に思いを馳せ、一度目を閉じた。
「君と机を並べてみたいものだよ」
言ってみて苦笑する。現実逃避にもほどがある、と。
彼の手記は生々しい人間臭さを感じる。自らの職務を無機質呼ばわりしている彼より、私の方がずっと人間的ではないのかもしれない。
私は、リントナーが消えて以来、この宮廷が本当に秩序ある正しい場所なのか分からなくなっていた。
と、誰かが忙しなく降りてくる足音が聞こえた。階段に目を向けると、ランタンの灯りが壁を照らし、足音の主の影を大きく揺らし映し出している。
「フォーゲル、すぐに局へ戻れ!」
先輩官僚に急き立てられ、私はフレート氏の手記をそのままに自分の職場である第2課文書記録局へ向かった。
そしてひとつの封筒を渡される。
封蝋を開けたそこに赤で書かれている文字。
──1848年4月25日の皇帝憲法
リントナー、ああそうか。だから君は…。
明日の朝にはこれが世に出る。出してすぐに何が起こるか、日の目を見るより明らかな物を…。
第1課政治局のリントナーが、ピレルスドルフ内務大臣の憲法草案に関わっていてもおかしくなかった。
彼は、皇帝陛下を敬い、帝国の秩序の元、気楽に生きるような性格だった。少なくとも私はそう思っていた。
私が書物の編纂に思うところがあっても、「長い物に巻かれるのことも大事だ」などと言っていたほどだ。
いつ、どこの時点でリントナーは変わったのだろう。今となっては分からないまま、彼は重大な情報漏洩の嫌疑で追われる身となった。
あの彼が?消えたと聞いた時も信じられなかった。
翌朝、4月25日11時。欽定憲法は正式に公布された。
宮廷内が緊張に包まれる中、「Es lebe die Konstitution!(憲法万歳)」と叫ぶ歓喜の声が聞こえる。これは憲法の内容を知ることができない街の群衆の声だろう。
なぜなら、蜂起に関わった学生や切っ掛けを作った知識層、上級市民は直ぐに理解しただろうから。
この憲法は言葉として“自由”を掲げているが、フランスやイングランドのように国家権力抑止も、公正な選挙権もなかったのだから。
秩序は皇帝陛下の元にあり、宮廷がこれを動かし民を健やかにする。私はそう信じそれで良いと考えていた。
だが、そう考えない者たちにとって、死者を出してまで成したことの結果この一方的な憲法なら、全て無駄っただと必ず思うはずだ。
暗い思いを抱え、私はゆっくりと編纂に向かう。
歓喜の声が罵声に変わることを予感しながら。
《1848年5月15日》
──ウィーン再蜂起
多数の死傷者を出した翌々日、皇帝一家はインスブルックへ退避。
10
あなたにおすすめの小説
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
別れし夫婦の御定書(おさだめがき)
佐倉 蘭
歴史・時代
★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★
嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。
離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。
月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。
おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。
されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて——
※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡
弘生
現代文学
なんだか優しいお話が書きたくなって、連載始めました。
保護猫「ジン」が、時間と空間を超えて見守り語り続けた「柊家」の人々。
「ジン」が天に昇ってから何度も季節は巡り、やがて25年目に奇跡が起こる。けれど、これは奇跡というよりも、「ジン」へのご褒美かもしれない。
【完結】私、一目惚れされるの死ぬほど嫌いなんです
緋水晶
恋愛
一目惚れされるのが嫌いな女子は25回目の告白相手にどう答えるのか。
表紙はイラストをゲームアプリで自作後、猫戸針子様に文字入れしていただきました!
猫戸様も25周年カップに参加していらっしゃるので是非ご覧ください(*ˊᗜˋ)
後宮妃よ、紅を引け。~寵愛ではなく商才で成り上がる中華ビジネス録~
希羽
ファンタジー
貧しい地方役人の娘、李雪蘭(リ・セツラン)には秘密があった。それは、現代日本の化粧品メーカーに勤めていた研究員としての前世の記憶。
彼女は、皇帝の寵愛を勝ち取るためではなく、その類稀なる知識を武器に、後宮という巨大な市場(マーケット)で商売を興すという野望を抱いて後宮入りする。
劣悪な化粧品に悩む妃たちの姿を目の当たりにした雪蘭は、前世の化学知識を駆使して、肌に優しく画期的な化粧品『玉肌香(ぎょくきこう)』を開発。その品質は瞬く間に後宮の美の基準を塗り替え、彼女は忘れられた妃や豪商の娘といった、頼れる仲間たちを得ていく。
しかし、その成功は旧来の利権を握る者たちとの激しい対立を生む。知略と心理戦、そして科学の力で次々と危機を乗り越える雪蘭の存在は、やがて若き皇帝・叡明(エイメイ)の目に留まる。齢二十五にして帝国を統べる聡明な彼は、雪蘭の中に単なる妃ではない特別な何かを見出し、その類稀なる才覚を認めていく。
処刑された王女、時間を巻き戻して復讐を誓う
yukataka
ファンタジー
断頭台で首を刎ねられた王女セリーヌは、女神の加護により処刑の一年前へと時間を巻き戻された。信じていた者たちに裏切られ、民衆に石を投げられた記憶を胸に、彼女は証拠を集め、法を武器に、陰謀の網を逆手に取る。復讐か、赦しか——その選択が、リオネール王国の未来を決める。
これは、王弟の陰謀で処刑された王女が、一年前へと時間を巻き戻され、証拠と同盟と知略で玉座と尊厳を奪還する復讐と再生の物語です。彼女は二度と誰も失わないために、正義を手続きとして示し、赦すか裁くかの決断を自らの手で下します。舞台は剣と魔法の王国リオネール。法と証拠、裁判と契約が逆転の核となり、感情と理性の葛藤を経て、王女は新たな国の夜明けへと歩を進めます。
【完結】25年の人生に悔いがあるとしたら
緋水晶
恋愛
最長でも25歳までしか生きられないと言われた女性が20歳になって気づいたやり残したこと、それは…。
今回も猫戸針子様に表紙の文字入れのご協力をいただきました!
是非猫戸様の作品も応援よろしくお願いいたします(*ˊᗜˋ)
※イラスト部分はゲームアプリにて作成しております
もう一つの参加作品「私、一目惚れされるの死ぬほど嫌いなんです」もよろしくお願いします(⋆ᴗ͈ˬᴗ͈)”
異世界からの召喚者《完結》
アーエル
恋愛
中央神殿の敷地にある聖なる森に一筋の光が差し込んだ。
それは【異世界の扉】と呼ばれるもので、この世界の神に選ばれた使者が降臨されるという。
今回、招かれたのは若い女性だった。
☆他社でも公開
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる