婚約破棄された令嬢は、もう誰の答えも借りません

鷹 綾

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第17話 噂は、静かに形を変える

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第17話 噂は、静かに形を変える

 庁舎の朝は早い。

 窓の外が白み始める頃には、すでに廊下を行き交う足音がある。
 私は机に向かい、昨夜まとめた視察報告に最後の目を通していた。

 数字と現地の声。
 それを一つの文章に落とし込む作業は、神経を使う。
 だが、不思議と嫌ではなかった。

 ――正しく伝える。
 それが、今の私の仕事だ。

 報告書を封じ、担当官に手渡す。

「こちらを、評議会に」

「承知しました」

 彼は丁寧に頭を下げて去っていった。

 その背中を見送りながら、私はふと気づく。

(……いつの間にか)

 誰も、私の指示に疑問を挟まない。
 確認はあっても、軽んじる視線はない。

 それは、私の中で、ゆっくりと現実になりつつあった。

 午前の会議が終わった後、廊下で二人の官僚が小声で話しているのが耳に入った。

「最近、話題になっているでしょう」

「ええ。
 “調整官殿は、現場を見てから数字を見る”って」

 私は、足を止めなかった。
 振り返る必要もない。

 噂は、気づかぬうちに形を変えるものだ。

 王国にいた頃、私に向けられていた噂は、こうだった。

 ――地味な公爵令嬢。
 ――存在感のない婚約者。
 ――何もしていないのに、そこにいる人。

 今は違う。

 誰かを貶める言葉ではなく、
 仕事の姿勢を示す言葉として、私の名が使われている。

 それだけで、十分だった。

 昼過ぎ、カイルから呼び出しがあった。

 執務室に入ると、机の上に一通の書簡が置かれている。

「王宮からです」

 その一言で、空気がわずかに変わった。

「内容は」

「……表向きは、情報共有の要請」

 カイルは、慎重に言葉を選ぶ。

「ですが、実質は、あなたへの接触です」

 私は、書簡を手に取った。

 丁寧な文面。
 友好的な言葉遣い。
 そして、行間に滲む焦り。

 “かつての関係を踏まえ、意見交換の場を設けたい”

 私は、静かに紙を折り畳んだ。

「返答は、どうなさいますか」

「……公式な場での情報共有であれば、拒否しません」

 私は、即答した。

「ですが、個人的な接触は、お断りします」

 カイルは、少しだけ目を細めた。

「理由を、聞いても?」

「簡単です」

 私は、まっすぐに答える。

「今の私は、隣国の政策調整官です。
 過去の立場で呼び出される理由は、ありません」

 それは、感情ではなく、立場の話だった。

「分かりました」

 カイルは、頷いた。

「そのように、返答します」

 書簡の件は、それで終わった。
 少なくとも、私の中では。

 だが、噂は、別の場所でも広がっていた。

 王宮。

 重臣の一人が、低い声で言う。

「……最近、隣国の施策が妙に安定している」

「以前より、動きが速い」

「誰が、舵を取っている?」

 問いに、答えは出ている。

 だが、その名前を口にするのに、まだ躊躇があった。

「……エリシア嬢だろう」

 その言葉に、室内が静まり返る。

 王太子レオナルトは、黙ったまま書類を見つめていた。

 そこに書かれているのは、隣国の最新の政策報告。
 簡潔で、無駄がなく、現実的。

(……噂は、誇張ではなかったのか)

 彼の胸に、重い感情が積もっていく。

 羨望。
 後悔。
 そして、遅すぎた理解。

 夜、私は庁舎を出て、迎賓館への道を歩いていた。

 街灯の下、人々が行き交う。
 誰も、私に特別な視線を向けない。

 それでいい。

 私は、有名になりたいわけではない。
 ただ、仕事が、正しく伝わればいい。

 噂は、静かに形を変える。

 悪意から評価へ。
 無関心から信頼へ。

 そして、その変化は、もう後戻りしない。

 迎賓館の扉の前で、私は一度だけ立ち止まった。

(……王国で広がる噂も、きっと変わるでしょう)

 けれど、それを確かめに行くつもりはない。

 噂がどうあれ、
 私は、ここでやるべきことをやるだけだ。

 静かに、しかし確実に。

 それが、私が選んだ道なのだから。
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