『婚約破棄されたので、元婚約者の「理想の聖女」を育ててみた結果』

鷹 綾

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第20話 もう一度、名前で呼ばれる日が来るとしても

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第20話 もう一度、名前で呼ばれる日が来るとしても

 王都に、春の兆しが見え始めていた。

 市場に並ぶ野菜が少しずつ増え、
 人々の足取りも、心なしか軽い。

 ――季節は、誰を待つこともなく進む。

    ◇

 私は、自分の屋敷で一通の手紙を書いていた。

 宛名は、学院時代の恩師。
 内容は、研究補助の申し出。

 聖女補佐官としての経験を、
 制度ではなく、知識として残したいと思ったのだ。

「……肩書きがなくても、できることはある」

 それは、今回の一連の出来事で得た、
 私自身の答えだった。

    ◇

 離宮では、ミリエラが新しい日課を始めていた。

 週に一度、子どもたちと過ごす時間。
 祈りではなく、話を聞くための時間。

「……ねえ、聖女さま」

「“さま”はいりません」

 そう言って、彼女は笑う。

「じゃあ……ミリエラさん」

 その呼び方に、彼女は少しだけ戸惑い、
 それから、嬉しそうに頷いた。

 奇跡は起きない。
 けれど、誰も不安にならない。

    ◇

 王宮では、エドワルド殿下が、久しぶりに一人で書庫にいた。

 誰にも指示されず、
 誰からも期待されないまま。

 棚の奥から、古い記録を引き抜く。

 ――歴代聖女の失踪記録。
 精神崩壊。
 短命。

「……そういうこと、だったのか」

 初めて、
 自分が“異常を正常だと思い込んでいた”可能性に、
 思い至る。

 だが、それを誰かに告げることはしない。

 彼にはもう、
 告げる立場も、
 それを聞いてもらえる場所もない。

    ◇

 夕方、私は散歩の途中で、
 偶然、王太子とすれ違った。

 一瞬、互いに足を止める。

 人目のない、静かな通り。

「……リュシア」

 久しぶりに、
 肩書きではなく、名前で呼ばれた。

「はい」

 それだけで、十分だった。

 彼は、何か言いかけて――
 結局、言葉を飲み込む。

「……元気そうだな」

「ええ」

 会話は、それ以上続かなかった。

 謝罪もない。
 和解もない。

 ただ、
 もう互いの人生に、踏み込まないという確認。

    ◇

 夜。

 離宮の窓辺で、ミリエラは月を見上げていた。

「……もし、いつか」

 彼女が、ぽつりと呟く。

「聖女じゃなくなっても、
 私、ここにいていいんですよね」

「ええ」

 私は、即答する。

「名前で呼ばれる場所は、
 役目が終わっても、残ります」

 彼女は、ほっとしたように微笑んだ。

    ◇

 世界は、もうざまぁを求めていない。

 誰かを引きずり下ろす物語は、
 すでに終わった。

 残ったのは――
 選び直した人間たちの、その後。

 私は、静かに思う。

 本当の終わりは、
 誰かが罰せられた時ではない。

 ――もう一度、
 名前で呼ばれる日が来ると信じて、
 それぞれが歩き出した、その瞬間なのだと。
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