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第五話 切り捨てられる準備
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第五話 切り捨てられる準備
王城の朝は、いつもより早く始まっていた。
廊下を行き交う足音が増え、囁きは抑えられ、視線だけが忙しく交錯している。何かが起きる前触れは、音よりも沈黙として現れるものだと、城に長く仕える者ほど知っていた。
マクシミリアン王太子は、その沈黙を「反省」と解釈していた。
「ようやく皆、落ち着いたようだな」
執務机の前でそう言い、彼は満足げに頷く。側近たちは、相変わらず言葉を選んだまま、肯定も否定もしない。王太子はそれを同意と受け取った。
「教会も、公爵家も、最終的には折れる。
国は、王の意思で動くものだ」
その言葉が空に溶ける一方で、王城の別室では、まったく異なる話が進んでいた。
国王の前に並ぶのは、宰相、財務卿、そして教会から派遣された代理司教。誰も声を荒げない。感情はここには不要だった。
「王太子の婚約破棄は、教会として無効です」
代理司教の言葉に、国王は目を閉じる。
「……分かっている」
「加えて、各公爵家から“契約破棄に対する正当な補償要求”が提出され始めています」
宰相が淡々と報告する。
「要求は、武力ではありません。
条約に基づく、財政・軍事の再配分。
拒否すれば、同盟は自動的に解消されます」
国王は、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり……」
「王太子個人の判断を、王家全体の意思として認めるかどうか。
それが問われています」
沈黙。
そして国王は、短く答えた。
「王家は、国家であって、感情ではない」
それは、結論だった。
一方、ルクレツィア・ボルジア男爵令嬢は、王城の庭園で朝の散策を楽しんでいた。
白いドレスに身を包み、控えめな微笑みを絶やさず、通り過ぎる者すべてに丁寧な挨拶を返す。
「まあ、ルクレツィア様。最近はお忙しそうですね」
貴族令嬢の一人が声をかける。
「そんなこと……ただ、殿下のお力になれればと思っておりますの」
いつもの台詞。
だが相手は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……そう、ですか」
ルクレツィアは、その違和感に気づかない。
周囲の空気が変わった理由を、彼女は「嫉妬」だと信じていた。
(皆、受け入れられないのね)
(でも、真実の愛は、必ず勝つ)
その確信は、彼女を軽やかにさせる。
昼前、王城の回廊で、ルクレツィアはイザベル・ド・エノー公爵令嬢とすれ違った。
「ごきげんよう、イザベル様」
彼女は、完璧な礼をとる。
声は柔らかく、態度は謙虚。外面だけ見れば、非の打ち所はない。
「ごきげんよう」
イザベルは立ち止まらない。
視線も合わせない。
その態度に、ルクレツィアの胸に小さな苛立ちが生まれる。
(……最後まで、強がっているのね)
だが、次の瞬間、その苛立ちは別の感情に塗り替えられた。
周囲の者たちが、イザベルに対してだけ、明確な敬意を払っていることに気づいたのだ。
深く頭を下げる者、道を譲る者、声を潜める者。
(……なぜ?)
答えは、すぐに示された。
午後、王城に正式な通達が出る。
「本日付をもって、
王太子マクシミリアン殿下の婚約破棄に関する件は、
教会および諸公爵家との協議対象とする」
その一文は、短い。
だが意味は重い。
ルクレツィアは、読み終えた瞬間、胸の奥に冷たいものを感じた。
「……協議?」
それは祝福ではない。
承認でもない。
彼女の背後で、侍女が息を呑む音がした。
「ルクレツィア様……」
「大丈夫よ」
彼女は、微笑もうとする。
「少し形式的な手続きが必要なだけ。
殿下が選ばれたのは、わたくしですもの」
だが、その声はわずかに震えていた。
同じ頃、エノー公爵邸では、イザベルが父と向き合っていた。
「教会は、正式に王太子の判断を否定しました」
「予想通りだ」
「各公爵家も、同時に要求を提出しています」
エノー公爵は、頷く。
「よい。
これで、責任の所在は明確になった」
「……ルクレツィア・ボルジア男爵令嬢は」
「切り捨てられる」
即答だった。
「王家にとっても、教会にとっても、
最も処理しやすい存在だ」
イザベルは、何も言わない。
同情も、拒否もない。
それは、彼女の問題ではなかった。
夜、王太子のもとに呼び出しがかかる。
国王の執務室。
「マクシミリアン」
父の声は、疲れていた。
「お前の“真実の愛”は、国家を揺るがした」
「父上……」
「もう、守れない」
その言葉に、王太子は初めて、理解できないものを見る目をした。
「……何をおっしゃっているのです?」
国王は答えない。
答える必要がないからだ。
同じ夜、ルクレツィアのもとにも、呼び出しが届く。
内容は簡潔だった。
「事情聴取に応じること」
彼女は、その紙を握りしめ、震える指を必死に抑えた。
(違う……)
(わたくしは、選ばれたの……)
