婚約破棄された有能令嬢ですが、もう誰の役にも立ちません 〜静かな引退と、無口公爵の見守り溺愛〜にも立ちません

鷹 綾

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第12話 選ばれた場所

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第12話 選ばれた場所

 使者の馬車が完全に視界から消えたあとも、クレイン公爵邸の空気は変わらなかった。

 誰かが安堵の声を漏らすこともなく、誰かが彼女を称えることもない。
 ただ、いつも通りの午後が、淡々と流れていく。

 それが、アデリーナ・フォン・グラーフには心地よかった。

 執務棟へ戻る途中、回廊の窓から中庭を見下ろす。兵士たちは規則正しく持ち場を巡回し、補給係は倉庫の前で帳簿を確認している。
 一つひとつの動きに、無駄がない。

 ここでは、誰もが自分の役割を理解している。

 王都では、それができていなかった。
 いや、できないようにされていたのだと、今なら分かる。

 執務室に入ると、すでに新しい書類が机の上に積まれていた。

「今日の分だ」

 バルトロメウス・フォン・クレイン公爵が、短く告げる。

「北側領境の報告と、来月分の備蓄計画。
 一度、全体を見直したい」

「承知しました」

 アデリーナは自然に席に着き、書類に手を伸ばした。

 少し前まで、王都からの呼び戻しがあったという事実は、彼女の中で大きな意味を持っていた。
 だが今は、それを引きずる気持ちはない。

 ここに座り、ここで判断を重ねること。
 それ自体が、答えだった。

 北側領境の報告は、治安と物流が絡む複雑な内容だった。山間部での盗賊被害、補給路の老朽化、冬季に向けた備え。
 一つでも判断を誤れば、領民の生活に直結する。

 アデリーナは、地図を広げながら考えをまとめていく。

「この地域ですが」

 静かに口を開く。

「盗賊対策として巡回を増やすより、補給路そのものを一部変更した方が効果的です。
 人目につきやすい経路に誘導すれば、被害は自然と減ります」

 側近の一人が、地図を覗き込む。

「距離は少し延びますが……」

「延びますが、整備が容易です。
 結果的に、維持費は抑えられます」

 説明は、簡潔だった。

 バルトロメウスは、数秒だけ考え、頷いた。

「採用する」

 それだけで、結論が出る。

 王都でなら、ここからが長かった。
 誰の提案か、誰の功績か、誰の顔を立てるか。

 だが、ここでは違う。

 判断が早いからこそ、次の一手に進める。

 昼を過ぎ、執務が一段落した頃、若い文官が遠慮がちに声をかけてきた。

「……失礼します」

「どうしましたか」

「王都からの使者の件ですが……
 皆、噂には聞いています」

 その言葉に、アデリーナは少しだけ目を上げた。

「何か、問題がありますか」

「いえ。ただ……」

 文官は言葉を選びながら続ける。

「戻るのではないか、と思っていた者もいました。
 正直に言えば、不安もありました」

 その率直さに、アデリーナは微笑んだ。

「そうですよね。
 急にいなくなれば、困ります」

 文官は慌てて首を振る。

「いえ、その……困るというより……」

 言い淀む彼に、アデリーナは穏やかに言った。

「私は、ここにいると決めました。
 少なくとも、今は」

 その言葉に、文官の表情が和らぐ。

「……ありがとうございます」

 何に対する感謝かは、言葉にされなかった。
 だが、それで十分だった。

 夕刻。

 執務を終えた後、アデリーナは中庭を歩いていた。
 風は冷たくなり始め、季節の移ろいを感じさせる。

 兵士の一人が、軽く頭を下げる。

「本日の補給計画、現場に伝わっています」

「問題はありませんでしたか」

「はい。混乱もなく」

 それだけのやり取り。
 だが、その短い会話に、確かな信頼が滲んでいた。

 夜。

 部屋に戻り、灯りをつける。

 机の上には、今日使った地図と覚え書き。
 王都で使っていた豪奢な調度品は、ここにはない。

 だが、不足は感じなかった。

 椅子に腰を下ろし、静かに息を吐く。

 呼び戻しの話が来たとき、迷いがなかったと言えば嘘になる。
 長く過ごした場所であり、かつては自分の役割だと信じていた場所だった。

 それでも、断れた。

 それは、強くなったからではない。
 ただ、自分がどこで生きているのかを、理解したからだ。

「……私は、ここを選んだ」

 声に出すと、不思議と胸が落ち着いた。

 選ばれるのではなく、選ぶ側に立つ。
 それは、王都では決して得られなかった感覚だ。

 クレイン公爵邸では、必要な仕事があり、必要な判断があり、必要な責任がある。
 そこに、無駄な飾りはない。

 アデリーナは、静かに目を閉じた。

 追放された令嬢として始まった日々は、
 いつの間にか、自分の意思で立つ場所を選ぶ物語へと変わっていた。

 そしてその選択は、
 王都との距離を、もう決定的なものにしている。

 戻れないのではない。
 戻らないと、決めたのだ。

 選ばれた場所は、ここだった。
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