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第二十五話 名前のない噂
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第二十五話 名前のない噂
辺境に来てから、初めて“噂”というものを耳にしたのは、秋風が冷たくなり始めた頃だった。
館の厨房で、若い侍女がひそひそと囁いている。
「王都で……また」
「しっ」
声は小さい。
だが止まらない。
アルベルトが廊下を歩くと、会話は途切れる。
敵意はない。
だが視線が揺れる。
夕刻、辺境伯が報告書を差し出した。
「王都にて、旧反対派と見なされていた子爵が……急な転落事故」
「……命は」
「助かっております」
また“事故”。
証拠はない。
犯人もいない。
ただ偶然。
アルベルトは紙を置く。
「王都は安定しているのではなかったか」
「統治は安定しております」
辺境伯は冷静に答える。
「個別の出来事は、因果を証明できません」
証明できない。
合法。
偶然。
すべては同じ言葉で処理される。
夜。
目を閉じる。
暗闇。
白い衣。
笑顔。
赤い飛沫。
“殿下に従わないものは――”。
はっと目を開ける。
辺境の天井。
静寂。
現実には血はない。
だが夢の中では、いつも鮮明だ。
リュシエラが椅子に腰掛けている。
灯りの下で、白い衣が柔らかく揺れる。
「お顔色が優れませんわ」
「王都で事故があった」
「事故は起きます」
淡々と。
「偶然は続くこともございます」
同じ言葉。
同じ声音。
優しい。
だが、冷たい。
隣国。
エリシアは王都から届いた外交文書に目を通す。
「王都の内部統治は安定」
「表向きは」
側近が小さく言う。
「噂はございますが、証拠はなし」
「噂は噂です」
彼女は静かに言う。
「構造に影響がなければ問題ありません」
感情は動かない。
王都の内側で何が起きようと、契約が守られれば十分。
辺境の夜風が窓を鳴らす。
アルベルトは立ち上がり、庭へ出る。
星が高い。
王都の灯は見えない。
だが噂だけが届く。
事故。
急病。
転落。
すべては合法。
すべては偶然。
だが心の中では、白い衣が血に濡れている。
「私は……何を恐れている」
呟きは風に消える。
彼は証拠を持たない。
何も見ていない。
ただ夢を見るだけ。
それでも恐怖は現実だ。
リュシエラが隣に立つ。
「殿下は、まだ王都に縛られております」
「私は……」
「ご安心ください」
微笑む。
「どこまでも私がお供します」
その言葉は優しい。
だがその“どこまでも”が、出口を塞ぐ。
王都では噂が名前を持たない。
誰も責任を問わない。
誰も因果を語らない。
合法。
偶然。
静かな秩序。
そして辺境で、悪夢だけが積み重なる。
彼は気づき始める。
断罪されなかった代償は、処罰ではない。
疑念。
証明できない恐怖。
名前のない噂。
それが彼の中で、静かに広がっていた。
辺境に来てから、初めて“噂”というものを耳にしたのは、秋風が冷たくなり始めた頃だった。
館の厨房で、若い侍女がひそひそと囁いている。
「王都で……また」
「しっ」
声は小さい。
だが止まらない。
アルベルトが廊下を歩くと、会話は途切れる。
敵意はない。
だが視線が揺れる。
夕刻、辺境伯が報告書を差し出した。
「王都にて、旧反対派と見なされていた子爵が……急な転落事故」
「……命は」
「助かっております」
また“事故”。
証拠はない。
犯人もいない。
ただ偶然。
アルベルトは紙を置く。
「王都は安定しているのではなかったか」
「統治は安定しております」
辺境伯は冷静に答える。
「個別の出来事は、因果を証明できません」
証明できない。
合法。
偶然。
すべては同じ言葉で処理される。
夜。
目を閉じる。
暗闇。
白い衣。
笑顔。
赤い飛沫。
“殿下に従わないものは――”。
はっと目を開ける。
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静寂。
現実には血はない。
だが夢の中では、いつも鮮明だ。
リュシエラが椅子に腰掛けている。
灯りの下で、白い衣が柔らかく揺れる。
「お顔色が優れませんわ」
「王都で事故があった」
「事故は起きます」
淡々と。
「偶然は続くこともございます」
同じ言葉。
同じ声音。
優しい。
だが、冷たい。
隣国。
エリシアは王都から届いた外交文書に目を通す。
「王都の内部統治は安定」
「表向きは」
側近が小さく言う。
「噂はございますが、証拠はなし」
「噂は噂です」
彼女は静かに言う。
「構造に影響がなければ問題ありません」
感情は動かない。
王都の内側で何が起きようと、契約が守られれば十分。
辺境の夜風が窓を鳴らす。
アルベルトは立ち上がり、庭へ出る。
星が高い。
王都の灯は見えない。
だが噂だけが届く。
事故。
急病。
転落。
すべては合法。
すべては偶然。
だが心の中では、白い衣が血に濡れている。
「私は……何を恐れている」
呟きは風に消える。
彼は証拠を持たない。
何も見ていない。
ただ夢を見るだけ。
それでも恐怖は現実だ。
リュシエラが隣に立つ。
「殿下は、まだ王都に縛られております」
「私は……」
「ご安心ください」
微笑む。
「どこまでも私がお供します」
その言葉は優しい。
だがその“どこまでも”が、出口を塞ぐ。
王都では噂が名前を持たない。
誰も責任を問わない。
誰も因果を語らない。
合法。
偶然。
静かな秩序。
そして辺境で、悪夢だけが積み重なる。
彼は気づき始める。
断罪されなかった代償は、処罰ではない。
疑念。
証明できない恐怖。
名前のない噂。
それが彼の中で、静かに広がっていた。
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