だが、王城の沈黙は、もう彼女を祝福していなかった。
それは――
切り捨てるための、静かな準備だった。
王城の朝は、いつもより早く始まっていた。
廊下を行き交う足音が増え、囁きは抑えられ、視線だけが忙しく交錯している。何かが起きる前触れは、音よりも沈黙として現れるものだと、城に長く仕える者ほど知っていた。
マクシミリアン王太子は、その沈黙を「反省」と解釈していた。
「ようやく皆、落ち着いたようだな」
執務机の前でそう言い、彼は満足げに頷く。側近たちは、相変わらず言葉を選んだまま、肯定も否定もしない。王太子はそれを同意と受け取った。
「教会も、公爵家も、最終的には折れる。
国は、王の意思で動くものだ」
その言葉が空に溶ける一方で、王城の別室では、まったく異なる話が進んでいた。
国王の前に並ぶのは、宰相、財務卿、そして教会から派遣された代理司教。誰も声を荒げない。感情はここには不要だった。
「王太子の婚約破棄は、教会として無効です」
代理司教の言葉に、国王は目を閉じる。
「……分かっている」
「加えて、各公爵家から“契約破棄に対する正当な補償要求”が提出され始めています」
宰相が淡々と報告する。
「要求は、武力ではありません。
条約に基づく、財政・軍事の再配分。
拒否すれば、同盟は自動的に解消されます」
国王は、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり……」
「王太子個人の判断を、王家全体の意思として認めるかどうか。
それが問われています」
沈黙。
そして国王は、短く答えた。
「王家は、国家であって、感情ではない」
それは、結論だった。
一方、ルクレツィア・ボルジア男爵令嬢は、王城の庭園で朝の散策を楽しんでいた。
白いドレスに身を包み、控えめな微笑みを絶やさず、通り過ぎる者すべてに丁寧な挨拶を返す。
「まあ、ルクレツィア様。最近はお忙しそうですね」
貴族令嬢の一人が声をかける。
「そんなこと……ただ、殿下のお力になれればと思っておりますの」
いつもの台詞。
だが相手は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
「……そう、ですか」
ルクレツィアは、その違和感に気づかない。
周囲の空気が変わった理由を、彼女は「嫉妬」だと信じていた。
(皆、受け入れられないのね)
(でも、真実の愛は、必ず勝つ)
その確信は、彼女を軽やかにさせる。
昼前、王城の回廊で、ルクレツィアはイザベル・ド・エノー公爵令嬢とすれ違った。
「ごきげんよう、イザベル様」
彼女は、完璧な礼をとる。
声は柔らかく、態度は謙虚。外面だけ見れば、非の打ち所はない。
「ごきげんよう」
イザベルは立ち止まらない。
視線も合わせない。
その態度に、ルクレツィアの胸に小さな苛立ちが生まれる。
(……最後まで、強がっているのね)
だが、次の瞬間、その苛立ちは別の感情に塗り替えられた。
周囲の者たちが、イザベルに対してだけ、明確な敬意を払っていることに気づいたのだ。
深く頭を下げる者、道を譲る者、声を潜める者。
(……なぜ?)
答えは、すぐに示された。
午後、王城に正式な通達が出る。
「本日付をもって、
王太子マクシミリアン殿下の婚約破棄に関する件は、
教会および諸公爵家との協議対象とする」
その一文は、短い。
だが意味は重い。
ルクレツィアは、読み終えた瞬間、胸の奥に冷たいものを感じた。
「……協議?」
それは祝福ではない。
承認でもない。
彼女の背後で、侍女が息を呑む音がした。
「ルクレツィア様……」
「大丈夫よ」
彼女は、微笑もうとする。
「少し形式的な手続きが必要なだけ。
殿下が選ばれたのは、わたくしですもの」
だが、その声はわずかに震えていた。
同じ頃、エノー公爵邸では、イザベルが父と向き合っていた。
「教会は、正式に王太子の判断を否定しました」
「予想通りだ」
「各公爵家も、同時に要求を提出しています」
エノー公爵は、頷く。
「よい。
これで、責任の所在は明確になった」
「……ルクレツィア・ボルジア男爵令嬢は」
「切り捨てられる」
即答だった。
「王家にとっても、教会にとっても、
最も処理しやすい存在だ」
イザベルは、何も言わない。
同情も、拒否もない。
それは、彼女の問題ではなかった。
夜、王太子のもとに呼び出しがかかる。
国王の執務室。
「マクシミリアン」
父の声は、疲れていた。
「お前の“真実の愛”は、国家を揺るがした」
「父上……」
「もう、守れない」
その言葉に、王太子は初めて、理解できないものを見る目をした。
「……何をおっしゃっているのです?」
国王は答えない。
答える必要がないからだ。
同じ夜、ルクレツィアのもとにも、呼び出しが届く。
内容は簡潔だった。
「事情聴取に応じること」
彼女は、その紙を握りしめ、震える指を必死に抑えた。
(違う……)
(わたくしは、選ばれたの……)
だが、王城の沈黙は、もう彼女を祝福していなかった。
それは――
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