働かないつもりでしたのに、気づけば全部うまくいっていました ――自由に生きる貴族夫人と溺愛旦那様』

鷹 綾

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第36話「働かない覚悟を、もう一段階上げました」

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第36話「働かない覚悟を、もう一段階上げました」


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 その朝、セーラは珍しく早起きをしていた。

 ――とはいえ、理由は単純だ。

 「……来る前に逃げますわ」

 窓の外を見ながら、彼女は真顔でそう呟いた。


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 昨日から、屋敷の来客予定表が明らかにおかしい。

 ・地方貴族代表
 ・商業ギルド視察団
 ・王都学術院関係者

 しかも備考欄には、こう書かれている。

 〈奥様の“何もしない姿勢”について伺いたい〉

 「何もしないことを、どう説明しろと……」

 セーラは、紅茶を一口飲んで深いため息をついた。


---

 そこへ、執事長が静かに入室する。

 「奥様、本日の来客ですが」

 「聞いていますわ」

 「対応なさいますか?」


---

 セーラは、一瞬だけ考え――首を横に振った。

 「いいえ」

 「今日は、“対応しない日”にします」


---

 執事長は、わずかに目を見開いたが、すぐに頷いた。

 「承知しました」

 「来客には?」

 「こう伝えます」


---

 セーラは、淡々と言った。

 「“奥様は、対応を必要としない状態を完成させました”」


---

 その言葉を聞いた執事長は、一瞬固まり――深く一礼した。

 「……恐れ入りました」


---

 午前。

 セーラは、庭の奥にある小さな温室にいた。

 仕事道具は何もない。  本も帳簿も持っていない。

 ただ、花の手入れをしているだけ。


---

 「……これですのよ」

 彼女は、咲きかけの花を眺めながら思う。

 「これが、私の本来の望み」


---

 そこへ、リチャードがやってきた。

 「逃げたな?」

 「戦略的撤退ですわ」

 セーラは、悪びれずに微笑む。


---

 「今日は、完全に“何もしない”日です」

 「相談も?」

 「受けません」

 「助言も?」

 「しません」


---

 リチャードは、しばらく彼女を見つめ――ふっと息を吐いた。

 「……なるほど」

 「ついに、責任すら手放す気か」


---

 セーラは、はっきりと言った。

 「ええ」

 「私はもう、“最後の判断役”ですらありません」


---

 「人は、“最後に聞けばいい人”がいると、成長しませんの」

 「だから私は、最終判断席を空席にした」


---

 リチャードは、静かに頷いた。

 「それは……勇気がいる選択だな」

 「前世では、できませんでしたから」


---

 セーラは、少しだけ表情を和らげた。

 「“誰かに必要とされる”ことを、
  自分の存在価値だと思っていました」

 「でも今は違います」


---

 「必要とされなくても、
  私はここにいていい」


---

 昼。

 屋敷の中は、少しざわついていた。

 来客たちは戸惑い、議論し、最終的には引き返していく。

 “奥様は不在ではないが、対応もしない”

 その事実だけが、残された。


---

 午後。

 商業ギルドから、短い報告が届く。

 〈本日は、自分たちで判断しました〉

 追記。

 〈意外と、問題ありませんでした〉


---

 セーラは、それを読んで、くすっと笑った。

 「でしょう?」


---

 夕方。

 リチャードと並んで、庭のベンチに座る。

 「……世界は、壊れなかったな」

 「壊れませんわ」

 「むしろ、少し落ち着いた」


---

 セーラは、夕焼けを眺めながら言った。

 「人は、“頼れる存在”がいなくなった時、
  本当の意味で立ち上がるのです」


---

 夜。

 寝室で、彼女は静かに呟いた。

 「働かない覚悟って……」

 「“何もしない自分を、信じること”なのですね」


---

 リチャードは、そっと彼女の手を握る。

 「君は、もう十分やった」

 「だから、今は休め」


---

 セーラは、小さく微笑んだ。

 もう、戻らない。

 もう、前には出ない。

 それでも、世界は回っている。


---

 働かないという選択は、
  ついに“完成形”に入った。

 セーラはその確信を胸に、静かな眠りへと落ちていった。
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