翠玉の魔女

鳥柄ささみ

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「またいつもの本を読んでいるのですか?」

顔を上げると柔和な笑みを浮かべたこの国、ハクトワルトの宰相であり育て親でもあるゴードンがいた。まだ何も知らない私は、彼に多くのことを学んだ。言語や感情、知識や魔法など私を形成している全ては、彼によってできていると言っても過言ではない。

「ううん、これはいつものとは違うやつ」

再び絵物語に視線を落とす。むかしむかしあるところに、という決まり文句と共に始まるそれは、苦難にあっている主人公がひょんなことから王子様と出会い惹かれ合う。

しかし、お互いの身分の違いから逃れられることができず、彼らは来世を共にすることを誓い、主人公は奉公へ、王子様は違うお妃さまと結婚してしまう。

子供向けには些か現実じみた内容の本だ。いつも好んでいる絵物語、金髪の碧眼の王子様がどのような苦境でも知恵と勇気でお姫様を守る、という内容のものとは対照的だ。

「ねぇ、ゴードン。どうして王子は逃げ出さなかったんだろう。『私は無力です。この地位であることのしがらみさえも取り払うこともできない無力な男です』って言うけど、だったら地位も何もかも捨てて、彼女と逃げれば良かったのに。いつもの王子様なら知恵と勇気で乗り越えられるはずよ」
「そうですね、そういう選択もできますね。ただ、この彼は逃げることはできたとしても、あえてその選択をしなかったのではないでしょうか」
「どうして?」
「人は縛られているものです。環境や状況、思考や想いなど。捨てることは簡単ですが、取り戻すことは難しいのですよ。この王子も将来のことを考えたのでしょう。今の地位は与えられたもの。それがなくなってしまったら自分には何が残るだろうと、ね。その重さに彼女は勝てなかったのですよ」

ゴードンの言うことは少し難しくもあったが、何となく幼心に理解しようと思った。その様子を見て、ゴードンは口許を緩める。

「まだわからなくても良いことです。いずれわかることですから」
「ゴードンもこの王子の気持ちはわかる?」
「そうですね、それは痛いほどによくわかります」
「そう。でも、私はいつもの王子様みたいに、苦難を乗り越えて自らの道を切り開くほうがいいな」
「ふふ、アリアもまだまだ子供ですね」





あの日も、ゴードンはそれはそれは柔和な笑みを浮かべて、私に言った。かの国は悪い魔力が集まっているから浄化せねばならない、と。

悪い魔力というのがイマイチわからなくて、でもわかろうとして、わかったつもりでいた。

そして私は過ちを犯した。

苦痛を感じることもなく、嘆きも懇願も許されず、ただ私が放った魔法で消滅した国の人々。塵1つ残さず消えたかつての国であったそこは、ただ焼けた大地としてそこに残っていた。

ゴードンは歓喜した。自らが育てた魔女の娘の力の素晴らしさに。そしてその力が手元にある事実に。

その姿を見て、アリアはこの目の前の人物が知らない人のように思えた。同時に、この知った顔をした生き物は、人の皮を被った化け物ではないのかと恐怖を覚えた。

「ゴードン?」
「素晴らしい!まったくもってアリア、貴女は素晴らしいほどの魔力の持ち主ですね。さぁ、この力でよりよき世界を築きましょう」

彼の瞳には私なんて映っていなかった。私を通して欲の先を見つめているのがわかる。鈍く澱んでいたそれは、私のことなどこれっぽっちも見ていなかった。

私達の元へ、王からの使者がやってくる。ゴードンは自らの功績を口上するため、謁見の間へと向かった。

私を残して。

私は一体、彼の何だったのだろうか。

「無知とは罪ですね」

使い魔の言葉が胸に刺さる。イミューズと名付けたそれは、私にしか見えないらしい。彼は私の半身だと言いながらも、私に辛辣な言葉を投げてくることがままある。

「逃げ出しますか?」

私を構成・構築した男から離れる、このことがとてつもなく恐い。

ーー何も持たないものが逃げてどうなる

ーー全てを捨てて逃げ出して、その後はどうする

かつて投げかけた王子への不満を自らも背負うことになって、ようやく縛られることに対する意識を持った。

(こういうことなのか、あの王子の選択は)

自由を捨て、縛られることを望んだ王子は意志を持ち、思考することを放棄したのだ。

(ならば……)

私は例え現実的ではなくても、あの好んでいたお伽話のように、どのような苦境も乗り越える王子様のようになりたい。

「イミュ。私、逃げる」
「何もかも捨てて?」
「うん。私は全部捨てる。この環境もこの地位も与えられたもの全て。それが私にできる罪滅ぼし。そしてこれが私の罰」
「追われる覚悟はおありですか?あの宰相が手塩にかけて育てた貴女を手放せるはずもないと思いますが」

無知な私をここまで育ててくれた。1人ぼっちだった私に生きる術を教えてくれた。しかし、利用されるとなると話は別だ。私にも感情がある。それを教えてくれたのは誰でもない、ゴードンだ。

「できる限りのことはしてみる」
「そうですか。自立、というのもいいことかもしれませんね」

そう言って、イミュは私に微笑んだ。

「貴女は私の半身でありながらも、とても不器用で捻くれていて面倒な性格ですからね。仕方ないですからついていきますよ」
「ありがとう、イミュ」

手を握って部屋の窓から飛び降りる。まさかのゴードンも、今日この時間に私が部屋の窓から飛び降りて逃げ出すなど思ってもみないだろう。

持ち物は何もない。痕跡も全て綺麗さっぱり消して来た。

「バイバイ、ゴードン」

こうして私の逃亡生活は始まった。
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